第八話 七日間の猶予と、毒を食らう覚悟
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■ 一
時計の針は午前零時を指していた。私の体内時計は——「抗毒素の調合開始」を告げている。
館に戻ってから一時間、私は自室の机の前に座ったまま動かなかった。記録を整理していた。整理という名の「処理」だ——王宮薬草園で見たもの、嗅いだもの、聞いたもの、それら全てをノートに分類した。ヴェーバーの動作パターン。フローラの祈りの文言。香炉の匂いの三層構造。そして「処方箋は甘い」という言葉が耳に残したもの。
書き終えると、私はノートを閉じた。
今度は感情を処理する番だ——しかし今夜は省略する。七日という時間は、感情の処理に使えるほど余裕がない。
外套を着た。
月蝕草の芽の場所へ向かう。
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■ 二
石を置いたのは、零時十分だった。
「S」と刻んだ小石を根元に置く。土が冷たい。春の夜は昼間より五度以上気温が落ちる。露が葉の表面に膜を作りつつあった。
待つこと、十五分。
「君から呼び出すのは珍しい」とシグバルトは言った。「よほどのことがあったのだろう」
「よほどではない」と私は答えた。「予定より早い、だけだ」
彼は月蝕草の芽の横にしゃがみ込んだ。今夜は黒衣だ。いつもの軍服ではない。目立たないための選択だろう。
「フローラの洗脳が進んでいる」と私は言った。「王宮薬草園に、設備ごとある。香炉。三層構造の揮発性薬剤。そしてベルクの教義の刷り込み」
「見てきたのか」
「見た」
シグバルトは少し黙った。
「ヴェーバーとも会った?」と彼は聞いた。
「会った。確認できたことが三つある。彼はベルクと同じ動作癖を持つ。この時代に存在しない毒の名前を知っている。そして——私に向けて、前世でベルクしか知らない言葉を投げてきた」
「どんな言葉だ」
「『処方箋は甘いな』」
シグバルトが、ゆっくりと息を吐いた。
「……ベルクが直接関与している証拠だ」
「そうだ。報告は以上。次に——あなたに聞きたいことがある」
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■ 三
私は羊皮紙を取り出した。
昨夜のうちに書いた、香炉成分の分析図だ。「三層構造」を図示したもの——第一層の揮発性ラベンダー、第二層の活性アルカロイド化合物、そして第三層の「音声共振成分」。三層目の特定は推測だが、フローラの発話パターンが音声入力によって強化されていることを考えると、この仮説は成立する。
シグバルトは図を受け取り、月明かりにかざした。
「……よく分析した」と彼は言った。その声に、何かが混じった。驚きではない——確認だ。「合っている。三層構造で間違いない」
「知っていたのですか」
「知っていた」と彼は言った。目を逸らさずに。「これは——五十年前に王宮で禁止された技術の残滓だ。先々代の王が、絶対服従の軍隊を作ろうとして開発した。実験段階で被験者の半数が廃人になり、残りが暴走した。技術は完全に廃棄されたことになっている」
「なっている」と私は繰り返した。「実際はそうではなかった、ということですね」
「ベルクが三十年前に密かに復元した。そして改良した。それが今、君の妹に使われている」
「なぜあなたはそこまで知っているのですか」
シグバルトが、少し間を置いた。
月が雲に隠れた。薬草園が一段暗くなった。
「一つの時間軸で」と彼は言った。「私は——ベルクの協力者だったからだ」
静寂が落ちた。
私はその言葉の重みを、まず「データ」として処理した。シグバルトがベルクの協力者だった時間軸がある。つまり彼は「敵の内側」から技術を知っている。そして今、こちら側にいる。
「『だった』」と私は言った。「つまり、今は違う」
「ああ」とシグバルトは言った。「私は間違いを認めた。そして修正する側に回った」
「間違いの内容を教えてもらえますか」
「……それは」と彼は言った。「今夜ではない。ただ——私が言えるのは、あの時間軸でベルクに従った結果が、エルナ、君の処刑だったということだ」
私は、その情報を静かに受け取った。
シグバルトは一つの時間軸で、私を死なせた側にいた。そして今、修正しようとしている。
