26 黒い壁
月を呑んだ黒い幕が星空を浸食していく。
アッチーノ要塞をまたいで反対側に幕を下ろした。
……特に音とかはしない。
静寂と暗黒。
舌平目のムニエルになって銀の蓋を内側から見上げると、こんな感じだろうか。
「おい! 囲まれちまったぞ……!」
「閉じ込められた! なんなんだよ、あれ!」
兵士たちの声が妙にこもって聞こえる。
風がピタリと止んだ。
どうも完全に包囲されたらしい。
湿った雑巾みたいな臭いがだんだん強くなっていく。
「査察官殿、貴殿は『黒き死』と申されたな」
ヨーザンは死人の名を聞いたような顔をしている。
リュネットが瞳を揺らして言った。
「六怪が一角『黒き死』……。その正体がなんであったのか、たしかな記録は残されていません。ですが、伝承にある特徴はこの現象と驚くほど酷似しているのです」
月を食らう黒、か。
勇者伝説なんて歴史のあるフィクションくらいに思っていたが、これを見せられた後では笑えない。
「なんだか知らぬが、眺めておくわけにはいかん」
スーッ、とヨーザンが息を吸い込んだ。
「総員、戦闘配置! 対・大型魔物用迎撃陣形を組め! アッチーノ要塞を死守せ――」
「ぎゃあああ!?」
悲鳴。
兵士が一人、肩口を押さえてのたうち回っている。
皮膚が溶けていた。
鎖骨が覗くほどに。
着ていた鎧も泥のように崩れている。
ザアァァァ、と。
急に雨音がした。
俺の頬を何かがかすって、激痛がする。
石畳の上に煮詰めた醤油みたいな黒い液体が付着していた。
そこに穴があいた。
タバコの火を押しつけられた半紙のように石材に穴があいていた。
そこら中、黒い雨が降っている。
俺は叫んだ。
「酸の雨です!」
「退避……ッ!」
兵士たちが我先にと走り出した。
1000人はいる。
全員が隠れられるスペースはない。
俺は持ち合わせの種を一斉に芽吹かせた。
緑の屋根を広げる。
それもあっという間に虫食いになる。
「コニファー! 打ち上げ花火みたいな魔法ないですか!?」
俺はキテレツな格好をした少女に叫んだ。
「今、魔力を練っているところよ! 黙って見てなさい!」
杖の先が赤熱。
「――大爆破!」
ひゅるるるる、と空に火の玉が上がり、真っ赤に爆ぜる。
魔力のすべてを爆発力に置き換えるという、破壊のみを追求した花火。
ゆえに、威力は絶大。
黒い幕に大穴があき、要塞上空に星空が戻った。
雨が止む。
しかし、依然、四方を囲まれたままだ。
俺は地面に落ちた黒いものを枝ですくい上げた。
枝がぶすぶす溶ける。
鎧も石も溶かす黒い粘体。
「これ、ゴブリンの矢毒に似ていますね……」
黒酸粘魔種の酸毒……。
ゴブリンたちの矢に塗られていたスライムの粘液にそっくりだった。
「……まさか」
ハッとした。
酸の雨粒。
黒い幕。
「全部スライムなのか?」
「なんだと?」
ヨーザンがいかめしい顔で凝視してくる。
「スライムなど雑魚魔物の代名詞ではないか。否、魔物と呼ぶのも憚られる。あんなものはドブ川のヘドロと変わらぬ」
「それもそうですが、ヘドロでも量が量で、強酸性で、おまけに動いて襲いかかってきたら脅威ですよ。かなり」
守備隊の兵士を呑み込んだという黒い水。
肉が消え、骨だけになり、骨も砂みたいに崩れて消えた。
似た光景を荘園で見たことがある。
畑に出たスライムが野菜や虫を呑み込み、砂みたいに溶かすのを。
「黒酸粘魔種の変異個体……って感じでしょうか。要塞丸呑みとか前代未聞ですけど」
「いえ。前例ならあります」
ちゃきり、とリュネットが若手研究者っぽく口を挟む。
「伝説にある『黒き死』は一夜で国ひとつを呑んでいるのですよ。しかし、あれはかつての勇者様が討滅されました。転生したとでもおっしゃるのでしょうか?」
リュネットの声には、信じてやまない学説を外野に否定されたような苛立ちがまじっている。
別に信仰心に唾を吐くつもりはない。
いち可能性を述べたまで。
重要なのはそこではない。
「敵の正体なんてどうでもいいのよ。問題は、ここをどう切り抜けるかよ」
コニファーが言いたいことを全部言ってくれた。
「ならば、仮にスライムと仮定しよう。倒すには核を潰すほかない。しかし、これだけ巨大となると……」
ヨーザンはさっそく頭を抱えている。
「撤退するよりほかにないか。しかし、ここで討たねば、これはさらに大きくなるぞ。核を分け、数まで増やされては手の打ちようがなくなる」
スライムの無限増殖。
その果てには、国ひとつが滅びるシナリオもあるわけか。
いよいよ、伝説の再来だ。
「おい、動いているぞ……!」
「ち、近づいてくる! うわああ!」
そんな声があちこちで上がった。
黒い壁が包囲の輪を狭めている。
上から溶かすのではなく、四方から溶かす作戦に切り替えたらしい。
包囲が狭まれば、延びている黒い壁も肉厚になっていく。
脱出がより困難になる。
「コニファー! 退路を開けますか!?」
「壁に穴をあけても上から新しいのが下りてくるだけよ。城門みたいにね。ちなみに、王都屈指の天才で知られた私でも、大きな魔法はあと1発で打ち止めよ。私の稀少性がより上がったわね」
コニファーが意味不明なロジックでドヤるので、俺は少し冷静になれた。
「緑の壁で対抗します!」
城壁を支えにして植物を生やす。
全方位、壁面緑化で黒い壁に対抗する。
「あなた、なんて魔力量してるのよ……」
とコニファーが瞠目した。
「でも、あんまり意味はなさそうですね」
緑だった壁は早くも茶色くなりかけている。
スライムは植物も食べる。
前菜をやっただけかもしれない。
「……」
俺はちょっと笑った。
銀の蓋の内側にいると思っていたが、まさか、すでに胃の中にいたとは。
胃壁が迫ってきたら終わりだ。
骨も残らない。
「これならどうだ?」
俺はスリングショットで氷結ゴケを植え付けた。
城壁にそってぐるりと。
冷気のミストが白い滝みたいに流れ落ちてくる。
「お?」
黒い壁の進行がぴたりと止まった。
水分量が多そうな奴だ。
氷点下は怖いと見た。
「派手な氷魔法もあるわよ? 10……いえ、20分の1くらいなら氷のオブジェにできるわ」
「その中に核がある確率は5%ですか」
「あら、素敵よケルン。計算ができて偉いわね。さすが私の従者だわ。その賢いおつむで早くなんとかしなさいよ」
胸倉を掴んで揺さぶられる。
コニファーの作戦は賭けの要素が強い。
核を見つけないことには踏み切れない。
それに、母核を潰せても分核があれば、プラナリアのように再生する。
これほど大きいと分核がいくつあるかわからない。
「……」
ふと自分の中でパチリとはまるものがあった。
やはり、『黒き死』はスライムだったのだろう。
勇者に討滅されても、分核さえ残っていれば再生できる。
難を逃れた小さな断片が長い歳月をかけてかつての威容を取り戻したのだ。
まあ、推測の域は出ないが。
ワッ、とどよめきが起きた。
黒い壁から長いものが伸びていた。
それは冷気の垣根を越えて、蛇みたいにうねった。
次の瞬間には、リュネットを叩いていた。




