第七話 王宮薬草園の「聖女」と、見えない処方箋
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■ 一
王宮薬草園——広さは我が家の三倍。だが、広さと質は必ずしも比例しない。
馬車の窓から、正門が近づいてくるのを見ていた。石造りの門柱。衛兵の制服。王宮の朝の光が、石畳を均一に照らしている。絵のような光景だ——絵のようだ、というのは、設計されているからだ。誰かの意図によって、この風景は「見せるためのもの」として作られている。
私は窓から顔を離し、膝の上に置いた手帳を確認した。
今日の観察項目。土壌の状態。植物の配置パターン。建物の構造。関係者の行動様式。そして——ヴェーバーという男の、言葉と動作の乖離。
書き終えて手帳を閉じた。
馬車が止まった。扉を開けると、若い男が立っていた。
「ヴァルトハウゼン嬢ですね。カールと申します。本日の案内を担当します」
二十歳前後。薬師見習いの服装。笑顔は明るいが、どこか「あらかじめ用意された笑顔」の質がある——台本のある役者が、特定のシーンに入った瞬間の笑顔だ。
「よろしくお願いします」と私は言った。
目をキラキラさせた。十歳の令嬢が初めて王宮薬草園に来た時の、計算された好奇心の表情だ。鏡の前で六回練習した表情だから、精度は高い。
「ではこちらへ」
カールの後ろを歩きながら、私は「観察」を開始した。
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■ 二
薬草園の入口は、見事だった。
正直に言えば、美しいと思った——「薬師の目」ではなく、単純に、見た目として。整然と並んだ花壇。色の組み合わせが計算されており、どの角度から見ても「絵になる」構図だ。ラベンダー、ローズマリー、タイム——メディカルハーブの中でも観賞性の高い品種ばかりが前面に配置されている。
「当王宮自慢の薬草園です」とカールが言った。「季節ごとに景観が変わり、春はまさに今が見頃で——」
「素晴らしいですね」と私は言いながら、足元の土に視線を落とした。
整備されすぎている。
土壌の表面が、均一すぎる。
薬草を「育てる」ための土は、本来もっと不均一だ。植物の根が張る方向によって腐植層の厚さが変わり、水分の蒸発速度の差が土の色のグラデーションを作る。しかしここの表土は——砂利を細かくしたような、人工的に整えられた粒子感だ。
カールが少し離れた場所を別の係員と話し始めた。
私はその隙に、しゃがみ込んだ。
「……少し土を触っていいですか」と私は彼の背中に声をかけた。「薬草の勉強のため」
「ああ、もちろん」と彼は振り返らずに言った。
指先を土に押し込む。
感触。粒子の大きさ、水分含量、粘性——全て人工的に調整されている。そして匂い。土の有機的な匂いの下に、かすかに化学物質の残滓がある。硫黄化合物の弱い揮発臭。農薬か、それとも別のものか。
「表の花壇:pH推定七・二。窒素濃度高。腐植層薄い。人工的に短期間で整備した土壌」
声にならないくらい小声で、記録した。
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■ 三
カールの案内は続いた。
私は「感動した様子」を演じながら、区画ごとの変化を追っていた。表の観賞用エリアを過ぎると、薬草の種類が変わった。より実用的な、薬効の強い植物が増える。ここからが「実際に使うための」エリアだ。
さらに奥へ進むと、区画の性質がまた変わった。
柵で緩やかに区切られた、奥まった一帯だ。カールは「こちらは古い区画で、今は整備中です」と簡単に説明して、足を速めようとした。
「少しここを見てもいいですか」と私は言った。「土壌の観察がしたいんです」
カールが少し迷う顔をした。しかし「整備中」という言い訳は「立入禁止」ではない。子供の教育的な見学を拒否する明確な理由にはなりにくい。
「……どうぞ。ただし足元にお気をつけを」
私は柵の内側に入り、しゃがみ込んだ。
土に触れた瞬間、指先が変わったことを知った。
質感が、表の区画とまるで違う。
粒子が細かく、しっとりしている。押すと弾力がある——これは長年かけて形成された、本物の腐植層だ。生きた土の質感だ。土壌の顔が、全く違う。
