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『薬師令嬢は二度目の人生で真実を選ぶ』  作者: 九十九 文


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第四話 無感情のレンズと、硝子細工の妹

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■ 一


 銀の針の先端から、エルナの血が一滴、垂れた。


 痛みはなかった。


 針は中空だった——それが最初の発見だ。シグバルトが「飲む」と言ったのは、あの夜の暗がりで聞いた言葉だが、実際には「刺す」が正確だった。針の末端に小さな突起があり、それが皮膚の最上層だけを穿つ。エルナは自分の手の甲を照らすランプを調整し、穿刺部位を観察した。出血はすでに止まっている。凝固時間は正常だ。


 ただし、まだ打っていない。


 エルナが今触れているのは針の外側だけだった。中空の容器を傾け、内容物の挙動を確認する。気泡が移動する速度から、内容液の粘度は水とほぼ同じ——つまり水溶液ベースの製剤だ。加熱すれば揮発性成分が確認できる。エルナは調剤室の深夜の静けさの中で、作業台の蝋燭を一本増やした。


 一週間で分析を終わらせると、シグバルトに言った。


 その約束は果たす。


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■ 二


 分析は体系的に進めた。


 まず針の外被。銀色に見えたが、削ってみると芯は真鍮だ。表面に施されたコーティングは——乳鉢で少量を削り、リトマス紙に乗せる。反応なし。中性。次に温水で溶解を試みる。わずかに白濁する。タンパク質の反応だ。


 「魚膠か」


 声に出して確認した。魚の浮き袋から抽出するコラーゲン系の接着剤。水に溶ける。つまりこの被膜は体内の水分で溶解し、内容物を放出する構造になっている——だが皮膚の上では溶けない。打った瞬間に血液と接触して初めて分解が始まる設計だ。


 精密な製薬技術だ、とエルナは思った。前世で見たどの技術よりも、一段精緻だった。


 内容液の分析に移る。


 針を慎重に折り、内容液を極小量だけ硝子皿に取り出す。蝋燭の上で加温。揮発成分が白煙として立ち上がる——エルナはそれを鼻腔で捕捉した。草の匂い。しかし単純な植物抽出物ではない。合成に近いプロセスが入っている。


 沸点の挙動から分子量を推定する。エルナが前世で扱った既知化合物と照合する。


 一致するものが、あった。


 「……セロトニン関連のアルカロイドだ」


 前世で三十歳の時、エルナは情動と薬草成分の関係に関する仮説を立てた。感情の根幹が「脳内の特定の化学物質の濃度比」で決まるなら、それを操作できる植物化合物が存在するかもしれない——という方向性だ。当時は「荒唐無稽」として研究費が下りなかった。


 しかしそれを、誰かが実装した。


 「……感情バイパス理論の、実装版」


 声が、調剤室の石壁に吸い込まれた。


 エルナは分析を続けながら、思考を並行して走らせた。シグバルトはこの薬を持っていた。この薬を作るには、エルナが四十歳で提唱した理論の知識が要る。つまりシグバルトは——エルナの死後、さらに五年以上が経過した時間軸から来ている。


 前世のエルナが生涯かけて辿り着けなかった場所に、彼は先に立っていた。


 「……化け物じみている」


 それは批判ではなかった。純粋な評価だった。


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■ 三


 分析の最終段階で、エルナは自身の舌先に内容液を一滴だけ乗せた。


 苦味。金属の後味。三秒後、舌の表面にわずかな痺れ。四十秒後、痺れは消えた。


 後遺症なし。粘膜吸収では効果が出るほどの量に達しない。


 「副作用の検証:粘膜投与では閾値以下。皮下注射で初めて有効濃度に達する設計」


 エルナはノートに書き留めた。


 それからリスクを書き出した。


 感情の喪失——薬師として、これが何を意味するかを改めて整理する。患者の表情から痛みの種類を判別する能力。声の震えから「言えないこと」を聞き取る能力。処方の最後の選択を後押しする「これで正しい」という身体的確信。それら全てが、論理と感情の統合から生まれている。どちらかだけでは成立しない。


 つまり感情を失った状態で下した判断は——純粋な論理として正確かもしれないが、薬師としては不完全だ。


 しかし。


 エルナは鉛筆を置き、両手を見た。


 十歳の手だ。前世で三十五年かけて荒れた皮膚ではなく、傷一つない子供の手だ。


 この手でフローラを診察したとして——感情があるまま、妹を観察できるか。


 答えは分かっていた。できない。「まさかフローラが」という否定の衝動が、三話分の時間をかけて何度も頭を掠めた。あの花弁をむしる動作を見た時、「普通の遊びだ」と一度は結論しかけた。フローラの部屋の土の匂いに気づきながら、問い詰めることをしなかった。


