第六話 硝子瓶の分析結果と、筆跡の沈黙
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■ 一
妹のポケットの中身をすり替える——これも薬師の仕事のうちだ、と私は思った。
窓から差し込む朝の光が、フローラの部屋を薄く染めていた。ラベンダー色のカーテン、白い天蓋、棚の上に並んだ陶器の動物たち——八歳の少女の部屋は、このような装飾で埋まっている。私はその部屋の床に座り、フローラと向かい合っていた。距離は八十センチ。
「お姉ちゃん、この人形のお名前なに?」
フローラは私が持参した人形を膝の上に乗せ、首を傾けた。焦げ茶色の髪が肩から滑り落ちた。
「名前はまだないの。フローラがつけてあげて」
「じゃあ……ルイーザ」
「良い名前ね」
私は微笑みながら、視線の動きを計算していた。人形を手渡した瞬間、フローラの焦点は人形の顔に吸い寄せられる。その持続時間は——経験則では一・五秒から二秒。目の前に「自分が関心を持つ対象」が現れた時、人間の注意は一時的に外界への警戒を緩める。それが視覚的な刺激であれば、なおさらだ。
右手で人形を差し出す。
左手は、すでにテーブルの下にあった。
フローラの視線が人形に落ちた瞬間——私の指先が、彼女のスカートのひだの中に入った。
ガラスの感触。小指大。滑らかな曲面。予想通りの形状だ。
右手がフローラの両手の中に人形を収める。その動作の加速度が視線を引っ張る。
左手が瓶を引き抜き、代わりに空の偽瓶を差し込む。
一・四秒。
「ルイーザかあ。素敵ね」
私は声のトーンを変えず言った。
フローラは人形の目を指で触り、「本物のガラスだ」と呟いた。私は彼女の表情を観察した——無邪気だ。しかし本物の無邪気さか、演じた無邪気さか、この角度からは判断がつかない。
三十秒後、フローラは無意識にポケットを触った。
瓶の「有無」を確認するための動作だ。「重さ」を確認していない。形状も確認していない。ただ——「そこにある」かどうかだけを確かめた。
彼女の表情が、わずかに安堵した。
(中身には興味がない。あることだけを確認している。)
私はその事実を格納した。
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■ 二
「ちょっと薬草園を見てくるね」
フローラに言い、私は部屋を出た。
廊下を歩きながら、左のポケットを触った。ガラスの感触がある。中身は——揺れていない。粘性が低い液体だ。
自室に戻り、鍵をかけた。カーテンを閉める。
机の上に小さな蝋燭を立てた。調剤室まで持って行くより、ここで初期観察を行う方が速い。瓶を取り出し、光にかざした。
無色透明。
底に沈殿物はない。均一な液体だ。容量は五ミリリットル前後——小指の第一関節から先ほどの長さのガラス瓶。栓は蜜蝋で封じてある。前世でも見た封印方法だ。
匂いを確認する。蜜蝋を爪で少しだけ削り、栓を微開にして鼻を近づけた。
甘い。しかし花の甘さではない。溶媒の甘さだ——グリセリンの匂いに近い。脂肪族アルコールの揮発成分が混じった、医薬品の調製によく使われる種類の匂いだ。
「毒ではない」と私は小声で言った。「少なくとも——即効性の毒ではない。」
調剤室へ向かった。
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■ 三
分析は体系的に進めた。
まずpH試験紙を液体に浸す。変色は緑から青緑の中間——pH六・九。ほぼ中性だ。強酸・強アルカリではない。刺激性の腐食毒は除外できる。
次に加熱試験。蒸留フラスコに液体の半量を移し、緩やかに加熱する。沸騰まで持っていかず、八十度前後で保温する。白い煙ではなく、わずかな蒸気が立ち上がる。それ自体は普通だ。問題は——加熱を続けた時に現れる沈殿だ。
七分後、フラスコの底に白い粒が現れた。