匂いを嗅ぐ。
微酸性特有の、落ち葉が分解された後のような清潔な有機臭。硫黄化合物の痕跡がない。
「……pH五・八から六・〇の範囲。窒素低め。腐植層、推定五センチ以上。数年以上手を入れていない——いや、違う」
違う。
手を入れていない、のではない。「肥料を意図的に排除して、自然な酸性化を促している」のだ。
「月光草属の育成に最適な環境」と私は小声で言った。
このpH値、この腐植層の厚さ、この窒素濃度——これは月光草が最もよく育つ土壌の条件と一致する。前世で私が実験で何度も再現した条件と。
(この土壌は、数年前から「月光草のために」整備されていた。)
(そして月光草は、公式の薬草園のリストには載っていない。)
(つまり——誰かが、公式の記録に残さずに、月光草の栽培準備を進めていた。私が回帰する前から。)
冷たいものが、背骨の内側を伝った。
これは驚きではない。驚きより先に来る、「仮説が裏付けられた」という静かな確信だった。それがかえって、恐ろしかった。
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■ 四
奥へ進むにつれて、薬草園の雰囲気が変わった。
植物の密度が上がる。手入れの頻度が下がる。そして——光の入り方が変わる。前面は開放的だったが、ここは上部を構造物が覆っており、光が間接的にしか届かない。
陰の多い区画の奥に、小さな建物があった。
石造りの、窓の少ない建物だ。扉の前に、兵士が二名立っている。
私は近づこうとした。
「お嬢様、ここからは立ち入り禁止です」
カールが私の前に出た。
「こちらは特別管理区域でして——」
「分かりました」と私は素直に言って、一歩下がった。
しかし下がりながら、私は扉の隙間に目を向けた。
開き具合は五センチほど。中は見えない。しかし——匂いが漏れている。
ラベンダー。
濃い、人工的に調整されたラベンダーの揮発臭。しかしその下に、別の成分がある。前世の研究室で何度か嗅いだことがある——揮発性アルカロイドの、特有の金属的な後味。
(……これは母の部屋で嗅いだ匂いと同じ構造をしている。)
ラベンダーで隠蔽された、揮発性の活性成分。暗示のトリガーを「吸気」によって供給するための、化学的なデリバリーシステムだ。
私は一歩下がった。二歩下がった。カールに「ありがとうございます」と笑顔で言った。
そして、脳内に赤いフラグを立てた。
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■ 五
応接室は薬草園に隣接する建物の二階にあった。
白い壁。清潔な卓。二脚の椅子。カールに案内されて中へ入ると、彼は「顧問がまもなく参ります」と言って出ていった。
一人になった。
私は椅子には座らず、まず部屋を一周した。壁際、窓の位置、扉の開く向き——全て把握する。次に卓の上を確認した。
本が一冊、置かれていた。
「薬草典範 第三版」。
私はその表紙を見て、一秒だけ動きを止めた。
この本は——前世でベルクが「薬学の基礎中の基礎」として最初に私に渡した本だ。私が十五歳で弟子入りした時、彼は「まずこれを三回読め。それからが始まりだ」と言った。
本が開かれていた。開かれているページには——「月蝕草」の項目がある。
偶然という可能性を計算する。この本がここに置かれる確率、月蝕草のページが開かれている確率、そして私が今日この部屋にいる確率——三つの偶然が重なる確率は、計算するまでもなく低い。
これは意図的に置かれた。
「私が何を知っているかを試しながら、同時に何かを思い出させようとしている」と私は小声で言った。
椅子に座った。背筋を伸ばし、手を膝の上に置き、「期待に満ちた若い薬草学者の卵」の顔を作った。
扉が開いた。
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■ 六
三十代前半の男が入ってきた。
私の第一印象は——「印象が薄い」だった。
顔の各パーツは整っている。しかし「記憶に残る顔」ではない。見た瞬間に把握できるが、翌日に正確に再現できないような顔の配置だ。
しかし。
