第十一話 決戦、または記憶の上書き
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■ 一
共鳴装置の設計図を解析するのに、二日かかった。
フローラを地下調剤室で養生させながら、私は夜の二時から六時まで設計図と向き合い続けた。睡眠は一日四時間以下——それ以上削ると判断力が落ちる、という前世で確認した自分の限界に従った。
装置の仕組みは、理解した。
「音声共振によって、特定の記憶回路に直接アクセスする」という構造だ。発信者——私——が装置を通じて特定の音域で言葉を発すると、受信者——フローラ——の脳内にある「記憶の痕跡」に直接共鳴する。
ベルクはこれを使って「洗脳の言葉」を植え付けた。
私はこれを使って「本来の記憶」を呼び覚ます。
問題は副作用だった。発信者の意識も一時的に混濁する。私の思考が、フローラの記憶と一時的に交差する——どの程度か、経験がないから分からない。
「許容する」と私は決めた。
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■ 二
シグバルトが来たのは、決行の前夜だった。
薬草園の「S」の石を見た彼は、いつもより少しゆっくり歩いてきた。
月光の中で彼を見た時、私は気づいた。
左手が、わずかに動いていない。
前回会った時との差は小さい。しかし薬師の目には見えた。左半身の動きが、僅かに遅い。神経系の問題だ。
「シグバルト」と私は言った。「左手の神経麻痺は、いつから?」
彼は少し止まった。「……二週間前から、本格化した」
「時間を越えることの代償ですか」
「ああ」
「余命を、自分で推定しましたか」
「三ヶ月前後だ」と彼は言った。淡々と。「もっと短いかもしれないが——三ヶ月はある」
「明日の決行には、間に合う」
「間に合う。だから来た」
私は彼を見た。
六つの時間軸を越えてきた人間が、今、目の前で「三ヶ月」を話している。その事実の重みを、数値化することを私は拒否した。今夜だけは——数値化しない。
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■ 三
「明日の段取りを確認したい」と私は言った。
「言え」
「私が地下調剤室で共鳴装置を使ってフローラの上書きを行う。レオンハルトが王宮で監査を継続してベルク側の注意を引く。あなたには——王宮の東側、ヴェーバーの研究施設への侵入を頼みたい」
「何のために」
「彼が持っている『香炉の触媒の製造記録』を確保するため。それが母への催眠暗示を解除するための情報になる」
シグバルトは少し考えてから頷いた。「できる」
「身体の状態で、可能ですか」
「できると言った」
私は彼を見た。「……シグバルト。あなたは三ヶ月の余命を持って、今夜ここにいる。明日の侵入は、身体に負荷をかける。私はその負荷の大きさを——計算できない」
「計算しなくていい」と彼は言った。
「なぜ」
「私が来る理由は、君のためだけではないからだ」
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■ 四
「私は」とシグバルトは言った。「エルナを守るために回帰したのではない」
「……」
「エルナが——『正しい選択』をする瞬間を見届けるために、回帰した」
「見届けるために?」
「私は六つの時間軸で、様々なエルナを見てきた。処刑された者。自滅した者。復讐を成した者。しかし——最も正しい瞬間を見た時間軸はなかった」
「正しい、というのは」
「自分を失わずに、誰かを救う瞬間だ」と彼は言った。「エルナ、君は今、それに近い場所にいる」
「近い、だけですか」
「近い、は十分だ」とシグバルトは言った。「完璧な正しさなど、どの時間軸にも存在しない。近い、ということは——今の君が、最もそこに近いということだ」
私は、その言葉を受け取った。
数値化しようとして——やめた。
「ありがとう」と私は言った。それだけだ。
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■ 五
翌朝、地下調剤室に共鳴装置を設置した。
装置は設計図通りに組み上げた——金属の共振板、音声変換管、出力調整のための水晶板。前世の技術体系とは異なる設計思想だが、基礎的な物理法則は同じだ。
フローラを呼んだ。
「今日が、最後の実験だよ」と私は言った。
「最後?」とフローラは言った。「怖い?」
「そうでもない」と私は言った。「あなたが怖かったら、今日はやめてもいい」
フローラは少し考えてから言った。「やる」と。「お姉ちゃんが一緒にいるなら」
