第十話 師弟対峙、または禁忌の再定義
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■ 一
レオンハルトが監査を宣言したのは、翌々日の午前だった。
「王宮薬草園における設備の緊急点検——五十年前の禁忌技術の使用形跡調査」という名目で、薬草園の全区画への立入り調査権が、第三王子の権限によって発動した。
私はその朝、フローラを地下調剤室に残してきた。
フローラは昨日より明らかに良くなっていた。夕食を普通に食べた。朝に「おはよう」と言う声が、一日前より軽かった。しかし夜中に私が廊下を通ると、彼女の部屋から「……力ある者が……」という呟きが漏れていた。残響はまだ消えていない。
私は今日、ヴェーバーと話す。
正確には——ベルクと話す。
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■ 二
王宮薬草園の正門に着いた時、すでに王宮の役人が数名、建物の前に立っていた。レオンハルトの動きは速い。
カールが困惑した顔で私を迎えた。「エルナ嬢……今日は、少し状況が」
「存じています」と私は言った。「監査のことですね。私は顧問にご挨拶をと思って」
「は、はあ……顧問は応接室に」
ヴェーバーは私が来ることを知っていたはずだ——そして私も、彼が知っていることを知っていた。この訪問は「挨拶」ではない。互いに分かっている上で行う対話だ。
応接室に入ると、ヴェーバーは既に座っていた。
いつもの「穏やかな顧問」の顔ではない。今日は——何かが少し、剥き出しになっている。監査という「物理的な介入」が、彼の計算を乱したのだ。
「先日のお礼に参りました」と私は言った。
「礼?」と彼は言った。
「フローラの治療が一段落しましたので」
ヴェーバーの目が、細くなった。
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■ 三
「……ほう」とヴェーバーは言った。「完全に解いたか」
「ブロックした、という表現が正確です。残響は残っています」
「知っている」と彼は言った。「昨日、フローラを通じて確認した」
「ええ。来ていましたね」と私は言った。「換気口からラベンダー系の触媒を送り込んで——賢い方法ですが、今後は通じません」
ヴェーバーは少し間を置いた。
「君は——よくやった」と彼は言った。その声に、評価の色がある。素直な、ベルクとして長年弟子を見てきた人間の評価だ。
私はその評価を、受け取らなかった。受け取ることで何かが変わるわけではないが、今日は受け取る必要がない。
「一つ確認させてください」と私は言った。「フローラに何をしようとしていたか——本当の目的を」
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■ 四
ヴェーバーは、しばらく黙った。
窓の外で、監査の役人たちが薬草園を歩いている声が聞こえた。
「教えても構わない」と彼は言った。「君はどうせ、自分で調べ上げるだろうから」
「ならば教えてください」
「ベルクの——私の真の目的は、『死の克服』だ」
私は、その言葉を聞いた。
「意識の薬理的制御」とヴェーバーは続けた。「人間の精神は、化学物質の集積だ。ならば——化学によって保存できる。転送できる。消えないようにできる。薬学の極致とは、人体の限界を超えることではないか?」
「……」
「フローラはその実験台ではない」と彼は言った。「フローラは——最初の『受信者』だ。聖女として認められた後、彼女の脳に植え付けた意識のパターンが、民衆に広がる。その広がりを通じて——ベルクの思想が、この世界に永続する」
私は、その説明を頭の中で展開した。
理解できた。「狂人」の論理だが——「純粋な狂人」の論理だ。金も権力も求めていない。ただ「思想の不死」を望んでいる。
(拒絶——四十パーセント。認めたくない真実——三十パーセント。怒り——三十パーセント。)
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■ 五
「あなたとベルクは」と私は言った。「患者を实験台にする薬師だ」
「実験台」とヴェーバーは繰り返した。「少し違う。彼女には役割がある。自ら望まなかったが——しかし、役割は役割だ」
「同意しない」
「分かっている」とヴェーバーは言った。「しかし——エルナ。君は本当に、私たちと違うと思っているか?」
「違う」
「君は昨日、妹に『二パーセントのリスク』を負わせた」とヴェーバーは言った。穏やかな声で。「自分の目的のために。妹を救うという目的のために——二パーセントの死の可能性を、妹に課した」
「……」
「私もベルクも、同じことをしている。目的のために、個体にリスクを課す。構造は同じだ」
「目的が違う」と私は言った。
「本当に? 君の目的は何だ」
「フローラを救うこと」
「それだけか?」とヴェーバーは言った。「保存庫の酵素を分析した時——君は純粋に科学的な興奮を感じなかったか? 五十年前の技術が、君の知識で解析できると分かった時」
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■ 六
私は、答えなかった。
答えなかったのは、答えがなかったからではない。
答えが、あったからだ。
(自己嫌悪——六十パーセント。諦念——二十パーセント。冷徹な観測——二十パーセント。)
「……感じた」と私は言った。「科学的な興奮を感じた。五十年前の技術の精緻さに、研究者として反応した」
「そうだろう」とヴェーバーは言った。「だから私は言う——君は私と『同類』だ。知識への渇望で動く人間だ」
