第五話 劇薬の誓約と、十歳の共犯者
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■ 一
影は——名前を持っていた。
その名前が、私の呼吸を奪った。
母を館に連れ戻し、侍女に「夫人がお疲れです」と告げ、自室の鍵を閉めるまで、私は何とか立っていた。立ってさえいれば機能を果たせる——それが薬師の身体観だ。骨格が崩れなければ、内臓は動き続ける。
扉が閉まった瞬間に、膝が折れた。
ベッドの端に手をかけ、かろうじて床に倒れるのを防いだ。そのままの姿勢で、呼吸を数えようとした。
できなかった。
呼吸が速い。速すぎる。胸郭が小さく、浅く、繰り返している——数えようとするほど、数えられなくなっていく。指先に痺れがある。末梢血管の収縮だ。二酸化炭素の過剰な排出による血液アルカリ化——パニック発作の、教科書通りの生理学的プロファイルだ。
(わかっている。症状は分類できる。処置を実行しろ。)
しかし。
ヨハン。
ヨハン・フォン・ベルク。
「お前を守る」と言った手のひらの感触が、三十五年分の記憶のどこかから引き抜かれて、今この十歳の体の中に流れ込んできた。
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■ 二
十五歳で弟子入りした。
薬草商の娘が宮廷薬師に師事するのは異例だった。父が伝手を使い、ベルク教授の研究室の門を叩いた。教授は私を一目見て「目が良い」と言った。「何を見ている目かではなく、見ようとしている目だ」と言った。
以来二十年、私はその研究室で生きた。
二十五歳の時、初めての共同論文が学術誌に掲載された。「月光草属の有効成分における採取時刻依存性」——今にして思えば、後の治療薬研究の礎になった論文だ。あの時のベルク教授の顔を、私は今でも正確に再現できる。眼鏡の縁越しに私を見て、「お前の着眼点は私を超えている」と言った。
褒め言葉ではなかった、と今は知っている。
あれは、評価だった。
三十五歳の処刑前夜——法廷の証言台に立ったベルク教授は、白髪の頭を下げ、静かな声で言った。「エルナ・フォン・ヴァルトハウゼンは、患者への毒物投与を目的として複数の毒素を研究していた」と。
その声に、震えはなかった。
(なぜ)
呼吸が、また乱れた。私は床に膝をついたまま、額を片手でおさえた。「なぜ」という問いは感情の産物だ。データではない。だが今の私には、それを整理する論理回路が通常の半分しか動いていない——心拍数の上昇が脳への酸素供給を変えている。
指先の痺れが、肘まで昇ってきた。
(処置を実行しろ。今すぐ。)
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■ 三
机の上に、小さな鉢がある。
月蝕草の幼苗だ。シグバルトが埋めた種から発芽したもの——本来は春の気温が安定してから外で育てるべきところを、私が無理やり調剤室の加温環境で発芽促進させた。だから弱い。細く、白みがかった、本来の月蝕草の銀緑色にはまだ遠い幼苗だ。
私はそこに手を伸ばした。
幼苗を一本、根元から引き抜く。
土が落ちる。白い根が空気にさらされる。この根を土に戻せば、まだ生きられる。しかし今夜は——使わなければならない。
口に入れた。
噛んだ。
苦味が、舌の表面を覆った。
サポニン配糖体の収斂性——これは強い。前世でも実験的に試したことはあったが、自分に使うのは初めてだ。三秒後、胃の底から吐き気が上がってくる。食道の蠕動が逆方向に動こうとしている——それでも私は噛み続けた。
舌が灼けるように痛かった。
植物のサポニンは粘膜を攻撃する。収斂というのは要するに「組織を縮める」作用であり、口腔粘膜がそれに引きつれる感覚は、熱くもなく冷たくもない、名前のつけにくい痛みだ。唾液が増えた。身体が「毒が入った」と判断して、希釈しようとしている。唾液を飲み込む。苦い。
吐き気を「情報」として記録する。嘔吐を強制すれば刺激が過剰になる。今必要なのは、閾値未満の刺激だ。
迷走神経。
延髄から腹部まで走る、副交感神経の幹線だ。苦味の強い刺激は、舌根から食道にかけての迷走神経終末を活性化する。その信号が延髄を経由して——過剰に亢進した交感神経系に対して、拮抗的に働く。
理論上は。
五秒後——吐き気が引いた。
引いた後に来たのは、思っていたものとは違う感覚だった。「静けさ」ではなく、「抜け」だ。糸が切れたような、力が水のように抜けていく感覚。手が重い。思考の解像度が、三段階ほど低下した気がした。