歩き方があった。
左足を、わずかに引きずっている。引きずる、というより——左足の接地の仕方が右と微妙に異なる。かかとから着地する際に、左のかかとの角度が三度ほど内側に傾いている。
前世でベルクが持っていた古傷の後遺症と、同じ動作パターンだ。
「待たせてすまない、エルナ嬢」と彼は言った。「君の噂は聞いている——十歳の天才薬師だと」
声は穏やかだった。しかしその穏やかさの底に、冷たい何かがある。感情の「出力を調整している」人間の声だ。
「お初にお目にかかります、ヴェーバー顧問」
私は立ち上がり、礼をした。完璧な礼だ。令嬢教育の賜物と、三十五年分の経験の産物。
「まあ座って」と彼は言って、向かいの椅子に腰を下ろした。
私は彼の手の動きを観察した。
席に着いた時、彼は卓の上に指を三本立てて、一拍おいてから手を戻した。
無意識の動作だ。「考えをまとめる時」の癖——私は前世で、この動作を何百回と見た。
ベルクが、難しい問題を考える時にやる癖だ。
「……今日はどんなことを勉強したいかな、エルナ嬢」とヴェーバーは言った。
「土壌の観察をさせていただきました」と私は答えた。「薬草の育て方は、土から始まると思っているので」
「なるほど」と彼は言った。その目が、わずかに細くなった。「土の読み方が分かるのか、十歳で」
「少しだけ」と私は笑った。「お父様の書斎の本で勉強しています」
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■ 七
ヴェーバーは少し間を置いてから言った。
「一つ聞いてもいいか」
「もちろんです」
「月光草の収穫に最適な月齢は?」
私の思考が、一瞬で分岐した。
これは「試験問題」ではない。「確認」だ。この答えをこの時代の薬師が知っているはずがない——これは私が前世で三十代になって実験で発見した事実だ。正確な答えを言えるのは、前世の記憶を持つ者だけだ。
だから——全部は言わない。
正解は「満月から三晩後」だ。しかし私はここで「満月の当日」と言う。七割の正解だ。もし彼が「三晩後が正確だ」と訂正してくれば——この男は完全な知識を持っている。訂正しなければ、知識の深度に限界がある。
「満月の当日が一番良いと思います」と私は言った。声に子供らしい確信を乗せた。「有効成分の濃度が月光で高まるので——満月の時が最大値かと」
ヴェーバーの目が、細くなった。
「……なぜそれを知っている」
「実験しました」と私は答えた。「家の月光草で、月齢ごとにサンプルを採って比較したんです。満月の当日が一番——ような気がして」
「十歳で」
「はい」
ヴェーバーは少し間を置いた。
そして——「なるほど」と言った。
訂正しなかった。
(……正解を知らないのか、あるいは私が「わざと外した」ことに気づいて黙っているのか。どちらかだ。後者なら、この男の情報処理能力は私が思うより高い。)
「ではもう一つ」と彼は言った。「サイレントウィードの毒素を中和するのに、なぜ月蝕草が必要なのか」
心臓が、一拍、止まった。
「サイレントウィード」という名前をこの男は知っている。この時代に「公式には存在しない」毒の名前だ。
私は表情を動かさなかった。
今度は——少し深く出す。月光草の質問で「七割」を出したなら、この質問では「九割」を出す。不均一な回答パターンを見せることで、「何を知っていて、何を知らないか」を相手に正確に読ませない。
「……分子構造の相補性だと考えています」と私は言った。声の速度を、子供が一生懸命説明する時のそれに合わせた。「サイレントウィードのアルカロイドは特異的な鍵の形をしていて——月蝕草の成分がその鍵穴を塞ぐ栓になる。他の植物では形が合わないんです。ただし、その相互作用の詳細な経路については——まだ私も分からないことが多くて」
「鍵と鍵穴」とヴェーバーは繰り返した。「面白い比喩だ」
「ありがとうございます」
「この時代の薬学書には、そういう表現は出てこない」
「自分で考えました。でも合っているかどうかは——」と私は少し首を傾けた。「まだ自信がなくて」
「そうか」
彼は少し笑った。しかしその笑いは「感心した」という笑いではなかった——「想定に近かった」という笑いだ。