私は火を止め、拡大鏡を取り出した。沈殿物の形状を観察する。結晶性の粒子だが、均一ではない。タンパク質の熱変性による凝集か、あるいは糖質の結晶化か——後者なら加熱温度で形状が変わるはずだ。もう少し高温で試す。
百度に近い温度まで上げると、白い沈殿が茶色に変化した。
糖質の焦化反応だ。
「グリセリンと糖質の組み合わせ」——これだけなら医薬品の調製溶媒として一般的だ。問題は「そこに何が溶けているか」だ。
次の試験に移る。
前世で使っていた呈色反応試薬は、この時代のヴァルトハウゼン家の調剤室には一部しかない。しかし父の書斎から持ち出した化学書に記載されている手法で、代用できるものがある。
特定のタンニン酸溶液と反応させると——ポリフェノール系化合物は紫から青紫に変色する。
私は父の薬棚からタンニン酸を含む「没食子」を取り出した。粉末にして水に溶かし、試験溶液を作る。それを先ほどの液体に二滴、混ぜる。
反応は——即座だった。
液体が、青紫に変わった。
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■ 四
私は拡大鏡をテーブルに置いた。
ポリフェノール系化合物が含まれている。グリセリンと糖質の溶媒に溶かされた、ポリフェノール系の活性物質。
前世の知識と照合する。
月蝕草の有効成分——サイレントウィードの解毒に使われる「ルナリン」系化合物——はフラボノイド骨格を持つポリフェノールだ。フラボノイドは植物の二次代謝産物であり、酸化防止や抗菌作用を持つ。
しかしフラボノイドには「拮抗薬」が存在する。
特定の構造を持つタンニン酸誘導体は、フラボノイドの受容体結合部位に先に結合して、本来の薬効を阻害する——競合的拮抗阻害だ。これは鍵穴に違う鍵を刺して、本来の鍵が刺さらなくする仕組みに似ている。
つまりこの液体は——月蝕草の「ルナリン」が体内で作用するのを、前もって妨害するために設計された化合物だ。
「解毒薬の、解毒薬殺し」と私は呟いた。
これをフローラが携帯していた。
誰が使わせようとしているのか——私にとって月蝕草が「解毒の要」であることを知っている人間が、その効果を事前に無効化しようとしている。
さらに問題は、この化合物の精度だ。
グリセリンへの溶解性、タンニン酸誘導体の選択性、安定性のための糖質コーティング——これは素人が偶然作れるものではない。高度な薬学知識と、月蝕草の成分構造への正確な理解が必要だ。
しかし最も私を揺さぶったのは、そこではなかった。
糖質コーティングの技術だ。
活性成分を糖鎖で包んで溶媒中に安定化させる——この手法を私が論文にまとめたのは、前世の二十五歳の時だ。ベルクと共著で発表した「不安定フラボノイドの長期保存法」という題の研究だ。当時、私がアイデアを持ち込み、ベルクが理論的な裏付けを加えてくれた。発表後、他の薬師たちは「実用化は困難」と言っていた。
なぜなら安定化のための糖鎖の長さと、コーティング後の溶出速度の調整が、極めて難しかったからだ。
しかし今、この瓶の中の液体は——完全に安定化されている。
私が二十五歳で発表した手法の、完成版だ。
(フローラ自身が作れるわけがない。誰かが作り、彼女に渡した。)
(そしてその「誰か」は——私が月蝕草の解毒メカニズムを知っていることだけではなく、私が二十五歳でどんな論文を書いたかまで、知っている。)
(私の研究を見ていた人間が、私の研究を武器に変えた。)
ヨハン・フォン・ベルク。
前世で私に薬学を教えた男。私の研究の全てを、二十年かけて隣で見ていた男。
私の知識の全てを、知り尽くしている男。
その男が——私の二十五歳の成果を、私への攻撃に転用した。
壁を見た。壁は普通の石だった。しかし今の私には、その向こうに「前世の研究室」が透けて見えるような気がした。共著論文の草稿を並べて、二人で議論した夜の光景が。
それが今、硝子瓶の中に入っている。
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■ 五
伝書鳩を飛ばしたのは午前九時だった。