(……これは副交感神経の過剰な揺り戻しだ。アセチルコリンが一時的に優位になり、筋緊張が落ちている。)
そう分析しながら、しかしその分析を終えた直後に、思考が一度、止まった。止まった、という認識さえ遅れてやってきた。
寒い、と思った。
体温は変わっていない。しかし皮膚の感覚が変わっていた——血流が体幹に集まり、末梢が薄くなっている。それが「冷たさ」として知覚される。
呼吸が、まだ速い。しかし速さの質が変わった。浅く速いのではなく、少し深さを取り戻している。胸郭が、半センチほど広がった気がした。
指先の痺れが、薄れていく。
代わりに、重さが来た。
三十秒後——私は床に座ったまま、壁に背を預けた。背中が壁に当たった感触を確認した。重力が正常に働いている。自分がどこにいるか、分かっている。
感情は消えていない。先ほどと同じ重みで、まだそこにある——ただ、「波」が「水面」に収まった。あふれる直前で、踏みとどまっている。
「……これで十分だ」
声に出して確認した。声が出た。良い。喉の痛みが残っているが、機能は正常だ。
月蝕草の幼苗の残骸を、床に置く。根がまだ白い。土に戻せば回復する可能性がある。戻す。
身体を動かそうとした時に気づいた——腕に力が入りにくい。虚脱だ。副交感神経の揺り戻しによる、一時的な筋力低下。五分から十分で回復するはずだ。
それまで、ここに座っていればいい。
机の前に座り、ランプに火を入れるのは——もう少し後にする。
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■ 四
ノートを開き、ペンを持つ。
感情は「生体アラートシステム」だ——私は書いた。無視するのではなく、従うのでもない。観測する。
心拍数を計測する。右手の指を左手首の橈骨動脈に当て、十五秒を数える。拍数は二十一——分換算で八十四。通常が六十から七十の私にとって、まだ高い。しかし先ほどの百二十以上からは大幅に低下している。
「心拍数:84bpm。過剰アドレナリン:収束傾向」
書き留める。
次に呼吸数。胸の動きを一分間数える。十六回。通常の十二から十四よりやや多いが、許容範囲だ。
「呼吸数:16回/分。パニック症状:残存するが観測可能域に収束」
手の震えを確認する。ペンを水平に保ち、先端の揺れを目視で測定する——約二ミリ。精密作業には不適だが、文字を書く程度なら問題ない。
「手指震戦:軽微。精密作業:二十分後に再評価」
私はノートの次の行に、別のことを書いた。
「ヨハン・フォン・ベルク。記録の上で死んでいる。しかし存在している。」
「目的:不明。方法:不明。しかし確定した事実は——彼はフローラに接触した。月蝕草を絶やそうとしている。そして、私の母を介して行動している。」
そこで私はペンを止めた。
手が、わずかに震えた。二ミリより、少しだけ多く。
(感情としての記録を実施する。)
私はノートに書いた。「ベルク先生への感情:裏切られた、という認識が六十七パーセントの確率で正しいと判断される。しかし——その認識を行動原理とすることは、今は保留する。」
ペンを置いた。
窓の外が、少しだけ白んでいた。夜明けまで、まだ時間がある。
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■ 五
時計を確認した。
深夜十一時五十三分——母から名前を聞いたのが、おそらく十一時四十分過ぎだ。
レオンハルトとの誓約を思い出した。「新しい情報を得たら十分以内に」。
七分が過ぎていた。
私は立ち上がった。まだ手が完全に安定していないが——鳩を飛ばす作業は利き手だけで行える。薬草園の外れに鳩舎がある。父が薬草のサンプルを他領の取引先へ送るために使っている。夜間でも扉は開いている。
暗号化を考えながら廊下を進んだ。
レオンハルトに送る情報は「ベルクという名前と、会う必要がある」の二点だ。シンプルだが、傍受されれば「人名」だと分かる。それは避けたい。
暗号の鍵は——薬草の学名を使う。前世でエルナ自身が命名した新種の学名変換規則だ。私の脳内にしか存在しない体系だ。
「B」——バコパ・モンニエリ。「E」——エキナセア。「R」——ラファヌス。「G」——ゲンチアナ。
鳩舎で一羽選び、革の筒に小さく折った紙を入れた。
書いたのは三行だけだ。