(感情の観測を実施する。怒り——二十一パーセント。恐怖——十三パーセント。理解——六十六パーセント。)
怒りは低い。高い方が自然かもしれないが、今の私には「怒る」より先に「使う」という判断が来る。彼が内側を知っているということは、情報源として価値がある。
「分かりました」と私は言った。「今夜はそこまでにします。本題に入らせてください」
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■ 四
「フローラの洗脳を解くには、逆トリガーが必要だ」と私は言った。「三層構造の暗示に対抗するには、三層構造の中和が必要になる。そしてその第二層——埋め込まれた偽の人格を剥がすためには、記憶の再構成を可能にする特定の酵素が要る」
「入手できるのか」
「一箇所だけ存在する可能性がある。五十年前の術式が封印された時、その中和用の酵素原液も一緒に保存されたはずだ。廃棄された技術なら、必ず解除手段も同時に封印する——これは危険な技術の管理原則だ」
「……王宮最深部の保存庫か」シグバルトは言った。
「あなたも知っているのですね」
「ああ。私でも簡単には入れない場所だが——」
彼は外套の内側に手を入れた。
取り出したのは、小さな銀色の鍵だった。ペンダントのような形をしている。
「これを使え」と彼は言った。「三歩後ろを歩く私が、過去の自分から奪い取ったものだ」
私は鍵を受け取った。冷たかった。
「一度使えば」とシグバルトは続けた。「ベルクは君がどこまで知っているかを確信する。それ以降は全面戦争だ」
「全面戦争」と私は繰り返した。「私は治療をしているだけです」
「その治療が——相手にとっては戦争宣言なんだよ」
シグバルトの口元が、わずかに動いた。六つの時間軸を生き延びてきた人間の笑いだ。疲れている笑いだが、嘘ではない笑いだった。
「分かりました」と私は言った。「では——戦争でいい」
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■ 五
シグバルトが帰った後、私は薬草園に一人で立っていた。
月蝕草の芽が、露を受けて光っていた。
私はシグバルトを見ていた時間を振り返った——彼と話す時間は短い。しかしその短さの中に、「六つの時間軸を経験した人間の重み」がある。怒りも後悔も、全部飲み込んで今もここにいる。
(……私に似ている)と思った。
似ている、というのは外側ではなく——「感情を観測しながら動き続ける」という構造が、だ。違うのは彼の方が消耗が深い。三歩後ろを歩くことへの疲れが、目の奥に積んでいる。
「一つの時間軸でベルクの協力者だった」という告白は、自分への裁判だ。
薬師として思う——自分の処方ミスを認めるのは、医者にとって最も重い行為だ。認めた後も患者の前に立ち続けなければならないからだ。シグバルトはそれを、時間を越えてやっている。
鍵を手の中で転がした。
冷たさが、少しずつ体温に変わっていく。
(使う。今夜、保存庫へ向かう)
時刻を確認した。午前零時四十分。
王宮の保存庫への侵入は、深夜が最も人の動きが少ない。今夜しかない。
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■ 六
王宮最深部の保存庫は、主建築の地下にある。
以前の視察で、北翼の地下に続く階段の位置は把握している。鍵は持っている。問題は「薬師補佐の資格で夜間立入が可能か」だが——正規の手続きを踏んでいる余裕はない。
今夜は「正規ではない方法」で入る。
レオンハルトへの連絡は帰宅後にする。今夜の行動を事前に共有すれば、彼が止めようとする可能性がある。合理的な判断として「まず動き、後で報告する」を選ぶ。
王宮の裏口は、薬師補佐の証明書があれば深夜でも開く——これはカールが案内の際に「夜間の植物管理もありますので」と言及していた情報だ。何気ない一言だったが、私はそれを記録していた。
裏口の衛兵に証明書を見せた。「夜間の緊急観察」と告げた。
衛兵は少し迷ったが、通した。
十歳の令嬢に深夜の王宮で悪いことができる、とは思っていないのだろう。大人たちは「子供の隠れ蓑」の有効範囲を、いつも過少評価する。
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■ 七
保存庫は地下の最奥にあった。