「一緒にいる」
「じゃあやる」
私は装置の準備を確認した。受信管をフローラの耳元に当て、発信管を自分の手元に置く。カモミールとローズマリーの揮発製剤を、部屋に焚いた。
「始めるね」と私は言った。
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■ 六
発信管に声を入れた瞬間、世界が——混じった。
混じった、というのは正確ではない。「私」と「フローラの記憶の断片」が、同じ空間に存在するような——そういう感覚だ。まるで水に水滴が落ちて、一瞬だけ別の密度の層が見えるような。
ベルクの声が、暗い場所から届いた。
「来たな、エルナ」と声は言った。装置を通じていない——フローラの脳内で、直接届く。
「来た」と私は言った。
「君はここで何をする」
「上書きを」
「私の声を? 私はここに二年かけて構造を作った。君の薬は一部をブロックした——しかし根幹は残っている」
「知っている」と私は言った。「だから今日は——あなたを消しに来たのではない。あなたの声の隣に、別の声を置きに来た」
「別の声?」
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■ 七
「あなたは単一の強い刺激で上書きをした」と私は言った。「それがベルクの方法論だ。一点集中の大きな力で、既存の記憶を塗り潰す」
「そうだ。そして有効な方法だ」
「しかし私は——多点同時刺激を使う」
発信管から、私は声を入れ続けた。フローラの幼い頃の記憶に触れる言葉を、リズムを持って並べていく。薬草園の花の名前。母の笑い方。父が書斎で呼ぶ声。フローラが初めて歩いた時の話——二歳の記憶、三歳の記憶、五歳の記憶。
それらが、フローラの神経回路の「本来の構造」を呼び起こしていく。
ベルクの声は「上書き」しようとした。
私の声は「共存」させようとしている。本来の記憶の網の目を再生させ、ベルクの植えた構造を「少数派」に追いやる。
「……お前のその方法は」とベルクの声は言った。「私が教えた基礎を、お前が独自に組み合わせたものだ」
「そうだ」と私は言った。
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■ 八
「お前はその基礎を——私から学んだ」とベルクの声は言った。「つまり今のお前の技術は、私が作った」
「素材はくれた」と私は言った。「使い方は、私が編み出した」
「それが弟子の成長だ」
「違う」
私は声を続けながら、同時に答えた。「これは師の超克だ」
「……」
「あなたが教えた素材で、あなたが想定しなかったものを作る——それは、あなたを超えた先にある技術だ。あなたの教えの延長ではなく、あなたの教えを踏み台にした先だ」
ベルクの声が、少し——変わった。
「…………」
言葉が、なかった。
私はその沈黙の中で、発信管への声を続けた。フローラの記憶の網を、丁寧に丁寧に、一本ずつ呼び起こしながら。
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■ 九
フローラが、笑った。
目は閉じたまま。しかし口元が、自然な弧を描いた。
子供が夢の中で何かを思い出した時の、無防備な笑い方だ。
「……薬草園」と彼女は呟いた。「月光草……」
「そう」と私は言った。「薬草園にある。月光草がある。あなたが最初に見た時、触れてみていいかってお母様に聞いたね」
「……聞いた。したら、葉が少し光ったって」
「光ったね。あの時の話を、よく覚えてる」
(安堵——三十パーセント。疲弊——四十パーセント。喪失感が——二十パーセント。)
喪失感の正体は、後で考える。
今は続ける。
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■ 十
上書きが完了したのは、四十分後だった。
フローラが目を開いた。
「……お姉ちゃん、なんか私、泣いてる」と彼女は言った。自分の頬を指で触った。「なんで?」
「嬉しい時も泣けるよ」と私は言った。「悲しくなくても」
「そうなの?」
「そういうもの」
フローラはしばらく、自分の頬の涙を触っていた。それから「なんか、スッキリした」と言った。「頭が、前より軽い気がする」
「そうかもしれない」と私は言った。「今日からは——前と同じフローラだよ」
完全な同じ、ではない。残響は微量が残る。しかしそれは「害をなさないレベル」だ。これ以上治療を続けると、逆に神経に器質的ダメージが出る——ここが「治療の限界」だ。限界を認めることも、薬師の仕事だ。
「お姉ちゃん」とフローラは言った。「何をしてたの、私。最近」