『バコパ・エキナセア・ラファヌス・ゲンチアナ。明朝、会いたい。』
「バコパ・エキナセア・ラファヌス・ゲンチアナ」——それが、ベルクの名前だ。レオンハルトには解読できない。しかし「解読できない暗号が届いた」という事実だけで、彼には伝わるはずだ。翌朝、私が説明する。
鳩を飛ばした。
夜空に消えていくその白い影を見ながら、私は思った——これでいい。誓約は守られた。内容ではなく、事実を届けた。
「対峙から十二分。誓約の許容時間を二分超過。記録する。」
そして自室に戻った。
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■ 六
夜が明けた。
鳩が戻ってきたのは、朝食の前だった。革の筒の中に、短い返信がある。
『正午。北門。馬を。——L』
五文字だ。無駄がない。
私はその紙を蝋燭で燃やし、灰を指でつぶした。
(昨夜送った暗号を、彼は一晩で調べたのか。それとも「解読できない=重要な名前」と判断して、確認もせずに動くことを決めたのか。)
どちらであっても、彼の判断は速い。速さは、実行力の指標だ。
私はレオンハルトという人間の「モデル」を頭の中で更新した。彼は感情で動かない。しかし正義感で動くわけでもない——正確には「知的好奇心」と「権力の拡大欲求」と「抑制された倫理観」が混在している。その混在の中で、今は「王宮での毒の拡散」という問題が、三つの欲求を同時に刺激している。
だから速い。
だから私には、今は「使える」変数だ。
ただし——使われる可能性も同時にある。その非対称性を忘れてはならない。
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■ 七
午前中、薬草園へ向かった。
石に「S」と書き、月蝕草の芽の隣に置いた。
三十分ほど待った。土の冷たさが膝を通して伝わってくる。春になりかけているが、朝はまだ寒い。私は芽の観察をしながら待った——昨夜引き抜いた幼苗は、根を土に戻してある。弱っているが、まだ生きている。
背後で、草を踏む音がした。
私は振り返らなかった。
「月蝕草の状態は」と私は言った。
「回復可能だ」と、シグバルトの声がした。「ただし、あと二回同じことをすれば枯れる」
「分かっています。今後は別の方法を考える」
「別の方法——月蝕草の葉をそのまま使わずに、有効成分だけを分離する抽出法があれば良いな」
私はその提案を頭の中で展開した。サポニン配糖体の分離には水蒸気蒸留が有効だ。しかし迷走神経刺激に使うなら、舌の粘膜吸収を利用する形がいい——つまり分離した苦味成分を粘膜投与用の錠剤か液剤に加工できれば、幼苗を傷めなくて済む。
「三日で試作する」と私は言った。
「……君は今、恩師の正体を知った翌朝に、すでに次の薬の設計をしている」
シグバルトの声に、何かがあった。
批判ではない。ただ——事実として置かれた言葉だ。
「感情は昨夜処理しました。今は次の問題に移るべき段階です」
「君が『処理した』というのは——感情を棚に上げた、という意味か」
「観測可能な範囲に収めた、という意味です。消したわけではない」
「その区別は、重要だ」
彼は私の隣に来て、しゃがんだ。月蝕草の芽を見ている。前夜の邂逅と同じように、目の奥に時間が詰まっている。
「ベルクのことを、なぜ教えなかったのですか」と私は聞いた。
「君が自分で気づく必要があったからだ」
「その理由は?」
「私が教えた情報は『与えられたデータ』になる。君が発見した事実は『確信』になる」シグバルトは言った。「この戦いで必要なのは、確信だ。なぜなら——最終局面で、君の手を鈍らせるのは疑念だから」
「疑念は感情ですか、それとも論理ですか」
「両方だ。だから厄介なんだ」
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■ 八
私はしばらく、芽を見ていた。
「あなたは私を守っているのか、使っているのか」と私は聞いた。
これは昨夜から抱えていた問いだ。母の前では聞けなかった。レオンハルトの前では聞く理由がない。シグバルトの前だけで聞ける問いだ。
「両方だ」と彼は言った。間を置かずに。
「守るだけなら、全ての障害を私が排除できる。だがそれでは——君の処刑された世界と、形が変わるだけで内容は変わらない。歴史を変えるには、君自身が選択し、決断しなければならない」
「つまり私に『自分で変える』ことを求めている」