廊下は松明だけで照らされており、石の湿気が壁に染み出している。地下特有の、生きた土と腐植の匂いだ。ここには何十年も前から変わらない空気が溜まっている。
鍵穴を探した。扉は分厚い樫の木製で、鉄の金具が三箇所ある。そのうちの一箇所——一番下の、目立たない位置の錠前に、シグバルトの銀の鍵を差し込んだ。
回した。
「……開いた」と私は小声で言った。
中へ入る。松明を持っていないため、外廊下の光だけを頼りに目を慣らした。三十秒後、輪郭が見えてきた。
棚が並んでいた。
様々な大きさの容器。ガラス瓶、陶器の壺、金属製の缶。ラベルは古い書体で書かれており、読み解くのに時間がかかる。
目的のものを探した。
「記憶再構成酵素原液」——そのような名称では書かれていないだろう。当時の薬師がどんな名称で保存したかを考える。五十年前の語彙体系で「催眠暗示の中和に使う酵素」を何と呼ぶか。
棚を一段ずつ確認した。
七分後、見つけた。
ラベルには「精神の安寧を回復する液——用量・管理者の指示に従うこと」とあった。陶器の小壺。蜜蝋で封をされている。
持ち上げた。重さを確認する。一〇〇ミリリットル程度の内容量だ。フローラの体重と投与計画から計算すれば、十分な量がある。
保存庫を出た。扉を閉め、鍵を戻した。
廊下を引き返しながら、私は今夜これで三つの駒が揃ったことを確認した。
月蝕草の抽出液。フローラから奪った拮抗薬。そして今、五十年前の中和酵素。
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■ 八
自宅に戻ったのは、午前二時を少し過ぎた頃だった。
調剤室の扉を閉めた。鍵をかけた。ランプを三本点けた。
作業台の上に、持ち帰った酵素原液を置いた。
まず原液の状態を確認する。蜜蝋を取り除き、匂いを嗅ぐ。弱い酸味。タンパク質系の酵素特有の匂いだ。pH試験では六・二——弱酸性。
しかし。
ランプに近づけると、液体の底に澱が見えた。
細かい白い粒子が、内容物の一割ほどを占めている。本来なら均一な透明液体のはずだが、五十年という時間が、一部のタンパク質を変性させた。これを精製し直せば、活性を取り戻せるかもしれない——が、精製には少なくとも三日かかる。
三日。
私には、その三日がない。
「……澱ごと使う」と私は言った。
澱の成分を考える。変性したタンパク質は本来の酵素活性を失っているが、基質との結合部位が変化している。つまり——本来の標的とは「少しずれた」場所に結合する可能性がある。
この「ずれ」は、通常は欠陥だ。しかし今回の多段階中和の第一段階——「偽の標的を提示する」という撹乱工程——においては、むしろ有効かもしれない。変性タンパク質が「ノイズ」として機能し、フローラに埋め込まれた人格の認識系を一時的に混乱させる。
その混乱の隙間に、本来の酵素が入り込む。
「……成功率が変わる」と私は呟いた。
上がる可能性もある。下がる可能性もある。計算できない変数が一つ加わった。
確実なのは、これを精製する時間はなく、この澱を含む原液しか手元にないということだ。
(使う。澱ごと使う。そして——これが今回の処方箋の、最も『甘くない』部分だ。)
「……使える」
次に逆トリガーの設計図を広げた。三層構造に対する三層構造——頭の中でここまで組み立てていた設計を、今夜はじめて紙の上に落とす。
第一層:拮抗薬。フローラから奪った「月蝕草無効化剤」の解析から逆算した、その拮抗薬——つまり「月蝕草無効化剤を無効化する薬」だ。これには月蝕草の抽出液を活性炭と組み合わせる。活性炭の吸着作用が拮抗薬の標的結合を先に塞ぎ、その間に月蝕草の有効成分が香炉のアルカロイドと結合して不活性化する。
第二層:香り。カモミールとローズマリーを組み合わせた揮発製剤だ。これはフローラの「本来の記憶」——家族と過ごした時間の感覚——を呼び起こすために使う。記憶は香りと強く結びつく。フローラが幼い頃、薬草園でこの香りに囲まれていた記憶が残っているなら、それが「本来の人格」への引き戻し効果を生む。
第三層:酵素と言葉。中和酵素を薄めて投与した後、特定の音声パターンを流す。「洗脳」が音声で言葉を埋め込んだなら、「逆洗脳」は音声で言葉を剥がす。剥がすための言葉は——まだ書いていない。
(これは今夜中に書く必要がある。)
私はペンを取った。
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■ 九