(この男は、私が前世の知識を持っていることを「確信している」のか「疑っている」のか——今日だけでは判断できない。しかし少なくとも、私が「完全な知識」を持つかどうかは確認できなかった。それで十分だ。)
「素晴らしい」とヴェーバーは言った。「十歳とは思えない」
私は微笑んだ。
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■ 八
「ところで」とヴェーバーは言った。「今日お越しいただいた本題の話をしよう」
「月光草属の管理の件ですね」
「そうだ。特に——月蝕草の育成方法を、ぜひ教えてほしい」
「月蝕草は絶滅危惧種です」と私は言った。「入手自体が——」
「種子の手配はこちらでする」とヴェーバーは遮った。「君は『育て方』だけを教えれば良い」
私は一拍、間を置いた。
彼らは月蝕草を「育てたい」と言っている。しかしハインツの旧研究室で見つけた指示書には「月蝕草の種子を破棄せよ」とあった。
この矛盾は——意図的だ。
破棄させていたのは「市場から消すため」——供給を絶つことで、月蝕草を「入手不可能な植物」にする。そして自分たちだけが「育てられる知識」を持つ。解毒の独占だ。
「育て方」を私から引き出す理由は二つ考えられる。
一つ——私が「正しい育て方」を知っているかどうかを確認したい。つまり私の知識の深さを測っている。
二つ——私を月蝕草の栽培に関与させることで、後々「この毒の研究に加担した」という形を作る。
どちらにせよ、「育て方」を教えることは得にならない。
「土壌条件は申し上げましたが」と私は言った。「月蝕草の種子の休眠解除には、特殊な処理が必要で——私もまだ研究中なんです」
「そうか」とヴェーバーは言った。残念そうな顔をしたが、目は残念そうではなかった。計算している目だ。
「また来てもらえるかな。教えてもらえることが増えたら」
「はい、喜んで」
私は笑顔で答えた。
(来る。何度でも来る。ただし——私が次に来る時は、今日より多くの情報を持ってくる。そしてあなたの情報をこの薬草園から引き出す。)
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■ 九
ヴェーバーとの話が一段落した後、私は「薬草園の続きを見学したい」と申し出た。
「どうぞ自由に」と彼は言った。「カール君が案内する」
カールと再び薬草園に出た。
私は「好奇心旺盛な子供」を演じながら、少しずつ奥へと移動した。表の観賞区画、実用区画、そして先ほど立入禁止と言われた区域の周囲。
警備兵が立っている。扉は閉じている。
しかし——今日は少しだけ違う。
扉の位置が、来た時より数センチ開いていた。
風の向きか、あるいは誰かが内側から開けた状態を維持しているのか。いずれにせよ、先ほどより隙間が広い。
私はカールに話しかけた。
「あの白い花の名前は何ですか」と、建物から遠い方向を指差した。
カールが「ヤロウですね」と言って、その方向へ向いた。
私の目が、扉の隙間に向いた。
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■ 十
フローラが、いた。
五メートルほど先の、薄暗い室内。
彼女は床の上に跪いていた。両手を組み、目を閉じている——「祈り」の姿勢だ。
室内の中央に、青銅の香炉が立っていた。三脚の脚。蓋に細かい孔。そこから、細い煙が立ち上っている。
「……神よ、我に力を」
フローラの声が聞こえた。
単調だった。抑揚がなかった。
しかし次の句で——私の背中が、冷えた。
「……薬は、正しき者の手にのみ宿る。毒と薬は紙一重。その紙を引く者が——真の施療者だ」
その言葉を、私は知っていた。
前世で、弟子入りして最初の冬に、ベルクが黒板に書いた「薬師の第一原則」だ。彼が毎年、新しい弟子に最初に教える言葉だ。
「……力ある者が選び、弱き者が受け取る。これが薬学の秩序だ」
次の句も、知っていた。
ベルクが三十歳の時に書いた論文——「施療者の倫理について」の結論部分の文章だ。「弱き者が受け取る」という表現は、前世で私が「それは患者への敬意がない」と反論して、二人が三時間議論した一文だ。