「求めている、ではない」と彼は言った。「それしか、方法がない。私が六つの時間軸で見た中で——誰かに代わりに変えてもらった時間軸は、一つもなかった」
私は、その「六つ」という数字を聞いた。
前に「三度目」と言っていた。今「六つ」と言った。つまり——全ての時間軸を見たわけではない。少なくとも六つを経験した、ということか。
「六つのうち、今はどの状況ですか」
「……君が今の君でいる状況は、六つのうち最も可能性があるものだ」と彼は言った。「最も、だが——確実ではない」
「確実にするための条件は」
「君が自分自身を手放さないこと」
その言葉が、妙に引っかかった。「自分自身」というのが、何を指しているのか。薬師としての論理か。エルナという個人か。それとも——感情を持つ人間としての何かか。
「もう一つ聞かせてください」と私は言った。「ベルクは——何者ですか。彼も回帰者ですか」
シグバルトは少し黙った。
「……それは分からない」と彼は言った。「六つの時間軸全てにベルクが存在した。しかし彼が回帰者かどうかを確認できたことは一度もない。ただ——彼は、常に、エルナの敵側にいた」
「常に、ですか」
「常に」
私はその事実を格納した。感情的な反応は——今は保留だ。「常に敵だった」という情報を処理するには、もう少し時間が必要だ。
「分かりました」と私は言った。「一つだけ伝えておきます」
「何だ」
「私はあなたを信用しない。しかし——あなたのことを軽視もしない。今後、私から接触する時は『S』の石を置く。あなたから接触する時は、どうしますか」
シグバルトは少し考えた。
「芽の根元に、石が一つ増える」と彼は言った。
「分かりました。それで行きましょう」
「一つだけ、私からも」
「聞きます」
「最後の瞬間まで——自分を『データ』にするな」
私は少しだけ考えてから、「分かりました」と言った。
嘘ではなかった。ただ——「最後の瞬間」がいつかを、私はまだ知らない。
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■ 九
朝食は、戦場だった。
正確には「戦場の準備」だ。本番は、まだこれから。
席に着く前に、私は鏡の前に立った。自室の洗面台の小さな鏡だ。十歳の顔が映っている——焦げ茶色の瞳。前世では「地味」と言われた顔。今はその「地味さ」が、むしろ有利に働く。派手な顔は印象に残る。地味な顔は、「また普通の子供がいる」という知覚に収まりやすい。
私は鏡に向かって、笑顔を作った。
口角を両側に均等に引き上げる。眼輪筋に収縮を加える——ただし、先日フローラの部屋で使ったような「筋肉操作の模倣」ではなく、今回は違うものが必要だ。
観察者に「本物だ」と思わせる笑顔。
「本物」の定義は——感情の有無ではなく、見る者が「信頼できる」と判断する顔の配置だ。人間は笑顔を「安全信号」として処理する。その処理は感情ではなく、神経学的な反射で行われる。つまり「受け取り手の神経が信頼シグナルとして処理する笑顔」を作れれば、感情の有無は関係ない。
十秒、試す。
修正する。目の開き度合いが一ミリ広すぎた——「頑張っている笑顔」に見える。一ミリ狭める。
もう十秒。
「……これでいい」
私は鏡に言った。
鏡の中の十歳の少女が、静かに微笑み返した。
あの子が何を考えているか、鏡には映らない。
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■ 十
朝食の席に着くと、母がいた。フローラがいた。父がいた。
母の手が、わずかに震えていた。カップを持つ時の角度が普段より三度ほど傾いている——微細な震えが、重力への対応を乱している。原因はコルチゾールの過剰分泌だ。ストレスホルモンが手指の筋制御に干渉している。
昨夜、母は何かを大きく使い果たした。生理的抑止を破って名前を告げた、あの瞬間の後遺症だ。
「お母様、今日は顔色が優れませんね」
私は笑顔のまま言った。
母が、わずかに固まった。「ちょっと寝付けなくて」
「眠れない時はカモミールのお茶が良いですよ。神経を整える作用があるから。……でも原因がストレスなら、根本から解決しないといけませんね」
最後の一文に、力を少しだけ乗せた。
母の目が、私を見た。普通の朝の会話ではない——と彼女は気づいている。気づきながら、何も言えない。
私は視線を外し、フローラに向けた。
「フローラ、昨日はよく眠れた?」
「うん!」フローラは明るく答えた。「お姉ちゃんこそ、遅くまで起きてたんじゃない?」