しかし、ペンが止まった。
「逆洗脳の言葉」を設計する前に、数値を確認しなければならない。
私は試算を始めた。
中和酵素の投与量。フローラの体重は推定二十二キログラム。酵素の想定有効量は体重一キログラムあたり〇・一五ミリリットル。つまり三・三ミリリットル。
しかしこの酵素は五十年前に作られたものだ。経年劣化で活性が落ちている可能性がある。安全マージンを見て一・五倍——四・九ミリリットル。
投与方法は経口か皮下か。経口なら消化管を通るため吸収に時間がかかる。皮下なら速いが、子供への穿刺は痛みを伴う。フローラが拒否した場合に強制できない。——経口を選ぶ。カモミールのお茶に溶かせば、味を誤魔化せる。
「成功率:六十二パーセント」と私は書いた。
この数字は、五十年前の実験記録をシグバルトから得られないため、私の推算に過ぎない。酵素の活性状態が不明な点が最大のリスクだ。
「生存率:九十八パーセント」とも書いた。
心停止のリスクは二パーセント。このリスクの主な原因は、中和プロセスで一時的に神経系が「リブート」される際の、心拍の一時停止だ。二から五秒の心停止は成人でも危険だが、小児では心臓が小さく再起動しやすい——という理論的な根拠がある。ただし「理論的な」根拠だ。実証はない。
私は数字を見た。
(二パーセントが、許容範囲かどうか。)
(二パーセントというのは、五十人に一人が死ぬということだ。)
薬師の論理として言えば——これは「許容範囲に近い」数値だ。手術のリスクで言えば、難度の高い外科手術は五パーセントから十パーセントのリスクを持つ。二パーセントは低い方に属する。
しかし。
この「二パーセント」の先にいるのは、自分の妹だ。
ペンが、落ちた。
音もなく——手から滑り落ちた。手が震えていたのだ。私は自分が震えていることに、ペンが床に当たる音を聞いてから気づいた。
五秒、見ていた。床に落ちたペンを。拾えばいいだけだ。しかし、その五秒間、手が動かなかった。
十歳の手だ。前世で三十五年かけて荒れた手ではなく、まだ傷一つない手だ。この手で、二パーセントのリスクを妹に投与する。
ペンを拾った。
「……処理する」と私は呟いた。
感情の数値化を試みる。しかし今夜は、数値が出てこなかった。
出てこない、ということ自体が——何かを意味している。
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■ 十
明け方まで作業した。
逆トリガーの三層を組み上げ、最後に「言葉の音律」を記した羊皮紙を封筒に入れた。これはレオンハルトに朗読させるためのものだ。私の声では、音域が「姉の声」として認識されてしまう可能性がある。フローラに埋め込まれた暗示の中に、特定の声域への反応がある可能性を排除できない。中立的な声の方が安全だ。
完成した逆トリガー——小さなガラス瓶に封入された液体と、別の封筒に入った香り成分——を机の引き出しに入れた。
時刻は午前四時半。
窓の外が、わずかに白んでいた。
私は鏡の前に立った。
今日の朝食で父と話す。
父に——嘘をつく。
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■ 十一
朝食は七時だった。
父がいた。母がいた。フローラがいた。
私は席に着き、食事を始めた。
フローラの状態を確認した。昨日より目の焦点が、わずかにぼんやりしている。香炉の施術から一日経過して、薬剤が神経系に蓄積しつつある。洗脳完了まで残り六日——いや、もう五日半だ。
「お父様」と私は言った。
父が顔を上げた。「なんだ」
「フローラの薬草学の教育について、少しお話があります」
父が驚いた顔をした。朝食の席でこういう話題を持ち出すのは、普通の十歳の娘ではない——と彼は思っているかもしれない。しかし父は私が「普通ではない」ことに慣れてきている。三ヶ月かけて、少しずつ慣れさせた。
「なんだ、急に」
「フローラが最近、薬草に興味を示しているんです」と私は言った。「そこで——私が王宮で学んでいる内容の補講を、彼女にも受けさせてみたらどうかと思って」
「補講? お前は薬師補佐だろう。そんな権限が?」
「ヴェーバー顧問は家族教育も大切だと理解してくれています」
嘘だ。
完全な嘘だ。ヴェーバーはそんなことを言っていない。ヴェーバーの名前を使って「王宮公認」の印象を作っている。父はヴェーバーという名前が王宮と繋がっていることを知っているから、権威として機能する。