「……そして私は、その選ばれた者となる」
フローラの声が、続いた。
抑揚がない。内容を理解していない。ただ——身体がその言葉の型を覚えて自動的に発音している。
神経回路の定着。繰り返しによる、発話パターンの自動化。
(……これは「練習」ではない。ベルクの「思想」をフローラの神経に刻み込んでいる。)
煙が、フローラの周囲に漂っていた。薄いベールのように彼女の輪郭を包んでいる。ラベンダーの甘い匂いが、隙間からここまで届いてくる。その下に——あの揮発性アルカロイドの金属的な後味が混じっている。
フローラの瞳孔を確認しようとした。
彼女の目は閉じている。しかし、時折わずかに開く——開いた瞬間の瞳孔の大きさを確認した。
縮小している。
通常、暗い室内では瞳孔は拡大する。しかし今のフローラの瞳孔は、縮小していた。これは——副交感神経の過剰な活性化だ。煙に含まれる揮発性アルカロイドが、吸気を通じて脳内に浸透し、神経系の「受け取り体制」を作っている。
言葉を「受け入れやすい状態」に身体を整えさせている。
そして誰かが——今はいない、しかし先ほどまでいたのだろう——フローラに「言葉」を流し込んでいた。
(第二段階だ。人格の不安定化。記憶の曖昧化の次——新しい言葉を埋め込む段階。)
フローラの首が、少し傾いた。
その瞬間——彼女の目が開いた。
視線が、扉の隙間を通じて、私と合った。
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■ 十一
「……お姉……ちゃ……?」
フローラの口が動いた。
声は——彼女の声ではなかった。
フローラの声帯が作っている音は確かに彼女のものだ。しかしその声の質が違う。いつもの軽やかな声ではなく、どこか底に粘りがある。夢の中で声を出そうとした時の、言葉が形になりにくい感触がある声だ。
「お姉……ちゃん」
彼女は立ち上がろうとした。
右膝が持ち上がる。しかし左膝がついてくるのが、通常より〇・五秒遅れた。筋肉の動員順序が乱れている——煙に含まれる成分が、運動野と脊髄の連絡を微妙に遅延させている。
「お嬢様!こちらは——」
警備兵が動いた。
私は「ごめんなさい、迷子になっちゃって」と言いながら、後ろに下がった。
その間、ずっとフローラから目を離さなかった。
フローラは立ち上がりかけたまま、止まった。私が下がったから——ではない。彼女の身体が、「立ち上がる」という意図に追いついていないのだ。
三秒後、フローラの身体は元の姿勢に戻った。
「祈り」の姿勢に。
自動的に。
「エルナお嬢様、大丈夫ですか」とカールが駆けてきた。
「大丈夫です、道を間違えて——すみません」
私はカールに向けて、困った顔をして見せた。
しかし視線だけは、最後まで扉の隙間に向けていた。
煙の中で、フローラが再び目を閉じた。
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■ 十二
薬草園のベンチで、一人になった。
カールが「お茶の準備をします」と言って建物に入った。
私は手帳を開いた。
「フローラ治療計画——暫定版」と書いた。
手が震えていた。
震えを観察した——手指の細かい振戦。心拍の上昇(推定百二十から百三十の間)。咬筋の緊張。これは怒りの生理学的プロファイルだ。アドレナリンとノルアドレナリンの同時分泌。
(感情の観測を実施する。)
怒り。それだけではない。何かもっと根元にある感情だ。
(……罪悪感。)
私がもっと早く動いていれば。私が最初にフローラの変化に気づいた時——第一話で彼女の目に「狂気の輝き」を見た時——もっと積極的な介入をしていれば。
「感情記録」と手帳に書いた。「罪悪感:三十八パーセント。怒り:四十七パーセント。焦り:十五パーセント。」
パーセンテージにしてしまえば少し楽になる。理由は分からないが、そうなのだ。感情を数値にすると、それが「処理可能な情報」になる。
(今は処理しない。後で処理する。今は「計画」を書く。)
書き出した。
現状:フローラは化学的催眠プロセスの第二段階にある。人格の上書きが進行中。残された時間は七日から十日。