「薬草の記録をしていたの。没頭すると時間を忘れるから」
「へー。私も試してみようかな。薬草の本、お姉ちゃんから借りていい?」
「いいよ」
私は笑顔のまま答えた。そしてフローラのポケットに目を向けた——スカートのひだの中に、小さな膨らみがある。昨日と同じ位置だ。
同じ瓶か、新しいものか。
(今日は確認する。方法は、まだ考え中だ。)
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■ 十一
食事が半分ほど進んだ時、私は何気ない口調で言った。
「そういえばお母様、フローラが風邪を引いた時に来てくださったお医者様——とても良い方でしたね。また何かあればお願いしたいんですが、お名前、覚えていらっしゃいますか?」
食卓の空気が、変わった。
父は気づかずパンを千切っている。フローラは私を見た。母は——手が止まった。
「ええと……確か……」
「ベ——」と母が言いかけた。
そして止まった。
神経回路の抑止が再び作動した——私はその「止まり方」を正確に観察した。昨夜と同じ形だ。「ベ」という音節まで出て、喉の奥で何かが遮断される。
「……なんだったかしら。良い先生だったけれど」
母は笑顔を作った。完璧には作れていない。口角の左右差が一ミリある。
「そうですか。またいつか思い出したら教えてください」
私はそれだけ言って、紅茶に口をつけた。
テーブルの向こうで、フローラが私を見ていた。
その目が——今朝は昨日と少し違う。「お姉ちゃんは何か知っている」という認識が、薄く宿っている。完全な確信ではない。しかし「姉は普通の十歳ではない」という感覚が、彼女の中で育ちつつある。
そしてフローラは——私の笑顔を、じっと見ていた。
三秒ほど。それから何かを確認するように、小さく首を傾けた。「お姉ちゃん、疲れてる?」と聞いた。
「どうして?」
「なんかいつもと違う笑顔だから」
父がパンを千切る音がした。母がカップを置く音がした。
私は自分の口角の角度を再確認した。両側均等に引き上げている。眼輪筋の収縮も標準値だ。「疲れている笑顔」を回避するために一ミリ調整した、今日の鏡の前の作業は、正確に実行されているはずだ。
しかし。
フローラは「違う」と言った。
八歳の子供が、私が調整した一ミリのズレを——直感で拾った。
(……この子は。)
「昨夜、少し遅くまで起きていたから」と私は答えた。「心配してくれてありがとう」
フローラは「そっか」と言って、また朝食に目を向けた。
しかしその一瞬——彼女の視線が私の顔から離れた時——私は見た。彼女の口元が、ごくわずかに動いた。笑顔でも、困惑でもない。もっと別の何かだった。
確認した、という顔だった。
(……「姉の笑顔は作り物だ」という仮説を、今日、検証した。)
それでいい。私が「何かを知っている」と思わせることが、今は必要だ。「何を知っているのか」を彼女が探ろうとする時——彼女は動く。そしてその動きが、私に次の情報をもたらす。
ただ——私が計算していたより、この子は早い。
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■ 十二
正午前に、私は支度をした。
外套を着る。靴を履く。出かける前にもう一度、鏡を確認した。
「十歳の薬師見習い」の顔が映っている。
薬師補佐の任命書は引き出しの中だ。今日は持って行かない——王宮への定期的な出入りは、父母にはまだ「薬草の研究」という名目で通っている。正式な書類を見せると、疑問が増える。今はまだ、情報を最小限に留めておく必要がある。
母が廊下で「どこへ行くの」と聞いた。
「王宮の薬草園を見学できると伺いまして。先生方と少し話す機会をいただきました」
「……そう」
母の顔に、何かが過ぎった。止める気持ちと、止めない理由が、一秒の間に戦ったのだろう。
「気をつけてね」
それだけだった。
私は「行ってきます」と言って、外へ出た。
春の光が、石畳に落ちていた。やわらかい光だった。昨日より少し暖かい。月蝕草の芽が喜ぶ気温だ、と私は思った。
考えてみれば、植物のことを考える習慣は——何があっても変わらない。処刑台の上でも、月蝕草の治療薬が頭を離れなかった。感情が奔流になっても、植木鉢の土の状態が気になった。ベルクの名前を聞いても、月蝕草の幼苗を確認した。
それが、私という薬師の、核だ。
「薬師である前に、エルナという人間だ」と——シグバルトは言った。