暗号化した内容は短い。「分析完了。見解あり。正午、例の場所で。」
例の場所——先日使った水車小屋だ。レオンハルトには事前に「次の会合の場所はここを基本とする」と伝えてある。
返信は一時間後に来た。「了解。」の二文字だけだった。
正午、水車小屋へ向かった。
レオンハルトはすでにいた。今日は書類の束を持っている——机の上に広げた紙の量が、前回より多い。
「フローラの瓶の件か」と彼は言った。
「そうです。それと——あなたが準備してくれたものも確認したい」
「ベルクの署名だ」と彼は言って、羊皮紙を三枚、机の上に置いた。「宮廷文書保管庫から引っ張り出した。彼が在籍していた十年以上前の公式文書だ」
私はそれを手に取り、光にかざした。
縦長の書体。「B」の右肩上がりが特徴的だ。「g」の下端ループが、次の文字に繋がらずに閉じている。インクの乗り方が均一で、筆圧が一定——羽根ペンを深く握る習慣の痕跡だ。
「比較対象を」と私は言った。
「先日ハインツの研究室で見つけた『月蝕草の種子破棄指示書』を持ってきた」とレオンハルトは言って、もう一枚を出した。「お前が記憶から再現した手紙の内容も、参考として」
「それは要りません。記憶の再現は精度が落ちる。公式文書と指示書だけ照合します」
拡大鏡を取り出した。
「B」の比較——右肩の角度が二十三度から二十五度の間。指示書も、宮廷文書も、同じ範囲に収まっている。
「g」の比較——ループの閉じ方。宮廷文書では直径約三ミリ。指示書では二・八ミリ。これは筆記速度の差による僅差だ——急いで書いた時はループが小さくなる。
インクの滲み——同一品種の羽根ペン由来と判断できる、右端の特徴的な裂け目の痕跡。
「……一致する」と私は言った。
「断言できるか」
「断言します。この指示書はヨハン・フォン・ベルクが書いたものです。」
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■ 六
レオンハルトは少し黙った。
水車が外で回っている。春の水量が増えているから、先週より速い。その音が部屋の沈黙に混ざり込んだ。
「問題が一つある」と彼は言った。
「遺体の件ですね」
彼の目が僅かに動いた。「……知っていたのか」
「可能性として予測していました。彼が十年前に死亡した記録があるはずです」
「そうだ」とレオンハルトは言って、別の書類を取り出した。「宮廷の死亡記録だ。ヨハン・フォン・ベルクは十年前、王宮の実験棟で発生した火災により死亡。遺体は発見され、当時の宮廷薬師三名が身元を確認した」
「確認方法は」
「歯の治療跡、右肩の古傷、そして——解剖まで行われた。死因は一酸化炭素中毒。焼死ではなく、煙による窒息だと断定されている」
私は書類を受け取り、死亡確認のプロセスを読んだ。
三名の署名。解剖所見の詳細。歯科記録との照合。骨格の特徴の記述——これだけの確認が行われたなら、「見間違い」という説明はできない。
「解剖まで行われた遺体が別人なら」と私は言った。「骨格の特徴まで一致させるのは、この時代の技術では不可能に近い」
「そうだ。だからこそ矛盾する」とレオンハルトは言った。「遺体はベルクだった。しかしベルクは生きている。筆跡がそれを証明している」
私は拡大鏡を机に置いた。
「仮説を三つ立てます」と私は言った。「一つ目。ベルクに一卵性の双子がいた。双子なら骨格・歯型・古傷まで酷似する場合がある。ただし記録にはない」
「記録を調べた」とレオンハルトが言った。「兄弟の記録なし。彼は孤児だったと残っている」
「二つ目。遺体はベルクに極めて近い別人で、事前に同じ治療・同じ傷を負わせるという精巧な偽装が行われた。これは実行にかかる時間とリスクの点で、現実的ではない」
「同意する。三つ目は」
私は少し間を置いた。
「三つ目は——私の専門領域の外になりますが」と前置きして言った。「遺体は本当にベルクのものだ。しかし彼は、ある意味で死んでいない。つまり——時間軸が複数あるという前提を受け入れるなら——今この時代に存在するベルクは、別の時間の彼だ」
