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『薬師令嬢は二度目の人生で真実を選ぶ』  作者: 九十九 文


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9/12

第九話 剥離する仮面、混濁する祈り

■ 一


 地下調剤室の朝は、地上より三十分遅れてくる。


 石の壁を通じて届く光は、直接の太陽ではなく、廊下の高窓から反射して落ちるものだ。だから朝の輪郭が曖昧で、夜との境界がふわりと溶けている。私はその境界の時間が好きだった。前世でも今世でも、最も頭が動くのはこの時間帯だった。


 フローラが寝息を立てている。


 昨夜からここにいる。昨夜の「準備段階」——カモミールとローズマリーの香りを焚いた三十分——の後、彼女はランプの灯りの前でいつの間にか眠っていた。私は毛布をかけて、調剤室の床に座って朝を待った。


 眠らなかった。


 眠れなかったのではない。眠る必要がないと判断した。今日投与する逆トリガーの最終確認を、眠るより優先した。


 「確認事項——六点」と私は小声で言った。


 一。活性炭と月蝕草複合抽出液の安定性確認——良好。二。カモミール揮発製剤の残量——十分。三。中和酵素の分割投与量の計算——三・三ミリリットルを四分割。四。音律羊皮紙の朗読担当——レオンハルトに連絡済み。五。心拍モニタリング——手首で実施。六。緊急時の拮抗処置——月蝕草抽出液の追加投与用意。


 全て準備している。


 しかし成功率は、まだ六十二パーセントだ。


 澱を含む中和酵素の「変性タンパク質が撹乱剤として機能する」という仮説は、私の推論に過ぎない。その仮説が正しければ成功率は上がる。間違っていれば、下がる。


 「下がる可能性を、今日は考えない」と私は言った。


 考えてもできることが変わらない仮説は、行動の前に処理する必要がない。それは前世で学んだ薬師の判断術だ——ベルクが教えたことだ。彼の教えの中で、今も使えるものは使う。


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■ 二


 フローラが目を覚ましたのは、朝の六時過ぎだった。


 「……ここ、調剤室だっけ」と彼女は言った。声がかすれていた。


 「おはよう、フローラ」と私は言った。「よく眠れた?」


 「うん……なんか、夢を見た気がする」


 「どんな夢」


 「忘れちゃった。でも——」彼女は少し間を置いた。「良い匂いの夢だった」


 (記憶の香りへの反応、継続している。)


 「今日は、少し変わった実験をするよ」と私は言った。「怖くないから、安心して」


 「怖い?」とフローラが言った。「なんで怖くなるの」


 「薬を少し飲んでもらう。苦いかもしれないけれど、体に害はないから」


 「苦いの」


 「カモミールのお茶に混ぜる。少しは誤魔化せると思う」


 「……うん」とフローラは言った。


 「じゃあ、まずお茶を作るね」


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■ 三


 お茶を作りながら、私は第一層の投与準備をした。


 カップの中にカモミール茶を注ぐ。そこに活性炭と月蝕草複合抽出液を〇・八ミリリットル加える。液体は無色だ。お茶の色に溶けて見えなくなる。


 次に揮発製剤を陶器の皿に乗せ、ランプで温める。カモミールとローズマリーの揮発成分が、部屋に静かに広がっていく。昨日と同じ香りだ——フローラの神経が「この匂いは安全だ」と認識し始めているはずだ。


 フローラにカップを渡した。


 彼女はお茶を一口飲んだ。少し眉をひそめた。「ちょっと苦い」


 「うん、ごめんね。もう少しだけ飲めそう?」


 「飲める」と彼女は言って、続けた。


 私はフローラの右手首に指を当てた。「脈を取るね。薬師の基本的な確認だから」


 「いいよ」


 拍動数を数えた。一分間に八十二拍。正常値だ。十歳児の基準値は七十から百の間なので、問題ない。皮膚の温度——普通。発汗——なし。


 (第一層の投与開始。生体反応、正常範囲内。)


 「フローラ」と私は言った。「何か感じたら、すぐに言ってね。頭が重いとか、気持ち悪いとか」


 「うん」


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■ 四


 第一層の効果が出始めたのは、投与から二十分後だった。


 フローラの目が、少し揺れた。


 揺れた、というのは——焦点が一瞬だけ乱れた、という意味だ。香炉のアルカロイドが神経系に作っていた「受容体の開放状態」が、活性炭の吸着作用によって徐々にブロックされていく。その過程で、人工的に保たれていた「安定した暗示の状態」が乱れる。