必要なもの:一、香炉の煙のサンプル。二、催眠解除のための逆トリガーの設計。三、フローラを物理的に連れ出す口実。四、ベルク側の注意を逸らす陽動。
そして一つ、書き加えた。
「五、シグバルトに相談する。香炉の成分について、彼が知っている可能性がある。」
ペンを止めた。
フローラの声が、耳の中に残っていた。「お姉……ちゃ……?」という、あの奇妙に重い声が。
「フローラ」と私は小声で言った。
「お前を治す。それが前提条件だ。」
処方箋はまだ書けない。
しかし——何を治すべきかは、今日、確認できた。
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■ 十三
見学を終え、正門へ向かった。
ヴェーバーが「送ろう」と言って、カールと共についてきた。
馬車が待っていた。
門の前まで来て、カールが「少し確認があります」と言って門番のところへ行った。私とヴェーバーが二人になった。
「今日はどうだった」とヴェーバーは言った。
「素晴らしいところです」と私は答えた。「特に土壌の観察が興味深かった。区画によって土の性質がまるで違いますね」
「よく見ていたんだね」
「薬草の勉強は、土から始まると思っているので」
ヴェーバーは少し笑った。「そうだな。土は正直だ。嘘をつかない」
「植物も正直ですよ」と私は言った。「人間と違って」
「そうかもしれない」
馬車の扉が開いた。
私は踏み台に足をかけた。
その瞬間——ヴェーバーの顔が近づいてきた。
「エルナ嬢」と彼は言った。声のトーンが変わった。
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■ 十四
声が、低くなった。
穏やかな「顧問」の声ではなく——もっと別の質の声になった。私が知っている声のトーンだ。前世で、二十年間聞き続けた声の、あの「批評する時」の低さに。
「君の書く処方箋は、今でも少し甘いな、エルナ」
世界が、一瞬、止まった。
薬草園の風の音が消えた。石畳の固さが足裏から消えた。
心臓が一拍、完全に止まった——そして次の瞬間、倍速で再起動した。
この言葉を、私は知っている。
「お前の処方箋は『正しい』が『甘い』。もっと毒を——もっと『効く』方を選べ」
それは前世でベルクが、私が薬の配合を間違えた時に言った言葉だ。二十五歳の時、月光草の抽出物の濃度計算を誤って。ベルクは笑いながら——笑いながら——そう言った。
この言葉を知っているのは、ベルクだけだ。
あの場にいた私と、ベルクだけだ。
「……昔の知り合いの口癖ですね」
私は言った。
声が震えていないか——確認する。震えていなかった。これだけは、訓練の成果だ。
ヴェーバーが微笑んだ。
「そうかもしれない」と彼は言った。「あるいは——『昔の知り合い』が、私を通じて言っているのかも」
「それは興味深い仮説ですね」
「君は面白い」とヴェーバーは言った。「また来てくれ。教えることが、まだたくさんある」
私は馬車に乗り込んだ。
扉が閉まった。
馬車が動き出した。
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■ 十五
窓の外を見た。
王宮が遠ざかっていく。石造りの壁。整然とした庭。そして薬草園の緑が、だんだん小さくなる。
私は両手を膝の上に置いた。
震えていた。
細かく、速く、制御できない振戦だ。先ほどの会話の間は抑えられていた——しかし今は扉が閉まっている。見られていない。だから身体が、抑えていたものを解放した。
「……観測する」と私は呟いた。
心拍数:推定百四十五から百五十。過呼吸の手前。末梢の血流が体幹に集中している——手が冷たい。皮膚の表面に、発汗の気配がある。
これは恐怖の生理プロファイルだ。
しかし怖いのか、と問えば——違う、と答える。
怖いのではなく、「飽和している」のだ。
水溶液が溶質を受け入れられる最大量に達した状態——飽和水溶液。今の私はそれに近い。ベルクの名前を聞いた時から、フローラの瞳孔の縮小を見た時から、「お前の処方箋は甘い」という言葉を聞いた時から——情報と感情が限界まで詰め込まれて、身体が「放出を要求している」状態だ。
しかし。
「甘い」という言葉が、まだ耳の中にある。