「……」
「或いは、もっと単純に。十年前の時点で既に彼は何らかの方法で」私は言葉を選んだ。「自分が死ぬという事実を知っていた。そして死ぬ前に——自分と同等の知識を持った『後継者』を育て、そこへ全てを引き継いだ。我々が今見ているのは『ベルクではなく、ベルクを継いだ者』かもしれない」
レオンハルトは長い間、外の水車を見ていた。
「筆跡は一致しているのに」と彼は言った。「訓練された代替者が、完璧に筆跡まで模倣したとすれば」
「二十年以上の訓練が必要です。しかし不可能ではない」
「……どれが正しいと思う」
「分かりません」と私は答えた。「しかし——どの仮説でも、共通することがある。この人物は組織的に支援されている。十年間の隠蔽、王宮内での活動、フローラへの接触、拮抗薬の製造——一人の人間がやれることではない」
「組織、か」
「殿下の方が、王宮内の組織に詳しいはずです」
レオンハルトは私を見た。その目に、これまでと違う何かがある——計算ではなく、考え込んでいる目だ。
「……心当たりがないわけではない」と彼は言った。「しかし今は言えない。俺が確認できていない段階で出すと、お前が余計なリスクを負う可能性がある」
「情報の出し方を考えている——それは私も理解します」
「お前のやり方を真似ている」と彼は言った。微かに、口元が動いた。
「共犯者の特権です」と私は答えた。
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■ 七
水車小屋を出た時、空は午後に傾いていた。
帰路、私は瓶の件を整理した。
フローラが携帯していた拮抗薬——月蝕草の無効化剤——の存在は、今日レオンハルトには伝えなかった。
理由は一つだ。この情報を彼に渡せば、彼はフローラへの対処を「公式ルート」で動かす可能性がある。それは今、私が最も避けたいことだ。フローラは被害者でもある。彼女を動かしている背後の人物が判明する前に、フローラ自身が標的にされるリスクを作りたくなかった。
「情報の出し方を考えている」——そう言ったのは、レオンハルトだけではない。
私も同じだ。
ただし。
(共犯者として約束したことがある。「精神的に限界の時は言え」という要望に対して、私は「了解した」と答えた。そして「重要な情報を得たら十分以内に」という誓約もある。)
今回は十分以内ではなかった——分析に時間がかかったから、これは誓約の範囲外だ。しかしフローラの拮抗薬を保留したことは、情報の意図的な非共有だ。
(……今後の判断基準として記録する。フローラに関わる情報は、私が「安全と判断した段階で」共有する。それまでは保留。)
館に戻ると、廊下に母がいた。
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■ 八
「お帰り、エルナ」
母は笑顔だった。手に書類を持っている——商会の帳簿か、家計の記録か。ごく日常の光景だ。
「ただいまです、お母様。今日は少し外出していました」
「薬草の研究の件?」
「はい」
私は母の顔を観察した。昨夜の「手指震戦」は今日は見えない。十分な睡眠が取れたか、あるいは意識的に抑えているか。どちらにせよ、今の彼女は表面上は「普通」だ。
「お茶でもどうですか」と私は言った。「書斎で一緒に」
「いいわね」と母は言った。
書斎に入り、椅子に座る。侍女がお茶を運んでくる。私は礼を言い、侍女が出ていった後で母の向かいに座った。
「お母様」と私は言った。
「何?」
「最近、頭痛や眩暈はありますか」
母が少し首を傾けた。「……そういえば、ここのところ時々、急に頭が痛くなることがあるわね。すぐ治るけれど」
「それはいつ頃から?」
「うーん……三ヶ月前くらいかしら。フローラが風邪を引いた頃から」
(やはりそうだ。あの時期を境に、何かが始まっている。)
私はカップを両手で持ち、少し間を置いてから言った。