(感情の観測。罪悪感——記録中。数値化は保留。)
父は少し考えてから言った。「そうか……まあ、フローラもお前に憧れているしな」
「はい」
「ただし無理はさせるなよ。あの子は体が弱い面があるから」
「もちろんです」
私は微笑んだ。
紅茶のカップを持ち上げた。
その時——カップが、カチリ、と音を立てた。
受け皿に当たった。私の手が、わずかに震えていたのだ。
父は気づかなかった。母も気づかなかった。フローラは別の方向を見ていた。
誰も気づかなかった。
ただ私だけが——自分の手が、一瞬だけ、「嘘をついた」という事実に反応したのを知っている。
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■ 十二
父の言葉が、耳の中に残った。
「あの子は体が弱い面があるから」。
父は知らない。フローラが今、薬剤によって神経を操作されていることを。知らないから心配の仕方が「体の弱さ」に向かう。知らないから「無理をさせるなよ」という言葉が、普通の親の普通の心配として届く。
私はその言葉を、計画に使った。
「もちろんです」と笑顔で言って、父の信頼を「フローラを調剤室に連れて行く許可」に変換した。
変換した。
父の愛情を、私の計画の許可証に変換した。
(これは——正しいのか。)
問いが生まれた。処理しようとした。しかし今回も、数値が出てこなかった。
七十一パーセントが「正しい」、二十九パーセントが「正しくない」——そう書ければ、私は楽だった。しかし今朝は、そういう計算ができない。
父は私を信じている。前世でも、今世でも、父はいつも私を信じていた。薬師の娘として生まれた長女を、「お前ならできる」という顔で見ていた。
その顔を見ながら、嘘をついた。
(……感情の数値化を保留する。処置は継続する。これが「薬師の仕事」だ。患者を救うための行為が、時に関係者を利用することを含む。これは原則として容認されている。)
しかし胸の奥で、何かが静かに痛んだ。
数値にならない痛みは、数値にならないまま——そこに置いておく。
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■ 十三
午前中、母に話しかけた。
「お母様、フローラを預かります。薬草の勉強を一緒にするので、しばらく調剤室にいることが多くなると思います」
「……そうなの」と母は言った。
母はまだ回復していない。記憶の空白が続いている。目の焦点が、時折遠くを見るように揺れる。
私は母の手を、一秒だけ握った。
「すぐに全部、元に戻しますから」と私は言った。
それは嘘ではなかった。
約束だ——果たせるかどうかは、まだ分からないが。果たす、と決めた約束だ。
母が私の手を握り返した。弱い力で。
「ありがとう、エルナ」と母は言った。何を感謝しているか、おそらく母自身も明確ではない。ただ「娘が何かをしてくれようとしている」という感覚が、感謝を引き出したのだろう。
私は手を離し、廊下に出た。
廊下は静かだった。
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■ 十四
フローラの部屋を訪ねたのは、昼前だった。
「フローラ、一緒に来ない?」と私は言った。「地下の調剤室で、特別な薬草の実験をするの。お姉ちゃんだけの秘密の場所だよ」
フローラは一瞬だけ止まった。
その「一瞬」を、私は観察した。
ベルクから植え付けられた「指令」と、フローラ自身の「好奇心」が、〇・四秒間、ぶつかっていた。
「うん、行く!」とフローラは言った。
好奇心が——あるいは「姉を監視する」という別の動機が——勝った。どちらであっても、結果として「ついてくる」ことを選んだのはフローラ自身だ。
(この子の中には、まだ意志がある。)
(「行く」と言える限り——治療は可能だ。)
私はフローラの手を引いた。
地下への階段を降りる。石の壁が熱を吸い込み、空気が少し涼しくなる。フローラが「暗いね」と言った。
「すぐに慣れるよ」と私は言った。
調剤室の扉を開けた。ランプを点けた。
作業台の上に、昨夜準備した香り成分を置いた。カモミールとローズマリーの乾燥ハーブを、小さな陶器に入れて火で温める。揮発成分が部屋に広がっていく。
フローラが「良い匂い」と言った。