私は思う。薬師であることが、エルナという人間の核だ。その二つは分離していない。だから今もこうして、北門へ向かいながら、月蝕草の幼苗の回復を計算している。
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■ 十三
北門にレオンハルトがいた。
馬を一頭連れている。自分の馬と、私のための馬だ。侍従も護衛も連れていない——私との会合を「私的な調査」として扱っている。それは正しい判断だ。記録に残らない方が、今は動きやすい。
「来たな」と彼は言った。
「正午ちょうどです」
「鳩の文面を解読しようとした」と彼は言った。「植物の学名の羅列だったが——どういう変換規則か見当がつかなかった」
「つかないように設計しました」
「なぜ私に解読できない暗号を使った」
「『暗号が届いた』という事実だけ伝えれば十分だと判断したからです。内容は今日、直接話します」
レオンハルトは私を見た。整然とした目だが、今日は奥に何か違うものがある。昨夜の情報——暗号の到着——が、彼の中で何かを変えた。
「ベルクとは何者だ」と彼は言った。
私は馬に乗りながら答えた。
「記録の上で死んでいる人物です。前世において——私の恩師でした」
静寂があった。
馬の蹄の音だけが、石畳に響いた。
レオンハルトは三秒黙った後、「前世、という言葉を聞き流すことにする」と言った。「今は。後でまた聞く」
「賢明な判断です」
彼が「聞き流す」と言った時の目を、私は逃さなかった。「信じた」のではなく「保留した」目だ。彼の内側では、おそらく「エルナが抱えている何らかの特殊な確信——誇大妄想か、あるいは通常の認識では処理できない体験の比喩表現——として扱う」という方針が立てられている。それは合理的だ。私がもし逆の立場であれば、同じ判断をする。
「そしてそのベルクが——今も生きている、ということか」
「生きています。月蝕草を絶やそうとしています。フローラに接触しています。そして——私の母を介して動いています」
「……」
レオンハルトは前を見たまま、少しだけ手綱を握る力を増した。思考している時の微細な変化だ。
「お前の母が、その男を知っている」
「知っています。名前を言おうとすると、生理的に遮断される——何らかの薬物か暗示による処置が施されていると考えています。それでも昨夜、一度だけ告げることができた」
「その告げた名前が——ベルク」
「そうです」
「お前はその男に会ったのか」
私は一瞬だけ、間を置いた。
「昨夜、薬草園で接触がありました。ただし——私から話しかけることはしませんでした。先方が現れた、というのが正確です」
「……なぜ話しかけなかった」
「準備ができていなかったからです。感情の状態が不安定で、判断が信頼できなかった」
レオンハルトが、こちらを見た。
珍しい顔だった。「不安定」と認めた言葉に、何かが動いている。
「お前が『不安定』を認めるのは、初めて聞いた」
「初めてではありません。ただ、今まで殿下の前で言う必要がなかった」
「……今は言う必要があった?」
「正確な情報を共有することが、今の取引の基盤だからです。私が感情的に乱れていたという事実は、判断の精度に関わる情報です」
レオンハルトはそれを聞いて、また少し黙った。
「お前は」と彼は言った。「私が思うより、ずっと正確に自分を管理している」
「管理ではなく——観測です。管理しきれないから、観測します」
「……違いを教えてくれ」
「管理は制御することを前提にしています。観測は、制御できないものの存在を認めたうえで、それでも対処することです」
春の風が来た。馬が少し首を振った。
「劇薬の扱いと同じか」とレオンハルトは言った。
「……そうです」
私は驚いた。彼がその言葉を選んだことに。
「制御しようとすれば、燃える。観測して扱えば、薬になる」
「殿下は薬学が分かりますか」
「少しだけ。家庭教師が教えた。それよりも——お前の話し方から学んだ」
私は前を向いた。
北門から先、街道が続いている。レオンハルトが「少し郊外へ行く」と言った。王宮でなく、人目のない場所で話を続けるためだ。
「ベルクへの対処方針を話し合いたい」と私は言った。「殿下には、私が直接持っていない『王宮の権限』が必要です。私には、殿下が持っていない『薬学の知識』が必要です」
「共犯者、ということか」
私は少しだけ、その言葉を味わった。
「……そうです」と私は言った。「今日から、正式に」