「お母様。確認させてください。フローラのあの時のお医者様の件です」
母の手が、カップの上で止まった。
「ヨハン・フォン・ベルク先生って、ご存知ですか」
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■ 九
変化は、即座だった。
「ベル」という音節を聞いた瞬間——母の身体が、石になった。
字義通り、硬直した。姿勢が変わらず、表情が変わらず、視線が固定された。カップを持つ指が白くなっているのは、握力が無意識に増したからだ。
「く」——名前の最後の音節が私の口を出た瞬間に、母の瞳孔が広がった。
薬師として、それを見逃さなかった。
瞳孔散大。この場合の原因は——光量の変化ではない。窓からの採光は変化していない。アドレナリンの急激な分泌でもない。これは「自律神経の異常反応」だ。特定の刺激に対する、条件付けられた反応。
呼吸が止まった。
止まった、というより、正確には「呼吸の間隔が異常に延長した」——吸気の後に来るべき呼気が、三秒間、来なかった。副交感神経の急激な活性化が呼吸筋を一時的に弛緩させている。
「お母様」
私は声を落として言った。手を伸ばし、母の手首を取る——脈を確認する。
冷たかった。
指先が母の皮膚に触れた瞬間、私は一瞬、動きを止めた。体温が低い。こんなに冷たかっただろうか——いや、違う。血流が末梢から引いている。血管収縮が起きている。この冷たさは「発作による」ものだ。
しかし私の指先は、その冷たさをなぜか、長く覚えた。
(私が、この名前を言った。)
その事実が、観察の隙間に滑り込んできた。発作を「観測」するために、私がトリガーを引いた。確認のために、意図的に。
(……記録する。感情。加害の認識。パーセンテージ——今は計算しない。)
心拍を確認する。不規則だ。一秒間に一回の正常リズムが崩れ、〇・七秒、一・三秒、〇・九秒——拍動の間隔がバラバラになっている。これは「不整脈の発生」ではなく、自律神経の混乱による一時的な調律の乱れだ。
(大丈夫だ。生命に関わる不整脈ではない。しかし——繰り返されれば、心臓への負荷が積み重なる。)
(そして今回の「繰り返し」を実行したのは、私だ。)
次の瞬間——母の意識が、落ちた。
落ちた、というのは睡眠ではない。目は開いている。しかし焦点が消えた。虚空を見ている目だ。「内部の処理」が何かをしていて、外部からの入力を遮断している状態。
時計を見た。十七秒。十八秒。十九秒——。
二十三秒後に、焦点が戻った。
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■ 十
「……エルナ?」
母は私を見た。混乱した目だ。「あれ、私……今どうしてたの?」
「ちょっとぼんやりしていましたよ。大丈夫ですか」
「ええ……何を話してたかしら」
「お茶が美味しいって話していました」と私は言った。
嘘だ。しかし今は正確な情報を提供する必要はない。
「そうだったかしら……なんだか頭が痛い」
「少し横になった方がいいかもしれません。私が呼んできますから」
私は侍女を呼んで母を部屋に連れて行ってもらった。廊下に出た瞬間に、ノートを取り出して書き留めた。
「母の発作記録。トリガー:『ヨハン・フォン・ベルク』という名の発話。発症時間:名前の発音完了から〇・三秒以内。瞳孔散大:確認。呼吸停止:三秒。不整脈:確認。意識消失様状態:二十三秒。記憶の消失:トリガー発話の前後、推定三〜五分間。」
「診断:ポスト・ヒプノティック・サジェスチョン(催眠後暗示)。特定の音声パターンに反応する。」
「リスク評価:繰り返しによる心臓への累積負荷。長期的には器質的ダメージの可能性。」
「対処方針:上書き暗示による解除を検討。ただし施術者の技術水準がベルク本人と同等か以上であることが前提。——シグバルトに相談すべきか?」
ペンを止めた。
自分の手が、わずかに震えていた。
(感情の観測を実施する。)