前世でその言葉を聞いた時は——悔しかった。「もっとよく書きたい」という悔しさだった。師に認められたいという、弟子の感情だった。あの頃の私は、ベルクの評価を「正しい評価」として受け取っていた。
しかし今日のヴェーバーが投げた「甘い」という言葉は——「正しい評価」ではない。
揺さぶりだ。
「甘い」と言うことで、私を「もっと強くなろうとする弟子」の反応に引き込もうとしている。ベルクが私を二十年間かけて形成した「心理的なボタン」を押している。
(……私はもうそのボタンを持っていない。)
持っていない、と言い切れるかどうか——正直には分からない。今も少しだけ、「甘くない処方箋を書きたい」という衝動がある。それが前世の刷り込みの深さだ。
しかし。
(私はベルクの弟子ではない。今日からではなく——前世の法廷で彼が証言台に立った瞬間から、もうそうではなかった。)
「弟子」は師の評価を待つ。
「検閲官」は師の処方箋を破棄できる。
私は今、後者だ。
震えは、放出の一形態だ。
(……今日の放出はここまでにする。)
私は深く息を吸った。月蝕草の幼苗を噛んだ時のように、迷走神経を刺激するために——今は何もないから、ゆっくりと長く息を吐くだけにする。副交感神経への、最小限の働きかけだ。
四秒吸って、七秒で吐く。
三回繰り返した。
震えが、少し収まった。
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■ 十六
手帳を開いた。
「K・ヴェーバー観察記録」と書いた。
「左足の引きずり:ベルクと同様の動作パターン。右手の三本指立て:ベルクの思考整理時の癖と一致。サイレントウィードの名称を自然に使用——この時代に公式には存在しない毒の名前。前世でベルクのみが知る叱咤の言葉を発話。」
「結論:この人物は『ベルクの知識と記憶の一部』を保有している。経路は不明。可能性①——ベルクの弟子として長期の薫陶を受けた。②——何らかの方法で記憶の転写を受けた。③——ベルク本人が別の身体に意識を移している。」
「どの可能性でも——ベルクは生きている。そしてこの男を通じて、今も動いている。」
「彼は私が前世の知識を持つことを確信している。今日のテスト質問がその証明だ。」
書き止めた。
次に「今日の最大の発見」を一行だけ書いた。
「『お前の処方箋は甘い』——ベルクが二十五歳の私に言った言葉。ヴェーバーはこれを知っていた。」
「つまりベルクの記憶には、私との二十年間が含まれている。」
「そして彼は、今もその記憶を使って——私を動かそうとしている。」
最後に一行だけ加えた。
「対策:感情への揺さぶりには『感情の観測』で応じる。しかし今日の言葉は——今夜、一度だけ、ちゃんと感じる。」
手帳を閉じた。
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■ 十七
館に戻り、自室に入り、鍵をかけた。
窓から薬草園が見えた。夕方の光が、月蝕草の芽を橙色に染めていた。
私は伝書鳩を飛ばした。
「K.V. = ベルクの影。フローラ = 洗脳進行中。残り七日。準備を急げ。——E」
暗号化は省いた。短く、速く。今は速さが優先だ。
鳩が飛んでいく。
私は机の前に座り、羊皮紙を一枚取り出した。
タイトルを書いた。「最終処方箋——定義」。
「これは敵を殺すための毒ではない。これは日常に戻るための薬だ。」
「ただし、もし毒が必要なら——私は毒も調合する。薬師だからではなく、エルナ・フォン・ヴァルトハウゼンが——そう選ぶからだ。」
そして最後の一行を書いた。
「ベルク先生。あなたは私に『処方箋は甘いな』と言った。」
「では今度は、私から先生に処方箋を書こう。」
「処方内容:先生の書いた全ての処方を、根元から無効化すること。」
「服用者:あなた自身。」
「用量:必要なだけ。」
羊皮紙を、引き出しにしまった。
窓の外で、月蝕草の芽が、春の夕風に揺れていた。
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(第七話・了)
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