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■ 十四
街道の外れに、古い水車小屋があった。
レオンハルトが使っていた「非公式の会合場所」らしい。扉に鍵がかかっていたが、彼は隠してあった鍵を取り出した。中は広く、板張りの床に木の椅子が二脚ある。窓から春の光が入っている。
私たちは向かい合って座った。
「ベルクについて、知っていることを全て話してくれ」とレオンハルトが言った。
「私が知っていること、と私が仮説として持っていること、の二段階で話します」
「その区別は重要だな」
「はい」
私は順を追って話した。
ベルクが王宮の記録では十年前に死亡している事実。しかし現実に昨夜、薬草園に現れた事実。彼がフローラに月蝕草の葉を渡した事実——母を経由して。月蝕草を絶やそうとしている事実。そして——ハインツ・メルヒオールの旧研究室で見つけた「月蝕草の種子を破棄せよ」という指示書。
「その指示書の筆跡と、ベルクの筆跡を比較する必要があります」と私は言った。「殿下には宮廷の記録へのアクセスがある。ベルクが在籍していた頃の書類——特に彼が直接署名したものがあれば」
「……調べる。一週間あれば」
「お願いします。もう一つ——」
「何だ」
「王宮内で、十年前に亡くなったとされているが、実は別の名前で活動している人物を検索する方法はありますか」
レオンハルトが眉を上げた。「そういう捜査を行う組織が、王宮内にある。俺の権限でアクセスできるかどうかは……試してみる」
「ありがとうございます」
「ただし」と彼は言った。「情報の非対称性はもう限界だ。お前が持っている知識の出所——シグバルトという男のことを、そろそろ話す時が来ている」
私は少し考えた。
「準備ができ次第、話します。ただし——彼の存在を話す前に、私から一つ確認させてください」
「何だ」
「殿下は今、私のことをどう位置づけていますか。情報提供者ですか、道具ですか、協力者ですか」
レオンハルトは私を見た。その目に、何かが走った。答えを持っていながら、どれを選ぶかを計算している。
「……共犯者、だ」と彼は言った。「今日からお前が言った言葉を使えば」
「では、共犯者として聞きます。シグバルトは——私より先に回帰した人物です。私が死んだ後の時間軸から来ています。そして——この状況を、複数の時間軸で観測してきました」
水車が、外でゆっくりと回っている。
「……時間軸が複数ある、と」
「信じられなくて構いません」
「信じるかどうかは別として——それが真実として機能しているなら、考慮する必要がある」
レオンハルトは即座にそう言った。感情ではなく、論理的な受け入れ方だ。
「さすがです」と私は言った。
「その『さすが』は、褒めているのか皮肉か」
「両方です」
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■ 十五
水車小屋を出た時、空は午後の光になっていた。
私たちは二時間ほど話していた。ベルクへの対処方針、フローラの「ガラス瓶」の中身の特定、王宮内での毒の拡散経路の追跡。話すべきことは多く、しかし二時間で全てに輪郭がついた。
「次の会合は三日後」とレオンハルトは言った。「筆跡の照合結果を持ってくる」
「分かりました」
「お前は——」
彼が少し間を置いた。
「昨夜、よく眠れたか」
私は少し驚いた。聞かれると思っていなかった。
「……四時間ほど」
「それは眠れた、とは言わない」
「効率的な睡眠は四から六時間で十分と言う研究もあります」
「そういうことを聞いていない」
レオンハルトは馬に乗りながら言った。「恩師が敵だったと知った翌日に、四時間眠れたなら——それは大したものだ」
私は返答しなかった。
「共犯者として、一つ要望がある」と彼は続けた。「今後、精神的に限界に近い状態の時は——私に言え。判断の精度に関わる情報だから」
「……殿下が昨日、私の言葉から学んだことですか」
「そうだ」と彼は言った。「それと——」
少し間があった。
「お前が壊れると、俺の計画が狂う。」
短く、明確だった。
優しさではない——と私は判断した。正確には優しさと冷徹さが同居しているが、根拠は後者だ。彼はこの共犯関係に投資をしている。投資先の状態を管理するのは、投資家の基本だ。
その判断を、私はむしろ信頼できると思った。「心配している」という感情的な言葉より、「壊れると困る」という利害の言葉の方が、長続きする根拠になる。