恐怖ではない。怒りでもない。もっと冷たい、静かな何かだ。「許せない」という感情とも違う。もっと正確に言えば——「これは解決できる問題だ」という認識と「しかし解決の道が今はまだ見えない」という認識が、並列に存在している状態だ。
それを「焦り」と呼ぶなら、そうかもしれない。
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■ 十一
翌朝、招待状が来た。
朝食の前に、執事が一通の封書を持ってきた。「早朝の使者が届けていきました」と言って去った。
封蝋は王宮の紋章に近いが、完全に同じではない——「王宮薬草管理局」という、通常の王宮紋章より一段低い部署の印だ。差出人の署名は「K・ヴェーバー、特別顧問」。
私は封蝋を壊さないように、端から慎重に開いた。
羊皮紙。書き文字。
『エルナ・フォン・ヴァルトハウゼン嬢。貴女の薬草学における卓越した才能は、広く聞こえ及んでいます。つきましては王宮薬草園の特別講師補佐として、希少薬草の保存と育成に関する講義実施のご協力を賜りたく存じます。三日後よりお越しいただけますと幸いです。詳細は別紙にて。』
文体は丁寧だ。王宮の公式文書の形式を踏んでいる。しかし「十歳の伯爵令嬢」に対して「卓越した才能は広く聞こえ及んでいる」というのは——どこかで私が観察されていたということだ。
筆跡を確認した。
書体は流麗で、どこかで見た——という感覚がある。ベルクの宮廷文書の書体と、似ている。しかし完全に一致しない。わずかに「g」の下端ループの向きが逆だ。右回りではなく、左回りになっている。
「真似ている」のか「別人だが同じ師から学んだ」のか。どちらにせよ、ベルクと繋がる人物だ。
私は羊皮紙を手のひらに乗せたまま、鼻を近づけた。
匂いがした。
羊皮紙自体の動物性の匂いの下に——何かが混じっている。わずかに、金属的な揮発成分。特定の溶媒に長期間さらされた紙特有の匂いだ。
どの溶媒か。
記憶を辿る。前世の研究室の棚。ベルクの使っていた机の周囲に常にあった匂い。実験で頻繁に使っていた試薬——エタノールと、もう一種類。
「酢酸エチル」
私は小声で言った。
有機溶媒の一つで、植物抽出の際に特定の油性成分を分離するために使う。ベルクがよく使っていた溶媒だ——月光草属の有効成分を、脂質成分から分離するための手法として、私に教えてくれた。
この羊皮紙は、酢酸エチルを日常的に扱う場所で保管されていた。
あるいは——酢酸エチルを使う人間が、直接触れた。
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■ 十二
私は招待状を机の上に置き、椅子に座った。
伝書鳩を飛ばす前に、状況を整理する。
「獲得したもの」を書き出した。フローラの瓶の成分——月蝕草の無効化剤。ベルクの筆跡の確認——指示書との一致。母の症状の診断——催眠後暗示。そして今朝の招待状——酢酸エチルの匂い、ベルクの書体に近い筆跡。
「失ったもの」を書き出した。フローラの警戒が高まっている可能性——まだ偽瓶に気づいていないが、時間の問題だ。母の記憶に空白が生じた——繰り返しによるリスクが高まった。
「敵の意図」について考えた。
この招待状が「罠」であることは、ほぼ確実だ。理由は三つある。まず私は十歳の令嬢だ。「広く聞こえ及ぶ才能」を王宮が認識する機会は、王子との接触以外にない。つまり情報源はレオンハルト経由か、私の行動を直接観察した誰かだ。次に「K・ヴェーバー」という差出人が偽名であること——ヴェーバーはこの国に多い姓だが、「K」という頭文字の宮廷顧問は記録にいない。最後に筆跡とベルクの関連。
しかし。
「罠だから行かない」という選択は——私にはできない。
敵が手を伸ばしてきた。それは同時に、敵の「拠点」が見えるということだ。薬師として私が知っている鉄則がある——毒の出所を突き止めなければ、解毒は根本的な解決にならない。この招待は毒だ。しかし毒の出所だ。