 それが目の揺れとして出ている。


 「……なんか、ふわふわする」とフローラが言った。


 「大丈夫。少しの間だから」


 「うん」


 「今から、別の薬を少し加える。これも苦いかもしれないけれど、必要なものだから」


 第三層の準備だ。中和酵素を一・二ミリリットル——全量の最初の分割投与——カップに残っているお茶に加えた。澱を含む液体は、かすかに白濁して見えた。


 (澱の撹乱効果、この時点では不明。様子を見る。)


 フローラが飲んだ。


 三十秒後。


 彼女が「頭が、痛い」と言った。


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■ 五


 頭痛は予想していた。


 変性タンパク質が神経系に接触する際、免疫反応に近い軽度の炎症が起きる。これが頭痛の原因だ。通常の酵素製剤でも微量の頭痛は起きる——問題はその強度と継続時間だ。


 「どのくらい痛い?」と私は聞いた。「一が全く痛くない、十が今まで一番の痛みだとして」


 フローラは少し考えた。「……三か、四くらい」


 「三か四。軽度だ。続くかもしれないけれど、悪化したらすぐに言って」


 「うん。……なんか、変な感じ」とフローラは言った。「頭の中に、知らない言葉が浮かんでくる」


 私の手が、少しだけ止まった。


 「どんな言葉」


 「……『薬は、正しき者の手にのみ宿る』って。なんでこんなの知ってるんだろ、私」


 ベルクの第一原則だ。フローラの神経に刻み込まれた文句が、酵素によって撹乱されて表層に浮かび上がっている。


 (第三層の初期反応を確認。洗脳の内容が意識化されている——治療の進行証拠。)


 「その言葉、どこで覚えた?」と私は穏やかに聞いた。


 「わからない」とフローラは言った。「……なんか、おじさんが言ってた気がする。夢の中みたいな、遠い記憶」


 「うん。それは今から消えていく言葉だよ」


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■ 六


 第二回の分割投与は、一時間後に行った。


 フローラの頭痛は「三から四」を維持していた。悪化していない——それで十分だ。脈拍は八十七に上がっていたが、まだ正常範囲内だ。


 しかし。


 二回目の投与から十五分後、変化が起きた。


 フローラの身体が、震えた。


 細かい振戦——手指、腕、そして肩へと広がる。震えは筋肉の制御が乱れている証拠だ。変性タンパク質が神経伝達に干渉している。予測していた反応だが、実際に見ると——。


 (感情の観測。焦燥——推定六十パーセント。)


 「フローラ、寒い?」と私は聞いた。


 「寒くない。でも……震えてる」と彼女は言った。自分の手を見ていた。「止まらない」


 「止まるよ。今から毛布をかけるね」


 毛布を肩にかけた。体温の維持が優先だ。震えは迷走神経の過剰活性化でも出ることがある——月蝕草の幼苗を噛んだ時の私の経験と同じメカニズムだ。副交感神経が過度に刺激されると、横紋筋の制御が一時的に乱れる。


 「お姉ちゃん」とフローラが言った。


 「なに」


 「怖い」


 私は彼女の手を握った。


 震えが、指から私の手のひらに伝わってきた。


 (感情の観測。焦燥——六十五パーセント。罪悪感——二十五パーセント。冷徹な観測——十パーセント。)


 「大丈夫だよ」と私は言った。


 嘘ではない——そう信じていたい。


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■ 七


 その時、調剤室の空気が変わった。


 温度ではない。気圧でもない——しかし何かが、変わった。揮発製剤の香りが、一瞬だけ別の成分に上書きされたような気がした。


 ラベンダーの匂いだ。


 人工的に、濃く調整された、あの「隠蔽用」のラベンダーの匂い。


 王宮薬草園の香炉と同じ構造の匂いだ。


 (……どこから?)


 私は素早く室内を見回した。換気口。壁の隙間。扉の下。


 換気口から、かすかに届いている。


 外から——誰かが。


 「フローラ」と私は言った。素早く、しかし声を荒げずに。「今から深呼吸しないで。鼻で浅く呼吸して」


 「えっ?」


 「お姉ちゃんがこう言う時は従って。理由は後で説明する」


 フローラが頷いた。


 私は換気口の前に移動した。布切れを取り出して、口と鼻を押さえる。次に換気口をコルクで塞いだ——調剤室の設備として、異臭が入ってきた時のための処置道具だ。


 空気の流れが止まった。


 しかし、すでに少量は室内に入っていた。


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■ 八


 フローラが、顔を上げた。


 目の焦点が——変わった。


 さっきまでの「酵素による撹乱状態」の、揺れた目ではない。もっと遠い、深い場所から見ている目だ。虚ろというより——「別の人間の目」だ。


 「エルナ」と彼女は言った。


 声が、違った。


 フローラの声帯が作っているのに、音の重みが違う。子供の声域にあるのに、言葉の裏に別の重さがある。


 私はその声を知っていた。


 二十年間、研究室で聞き続けた声の「質感」が——フローラの声に混じっていた。


 「ヨハン・フォン・ベルク」と私は言った。声を平坦に保った。「あなたが直接話しかけてくることができるなら——今まで何を待っていた」


 「待っていない」とフローラの口が言った。「観察していた」


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■ 九


 (感情の観測。恐怖——四十五パーセント。憤怒——三十パーセント。嫌悪——二十五パーセント。)