その声が——普段と少し違った。「良い匂い」という言葉の中に、何かが溶けた。記憶に引っかかった、という感じの声だ。
(……効いている。第二層だけで、既に反応がある。)
「今日はこの香りに慣れるだけ。実験の本番は明日以降だから」と私は言った。
フローラは頷いた。
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■ 十五
夕方、フローラを部屋に送り届けた後、伝書鳩を飛ばした。
レオンハルトへ。
鳩舎を確認すると、使える鳩が一羽だけ残っていた。前回と前々回の送信で、残りの二羽は戻っていない——レオンハルト側で使い切ったか、あるいは別の目的に転用されたのかもしれない。これが最後の一羽だ。
内容は短く書いた。
「開戦。陽動の準備を。監査は明後日——残り四日の時点で実行してほしい。対象は王宮薬草園北東の施設。——E」
暗号化は最小限にした。時間がない。
鳩が夜空へ飛んでいく。
返信は翌朝来た。「承知した。——L」
三文字だった。しかし——文字を見た瞬間、私は少し手を止めた。
「L」の筆跡が、いつもと違う。
レオンハルトは筆圧が強く、均一な字を書く——それが三ヶ月の手紙から分かっている。しかしこの返信の「L」は、右の跳ねが乱れていた。速く書かれた、あるいは書きながら別の方向に注意が引かれた時の乱れ方だ。
(……彼の側でも、何かが動いている。)
三文字。それで十分だった。レオンハルトが動く、ということだ。そして彼も今、綱渡りの上にいる。
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■ 十六
夜、調剤室に戻った。
フローラが眠っている時間を確認してから来た。一人で作業する必要があるためだ。
逆トリガーの瓶を机の上に並べた。
第一層——活性炭と月蝕草の複合抽出液。淡い銀緑色。
第二層——カモミールとローズマリーの濃縮揮発製剤。温めると部屋に広がる。
第三層——五十年前の酵素原液を希釈したもの。pH六・二。弱酸性。そしてレオンハルトに読ませるための「音律の羊皮紙」。
それから作業メモを更新した。
「フローラ治療計画。現在時刻:午後十一時四十分。」
「残り時間:洗脳完了まで推定五日と二時間。」
「今日の進捗:第二層の予備刷り込み完了。フローラの本来記憶への香りによる反応を確認。陽動の依頼完了。」
「明日の予定:第一層と第三層の同時投与。所要時間:推定三十分から六十分。心拍モニタリング継続。」
「成功率試算:六十二パーセント。」
「生存率試算:九十八パーセント。」
数字を見た。
私はペンを置き、ランプの火を一本消した。
部屋が少し暗くなった。
「ベルク先生」と私は呟いた。
薬師の習慣として声に出す。声に出すと、思考が整列する。
「あなたは私の処方箋を『甘い』と言った。確かに甘かったかもしれない。前世の私は、患者を救いたいという感情が、時に用量の判断を誤らせた。それは認める。」
「しかし」と私は続けた。「今回の処方箋は——甘くない。」
「成功率六十二パーセントの薬を、自分の妹に投与することを選んだ。二パーセントのリスクを承知で踏み込む。」
「これを『甘い』と呼べるなら——あなたの薬学は、私の理解を超えている。」
ランプの火が揺れた。
「毒を食らう覚悟なくして、解毒はできない。」
「それが——私の最終処方箋の、第零条だ。」
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■ 十七
私は作業台を離れ、調剤室の扉の前に立った。
扉の外は、夜の廊下だ。静かだ。父が眠っている。母が眠っている。フローラが眠っている。
この静けさが、あと何日続くか分からない。
レオンハルトが監査を動かせば、ヴェーバーが動く。ヴェーバーが動けば、ベルクが動く。私が治療を始めれば、フローラの中の「別の人格」が抵抗する——それが何をするかは分からない。
全てが動き始める。
「五日」と私は言った。
「五日で終わらせる。」
「終わらなくても——五日間は前に進む。」
扉を閉めた。
鍵を回す音が、石の廊下に小さく響いた。
カウントダウンが、今夜から始まる。
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(第八話・了)
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