行く。
準備をして、行く。
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■ 十三
夕食の席で、フローラがこちらを見た。
「お姉ちゃん、なんか嬉しそうな顔してる」
「そう? 良いことがあったから」
「何があったの?」
「王宮でお仕事をもらった」と私は言った。「薬草の講師補佐として、希少薬草の勉強をするんだって」
フローラの表情が、〇・三秒だけ変わった。
固まった、というより——情報を処理した顔だ。「王宮」と「薬草」と「エルナ」が同時に繋がった瞬間の、計算の顔。
「すごいね」とフローラは言った。笑顔に戻っていた。しかし今日の笑顔は、昨日より〇・一ミリほど左の口角が高い——意識が片側に集中している時の、左右差だ。
「フローラも将来、王宮に関係する仕事をしたい?」と私は聞いた。
「うーん……聖女になりたいかな」
父が「ほう」と言った。母が「聖女は大変よ」と笑った。
「聖女になれるといいね」と私は言った。「素敵な夢だと思う」
それだけ言って、紅茶を一口飲んだ。
会話はそこで終わった——ように見えた。
しかし私の視線は、フローラのスカートのひだに移っていた。左ポケットの位置。空の偽瓶が入っているはずの場所。
フローラは気づいていない。
気づいていないが——私がそこを見ていることを、三秒後に彼女は感じ取った。
人は、見られていると知覚する。視線が皮膚に当たる感覚は、説明できないが確かに存在する。フローラの手が、ほんの少し、テーブルの縁を握った。
私は視線を戻し、パンを取った。
「フローラ、そのドレス似合ってるね」と言った。「春の色だ」
「ありがとう」とフローラは言った。声が、〇・二秒だけ遅かった。
それで十分だった。
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■ 十四
夜、机の前に座った。
机の上に並べたものがある。
月蝕草の抽出液、少量。硝子瓶から取り出した拮抗薬、分析済みのサンプル。レオンハルトから借りた護身用の小型ナイフ——まだ使ったことはないが、携帯する価値はある。そして招待状。
一つ一つを見た。
これが今の私の「道具」だ。
招待状をもう一度、鼻に近づけた。酢酸エチルの匂いが、わずかに残っている。
前世で、この匂いは「研究室の匂い」だった。ベルクの机の周囲に染み込んでいた匂い。二十年間、毎日嗅いでいた匂い。
その匂いが今、「敵からの招待状」から漂っている。
(……ベルク先生。)
感情を観測する——怒り、六十一パーセント。悲しみ、十九パーセント。困惑、十一パーセント。それ以外、九パーセント。
怒りが一番大きい。
その怒りを行動原理にするつもりはない。しかし——行動の燃料としては、使えるかもしれない。薬師として、感情をゼロにすることは目指さない。観測した上で、使い方を選ぶ。
「処方箋を書こう」と私は呟いた。
前世で、ベルク教授が言ったことがある。「処方箋は診断の後にしか書けない。診断を急いではならない」と。正しい言葉だ。今でも正しい。
今の私の「診断」は——こうだ。
敵は組織的だ。長期計画を持っている。月蝕草の無効化を目論み、フローラを媒介として使い、母の記憶を操作している。そして今、私を「招いた」。
処方箋は——まだ書けない。診断が完全ではないからだ。
三日後、王宮薬草園へ行く。
そこで診断を完了させる。
「処方内容は——現地で決める」と私は机に向かって言った。「しかしおそらく、根源の除去が必要になる。除去の方法が毒か薬かは、まだ分からない。」
招待状を折り畳み、引き出しの中にしまった。
酢酸エチルの匂いが、指に移った。
消えない。
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(第六話・了)
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