 私は感情の数値を確認し、全てを「保留」にした。今は使わない。


 「何を観察していた」と私は言った。


 「君が——どこまでやれるかを」とベルクの声が言った。「君はいつも、限界の手前で止まっていた。前世でも。この世でも。今日も——止まると思っていた」


 「止まっていない」


 「まだ途中だ」とベルクの声は言った。「第三の分割投与は、まだ残っている。あと二回。そして——その酵素には『二パーセントのリスク』がある」


 「知っている」


 「知りながら——本当に打てるか? フローラが死ぬかもしれない。この子は今、君の治療の途中で死ぬかもしれない。そしてもし死んだなら——君は『殺した』薬師になる」


 フローラの身体が、ぴくりと動いた。震えとは違う——もっと深い、筋肉全体の緊張だ。


 「それが——お前の『詰み』だよ、エルナ」とベルクの声は言った。「お前の処方箋は甘い。甘いから、こういう場所で止まる」


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■ 十


 私は、ベルクの声を聞きながら、フローラの脈を取っていた。


 九十一拍。まだ正常範囲内だ。皮膚温度——少し高い。微熱が出始めている。これは変性タンパク質への免疫反応だ。高熱になる前に——三回目の投与をするか、しないかを、今決めなければならない。


 (動揺——五十パーセント。自己疑念——三十パーセント。決意——二十パーセント。)


 「処理する」と私は小声で言った。


 「二パーセントのリスク」を「百パーセントの喪失」と天秤にかけない。


 投与しなければ、フローラは百パーセントの確率で「フローラでなくなる」。今日、ベルクの声が彼女の口を通じて届いたことがその証拠だ——洗脳は予定より速く進行している。


 投与すれば、九十八パーセントの確率でフローラが戻る。


 これは「損益計算」ではない。「生存の質」の問題だ。二パーセントのリスクを負う価値が、九十八パーセントの回復にある。


 「ベルク」と私は言った。「あなたは私を止めようとしている。方法は『私の良心』へのアプローチだ。よく考えられた手だ」


 「……」


 「しかし、私は今日——患者を選ぶ。あなたの評価ではなく、フローラの生存の質を」


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■ 十一


 三回目の投与をした。


 一・二ミリリットル。


 フローラの喉が動いた。飲み込んだ。


 十秒後——彼女の身体が、痙攣した。


 私は彼女を両腕で支えた。舌を噛まないように、頬を軽く押さえた。痙攣は三十秒で収まった。その間、脈を取り続けた。


 九十八拍。九十九拍。百二拍——。


 上がっている。頻脈だ。百二拍は上限に近い。しかしまだ「停止」ではない。


 (焦燥——六十パーセント。罪悪感——二十五パーセント。冷徹な観測——十五パーセント。)


 「フローラ」と私は呼んだ。「聞こえる?」


 返事がなかった。


 意識が薄れている——酵素が神経系全体に作用している段階だ。これは「リブート」の前段階だ。神経伝達の一時的な混乱が、意識の表面を覆っている。


 私はフローラの手を握り続けた。


 「聞こえなくていい。聞こえていなくていい。でも——お前の身体はここにある。私の手が、ここにある。それだけ覚えていて」


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■ 十二


 四回目の最終投与は、三十分後だった。


 フローラの脈は、百から九十五に下がっていた。身体のリブートが始まっている——神経系が「再起動」の方向へ向かっている。これは良い兆候だ。


 最後の〇・七ミリリットルを、お茶に溶かした。


 「フローラ、もう一回だけ飲める?」


 彼女がゆっくりと頷いた。意識は戻りかけている。目の焦点が、少しずつ手前に戻ってきていた。


 カップを口に当てた。ゆっくりと飲ませた。


 そこで——扉をノックする音がした。


 「エルナ嬢」とレオンハルトの声がした。「準備はいいか」


 「いい」と私は答えた。「入って」


 レオンハルトが入ってきた。音律の羊皮紙を手に持っている。彼の顔に、普段の傲慢さとは別の、今日だけの緊張がある。


 「読めばいいんだな」と彼は言った。


 「音程は関係ない。リズムを守ってくれれば。三拍子で——ゆっくり」


 レオンハルトは羊皮紙を広げた。


 読み始めた。


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■ 十三


 言葉が、部屋に広がった。


 私が設計した「逆トリガーの言葉」は、ベルクの教義を直接否定する文章ではない。フローラが幼い頃から知っていた言葉——家族の名前、薬草園の花の名前、母が呼ぶ時の呼び方——をリズムに乗せて並べたものだ。