「薬草の勉強をしてた」と私は言った。「あなたはとても熱心だったよ」
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■ 十一
フローラを母の元に送り届けた後、私はシグバルトから伝言を受けた。
侍女が「外に男の人が」と困惑した顔で言いに来た。「薬草園の端に——」
私は外へ出た。
シグバルトが、薬草園の柵に寄りかかっていた。
左半身の麻痺が、昨夜より進んでいた。左腕が、ほとんど動いていない。しかし立っている。
「終わったか」と彼は言った。
「終わった」と私は言った。「あなたは?」
「記録は確保した」と彼は言った。「ヴェーバーの施設から——触媒の製造記録と、暗示のトリガー一覧を。母上の治療に使える」
「……ありがとう」
「大したことではない」
私は彼の顔を見た。疲れている。しかし今日の疲れではない——六つの時間軸、すべての疲れが積み重なっている顔だ。
「座りませんか」と私は言った。
「立っていたい」
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■ 十二
しばらく、二人で薬草園を見ていた。
月蝕草の芽が、春の光の中で銀白色に揺れていた。
「一つだけ聞いてもいいですか」と私は言った。
「何だ」
「あなたが六つの時間軸で見た中で——私が最も正しい場所に近い、と言ったのは本当ですか。お世辞ではなく」
「本当だ」とシグバルトは言った。「お世辞は言わない。そういう時間が、残っていない」
「残っていない」と私は繰り返した。
「三ヶ月は短い」と彼は言った。淡々と。「しかし、今日を見届けられた。それで十分だ」
「十分、とは思えない」と私は言った。「あなたは——六つの時間軸で、修正のために使い続けた。それが『十分』という結末であってほしくない」
シグバルトが、少し笑った。
「……お前は、本当に」と彼は言った。「薬師だ」
「どういう意味です」
「患者の結末に——納得しない」
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■ 十三
その言葉の後で、シグバルトが倒れた。
急ではなかった。ゆっくりと——左膝から崩れるように。私は咄嗟に腕を出した。彼の体重が腕にかかる。十歳の体には重すぎる体重だが、私は倒れないよう踏ん張った。
地面に膝をついた。シグバルトを抱えるように支えた。
「……意識はありますか」と私は言った。
「ある」と彼は言った。声は小さい。「少し——眩暈がした。時間が経てば戻る」
「戻らなかったら」
「その時は——その時だ」
私は彼の脈を取った。弱い。不整脈がある。複数回の時間遡行が、心臓の調律にも影響を与えている。
「シグバルト」と私は言った。「今夜は休んでください。動かないで」
「命令か」
「要請です」
「……考える」と彼は言った。それで少し笑った。
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■ 十四
夜、私は机の前に座った。
フローラの上書きは完了した。シグバルトが触媒の記録を確保した。ベルクの第一段階の計画は、阻止した。
しかし。
ベルクはまだいる。ヴェーバーはまだいる。母の催眠は解けていない。
「次の一手」を書き始めようとして——止まった。
今夜は、書かない。
今夜だけは——終わったことを、そのままにしておく。
フローラが笑った。シグバルトが「十分だ」と言った。レオンハルトが監査を動かした。母が「ありがとう」と言った。
「感情の観測」を、今夜だけやめる。
数値にしなくていい。
ただ——今日一日が「在った」ということを、そのまま受け取る。
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■ 十五
月蝕草の芽が窓の外で揺れていた。
「ベルク先生」と私は呟いた。
「あなたが私に教えた薬学で、あなたの仕事を阻止した。今日は、そこまでです」
「しかし」と私は続けた。「まだ終わっていない。あなたはまだいる。そしてヴェーバーは——いつか、何かを選ぶかもしれない。彼の中のあなたではない部分が、何かを選ぶかもしれない」
それは今夜の問いではない。
今夜の問いは——一つだけだ。
「私は正しかったか」
月蝕草の芽が、風に揺れた。
答えはなかった。
答えがないことが、今夜は十分だった。
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(第十一話・了)
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