「しかし」と私は言った。「手段が違う」
「手段?」
「あなたとベルクは、誰を犠牲にしても構わない。私は——犠牲を最小化しながら目的を達成しようとしている。同じ知識欲でも、その発現が根本的に違う」
ヴェーバーが少し笑った。
「それが『甘さ』だ、エルナ。お前はいつもそうだ」
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■ 七
「処方箋は甘い」という評価を、前世でも今世でも聞いてきた。
しかし今日は——その言葉が、前と少し違う文脈で届いた。
「しかし」とヴェーバーは続けた。「その『甘さ』が、お前を弱くしているとは思わない」
私は彼を見た。
「むしろ——強い」と彼は言った。「なぜなら、制御は無制限より難しいからだ。欲望を制限することは、欲望を解放することより——はるかに高度な技術だ」
「……」
「ベルクはそれができなかった。私もできていない。しかし君は——できている。それは、師を超えている」
(困惑——四十五パーセント。警戒——三十五パーセント。無視できない共鳴——二十パーセント。)
「褒め言葉として受け取ることはできません」と私は言った。「あなたは今も、フローラを取り戻そうとしている。監査の間、状況を静観している間——次の手を考えている」
「もちろん」とヴェーバーは言った。
「だから、私はあなたを『敵』と見なし続ける」
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■ 八
「一つだけ教えてやろう」とヴェーバーは言った。
私は立ち上がりかけた手を、止めた。
「フローラの洗脳を完全に解くには——中和ではなく上書きが必要だ」
「知っている」と私は言った。シグバルトからの情報だ。
「そして、上書きできる声は限られている。ベルクの声の周波数特性と、近しい関係性の記憶を持つ人間——つまり」ヴェーバーは私を見た。「君だ」
「……」
「君がフローラの脳内で、ベルクの声を自分の声で上書きする。それが唯一の完全解除だ」
「なぜあなたが、それを教える」
ヴェーバーは少し間を置いてから言った。「なぜだろうな」と。その声に、何かが混じった。ベルクの冷徹さと、ヴェーバーという個人の何かが——一瞬だけ、分離した。
「……これ以上フローラを消耗させたくない、という気持ちが、少し残っているのかもしれない」
その声は、静かだった。
私は、その言葉を保留した。
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■ 九
応接室を出た。
廊下を歩きながら、私は今日の対話を整理した。
ヴェーバーは私を「同類」と見なした——そして私は、それを完全には否定できなかった。知識欲がある。科学的な興奮がある。前世でも今世でも、それは変わらない。
しかし。
「制御」と「無制限」の違いは、実在する。
ベルクは制御できなかった。知識欲を、「誰でも犠牲にしていい」という方向に解放した。私は——今日まで、それを「制御」してきた。二パーセントのリスクを負わせることと、百パーセントの喪失を放置することを、同じ天秤で量ることを拒否した。
(確信——五十パーセント。戦意——四十パーセント。残る罪悪感——十パーセント。)
「残る罪悪感」は消えない。
消えなくていい。あれは、消してはいけないものだ。
薬草園の外に出ると、レオンハルトが待っていた。
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■ 十
「ヴェーバーはどうだった」と彼は言った。
「話した。フローラの完全回復には——もう一段階が必要だと分かった」
「どんな段階だ」
「私がフローラの脳内で、ベルクの声を上書きする必要がある」
レオンハルトが、眉を上げた。「脳内で?」
「共鳴装置を使う。ヴェーバーが設計図を持っている——おそらく今日の監査で押収できる」
「……そのヴェーバーが設計した装置を、ヴェーバーに敵対しながら使うのか」
「そうだ」と私は言った。「毒を薬に転用する——薬師の基本だ」
レオンハルトは少し黙ってから「分かった」と言った。「設計図は確保する」
そして付け加えた。「お前は今日、少し——」
「何です」
「顔色が悪い」と彼は言った。「少し休め」
「後で」と私は言った。「まだやることがある」
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■ 十一
その夜、机に戻った。
禁断の保存庫の鍵と、レオンハルトが確保してきたヴェーバーの「共鳴装置の設計図」が、並んでいた。
私はヴェーバーが言ったことを、もう一度頭の中で展開した。
「君は私と同類だ」。
その言葉が、どこかに残っている。残っているが——受け入れていない。
同じ「知識欲」を持っていても、私はベルクとヴェーバーになっていない。それは「甘さ」ではない——「制御」だ。制御は甘さではなく、難しさだ。ヴェーバー自身がそう言った。
「認められた、ということにする」と私は小声で言った。
ヴェーバーに「対等」と見なされた。それは敵対関係が変わることを意味しない。しかし——今後の対話において、彼が「エルナを純粋な障害物」として扱うことは減るかもしれない。
利用できる関係性だ。
設計図を広げた。
複雑な構造だが——解析できる。前世で三十年積んだ薬学の基礎があれば、解析できる。
「では、始めよう」と私は言った。
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(第十話・了)
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