 「本来の記憶」を呼び起こすための音律だ。


 フローラの表情が、変わり始めた。


 虚ろだった目に、何かが戻ってくる。最初は小さく——しかし確実に。懸命に戻ろうとしている何かが、薬剤と言葉の両方から引き出されていく。


 私は彼女の脈を取り続けた。


 九十。八十七。八十三——。


 脈が落ち着いている。神経系のリブートが、正しい方向に進んでいる。


 「お姉ちゃん……?」


 フローラが、自分の声で言った。


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■ 十四


 「ここにいる」と私は言った。


 「……なんか、変な夢を見てた気がする」とフローラは言った。「長い夢。暗くて——難しい言葉がいっぱいあって」


 「その夢は、もう終わったよ」


 「うん」


 「頭は痛い?」


 「……少し。でも、さっきより楽」


 レオンハルトが羊皮紙を閉じた。私は彼に目で礼を伝えた。彼は小さく頷いた。


 フローラが、私の手をゆっくりと握った。


 「お姉ちゃん、ありがとう」と彼女は言った。何に対しての感謝かは、おそらくフローラ自身も分かっていない。しかしその言葉は——本物だった。洗脳された声の重みではなく、普通の八歳の女の子の、素直な言葉だった。


 (感情の観測。安堵——三十五パーセント。疲弊——四十パーセント。冷徹な記録への回帰——二十五パーセント。)


 「しばらく眠ってて」と私は言った。「起きたらおやつを作るから」


 「うん」とフローラは言って、目を閉じた。


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■ 十五


 フローラが眠った後、私はレオンハルトと二人で調剤室に残った。


 「成功か」と彼は言った。


 「暫定成功」と私は答えた。「洗脳はブロックされた。しかし——」


 「しかし?」


 「完全除去には至っていない」


 フローラが眠りながら、小さく何かを呟いていた。「……薬は……正しき者……」と。ベルクの声の残響が、夢の中でまだ動いている。


 これは想定の範囲内だ。完全除去には、さらに時間がかかる。しかし今日の治療で「洗脳の進行は止まった」という確証を得た。


 「ベルクが、フローラを通じて話しかけてきた」と私は言った。


 レオンハルトの顔が動いた。「直接?」


 「声の質感だ。フローラの声帯を使っていたが、言葉の重みが違った。換気口から揮発性の触媒を入れて、フローラの神経を経由して話しかけてくるシステムだ——おそらく」


 「……対策は?」


 「換気口の封鎖は今日した。しかし根本的な対策には——ベルクとの直接の対話が必要だ。彼がフローラを通じてしか話せないなら、フローラを隔離すれば彼の手段は一つ減る。しかし直接対面できる状況を作れば——より多くの情報が取れる」


 「どちらを選ぶ」とレオンハルトは言った。


 「直接対話」と私は言った。「あなたの監査が、その機会を作る」


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■ 十六


 その夜、机の前に座った。


 禁断の保存庫の鍵が、月明かりに光っている。


 今日フローラを治療した。「甘くない処方箋」を書いた——ベルクが想定したような形で、エルナは止まらなかった。


 しかし。


 フローラの寝言が、耳の中に残っている。


 「……薬は……正しき者……」


 その言葉は、私が二十年間聞き続けた言葉でもある。ベルクが毎年弟子たちに教えた第一原則。私の神経にも、きっと同じように刻まれている。


 (……自分の中にも、残っているのだろうか。あの声が。)


 処理する。今夜は処理しない。保留にする。


 ノートを開いた。


 「治療進捗記録」と書いた。


 「フローラ:洗脳ブロック確認。進行停止。ただし声の残響あり。完全除去未達。継続治療が必要。」


 「次の段階:ベルクとの直接対話。場所:王宮薬草園——レオンハルトの監査を利用。」


 「残り時間:完全除去まで、推定五日以内。」


 ペンを置いた。


 今日の成功率は、六十二パーセントの予測を上回った。いや、正確には——成功と失敗の定義が変わった。「フローラが戻ってくること」は達成した。しかし「完全に戻る」という目標は、まだ途中だ。


 「まだ途中」というのは、前に進む余地があるということだ。


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                     (第九話・了)

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