私はその要望を受け取った。感情的な反応は——保留する。ただ、データとして格納する。レオンハルトは「共犯者」として、私の判断能力の状態を「共有されるべき情報」と位置づけた。取引として、合理的だ。
「了解しました」と私は言った。
「では」
彼は街道を北へ向かった。私は南へ向いた。
春の午後の光の中で、二つの影が別れた。
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■ 十六
館に戻ると、フローラが玄関で待っていた。
「お帰り、お姉ちゃん!」
笑顔だった。本物の笑顔か、作った笑顔か——私には今日も分からない。八歳の子供の感情は、まだ偽装が粗い年齢のはずだ。しかしフローラは——いつからか、偽装が上手くなっている。
「ただいま。待っていたの?」
「一緒に薬草の本を読みたくて」
「いいよ」
私は上着を外套掛けにかけながら、さりげなくフローラのポケットを視野に入れた。膨らみが——今日は左ポケットにある。昨日は右だった。
(瓶の位置が変わった。新しいものを入れ替えたか、意識的に持ち替えたか。)
「薬草の本、どれが読みたい?」と私は聞いた。
「えーと……月蝕草が乗ってるやつ」
私の手が、上着の前を留めながら止まった。
月蝕草、と言った。
フローラが自ら、その名前を出した。
「……月蝕草のことが気になるの?」
「うん。お姉ちゃんの薬草園に生えてるって聞いたから。見てもいい?」
「今度ね。まだ小さい芽だから、大きくなってからの方が面白いと思う」
「どんな花が咲くの?」
「銀色に近い白い花。夜に咲く。匂いはほとんどない」
「きれいだね」
フローラは笑顔のまま言った。
私は彼女の目を見た。月蝕草への興味が——純粋な好奇心なのか、それとも別の何かに動かされているのか。
分からない。
分からない、という事実を記録する。
「一緒に本を読もう」と私は言った。「でもまず、着替えてくるから少し待って」
「うん!」
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■ 十七
自室に戻り、着替えをした。
窓から薬草園が見えた。月蝕草の芽が、午後の光の中で小さく揺れている。今朝引き抜いた幼苗——根を土に戻したもの——は、まだ立っていた。弱っているが、立っている。
私は机の前に座り、今日のノートを開いた。
「ベルク:筆跡照合を依頼。三日後、結果を受領予定。」
「フローラ:月蝕草に言及。自発的な発言。意図:未確定。ポケットの瓶:位置変更確認。中身特定:未実施。」
「母:神経的消耗継続中。手指震戦:軽微。回復には数日を要すると推定。」
「シグバルト:六つの時間軸を観測。ベルクが全てのケースで対立側にいた事実を確認。」
「レオンハルト:共犯関係を正式に確認。判断能力の状態を共有する合意を成立。」
書き終えて、ペンを置いた。
月蝕草の芽が風に揺れている。
「ベルク先生」と私は小声で言った。
声に出すのは、思考を整理するためだ。感情の出力のためではない——そのはずだ。
「あなたは私に薬学を教えた。毒と薬の紙一重を教えた。成分は同じでも、用量と文脈で意味が変わると教えた。」
風が来た。芽が揺れた。
「だから——あなたへの対処も、薬師として行います。」
「感情のままに動けば、毒になる。論理のままに動けば、不完全な薬になる。」
「だから私は——感情を観測しながら、論理で動く。」
「それが、あなたが私に教えた薬師の姿勢です。」
私は立ち上がった。
鏡をもう一度見た。
十歳の顔が映っている。昨日より少し、目の下が暗い。四時間の睡眠と、昨夜の消耗の跡だ。
それでも笑顔は作れる。口角を引き上げ、眼輪筋を動かす——今日は昨日より一秒速く完成した。
習慣になっていく。
私は部屋を出た。廊下の先で、フローラが待っている。母がどこかにいる。父が書斎にいる。
これが今の「家族」という名の戦場だ。
「劇薬」を飲んだ——感情を麻痺させる薬ではなく、感情と付き合うための取扱説明書を。
その取扱説明書の最初の行に、今日書き加えた一文がある。
「劇薬は、扱う者が正確である時にのみ、薬になる。」
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(第五話・了)
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