 感情は判断を守ることもあるが、今の自分にとっては——ノイズだ。


 「服用タイミング:フローラの観察直前。効果時間六〜十二時間。月蝕草の種子は自宅薬草園にある(拮抗作用を持つ可能性あり)」


 エルナはノートを閉じた。


 針を、外套の内ポケットに戻した。


 まだ打たない。今夜は寝る。判断は明日の昼、王宮から戻った後にする。


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■ 四


 翌朝、使者が来た。


 レオンハルト付きの侍従が、一通の書類と一通の手紙を届けた。書類は「臨時薬師補佐任命状」だ。紋章が入っており、王宮への出入りを正式に保証する。手紙は短かった。


 『午後二時、北翼の裏口から入れ。案内を出す。——L』


 エルナは手紙を読み、日付を確認してから火にくべた。


 書類の方は引き出しの鍵のかかる棚にしまう。これは必要だ。紙は証拠になる。証拠は手元に置く。


 朝食の席で、母が「今日も王宮?」と聞いた。


 「はい。薬草の研究の件で」


 「レオンハルト殿下からお誘いがあるとは……」母は少し複雑な顔をした。「婚約の話とは、また別の話なの?」


 「全く別の話です」


 母は「エルナって不思議な子ね」と呟いた。声に温かさがあったが、同時に「距離感」があった。愛しているが、どう扱えばいいか分からない時の声だ。エルナはそれを知っていた。前世でも、何度か聞いた声だった。


 フローラが遅れて食卓に来た。


 「おはよう」と言って、エルナの隣に座った。笑顔だった。朝の、よく晴れた笑顔。エルナはその笑顔を見て、なぜかほんの一瞬だけ——「このまま何も知らなければよかった」という感覚が走った。


 それはすぐに消えた。


 感情は判断の材料だ。「知らなければよかった」という感覚は、現実を変えない。


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■ 五


 王宮の北翼裏口は、石造りの通用門だった。


 午後二時ちょうどに案内の侍従が現れ、エルナを塔の一室へ連れていった。螺旋階段を三十段ほど上がると、扉がある。鍵は開いていた。


 中に、レオンハルトがいた。


 今日の彼は礼装ではなく、地味な作業着のような服装だ。その方が、記録室や蔵の中で動きやすい。彼も計算している。


 「来たか」


 「時間通りに」


 「座れ。最初に状況を整理する」


 二脚の椅子と簡単な卓が置かれていた。エルナは座り、小さなノートを取り出した。


 「ハインツ・メルヒオールの旧研究室は、この塔の上にある。四ヶ月間、誰も踏み入れていない」レオンハルトは言った。「入室の記録も、退出の記録も残っていない。宮廷の警備記録では、彼が解雇された当日に退去済みになっている」


 「しかし実際は」


 「部屋の内部には、当日以降に動かされた物品がある。俺の家庭教師が確認した。椅子の位置が変わっている。引き出しが開いた形跡がある。解雇後に、誰かが入った」


 エルナはノートに書き留める。


 「その人物が証拠を持ち出した可能性」


 「高い。だがすべては持ち出していないかもしれない——隠し場所を知らなければ、残るものは残る」


 「隠し場所、というのは」


 「薬師は研究ノートを隠す。俺の家庭教師も薬学を嗜む。彼の話では、机の表面ではなく裏側や引き出しの奥に記録を隠す習慣が薬師にはある、と」


 エルナは少し考えた。それは正しい。重要なデータは表に出さない——前世の自分もそうしていた。


 「では、行きましょう」


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■ 六


 螺旋階段をさらに十五段上がると、扉があった。


 開いた瞬間、匂いが来た。


 埃。紙の黴。揮発した薬品のかすかな残滓——エルナは反射的に鼻腔を全開にした。成分の特定を試みる。アルカロイド系の揮発物は室温で蒸発しやすい。四ヶ月経過していれば大半は消えているはずだが——。


 「……ラベンダーオイルの痕跡がある」


 「何?」


 「掌を壁に当てて確認してください、殿下。右側の壁、腰の高さあたり」


 レオンハルトが示された場所に触れた。「……何かが染みている」


 「ラベンダーオイルです。油脂系なので石壁に吸収されにくく、揮発成分が抜けてもベースが残る。四ヶ月前後であれば、こういう痕跡になります」


 エルナは部屋の中へ進んだ。実験台、蒸留器、本棚。かなりの量の器具が残っている——急いで出ていったか、あるいは「戻るつもりだった」かのどちらかだ。


 エルナは机に近づいた。表面を軽く撫でる。埃の積もり方が均一ではない——二箇所、埃が薄い部分がある。そこに物が置かれていた跡だ。四ヶ月以前に。


 「引き出しを見せてください」


 レオンハルトが引き出しを全て引いた。上段、中段、下段。どれも空だった。


 「やはり持ち出された」


 「裏側を見てください」とエルナは言った。「引き出しの、背面の板を」


 レオンハルトが眉を上げたが、黙って引き出しを外した。背面の板を押す。何も起きない。もう一つ。また何も。


 三つ目の引き出しで——板が動いた。


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■ 七


 封筒が一通、貼り付けられていた。


 紙は乾燥している。湿気を嫌う薬師の習慣で、防湿処理がされていた。エルナは封を開ける。中身は三枚の紙だ。


 一枚目。手書きの納品リスト。行き先の名前が並んでいる。


 エルナは読み下した。王宮の複数の部署名。貴族家の名前がいくつか。そして——「ヴァルトハウゼン伯爵家」という文字。


 「……」


 エルナは紙を持ったまま、一拍、息を整えた。


 自分の家が、このリストに載っている。


 二枚目。別の筆跡による「特別指示書」。内容は短い。


 『月蝕草の種子を破棄すること。一欠片も残すな。入手した場合は即座に焼却。納品先において発見した場合も同様の措置を取ること』


 エルナの手が、わずかに止まった。


 「月蝕草」とレオンハルトが後ろから言った。「それが——お前が先日言っていた、解毒剤の原料か」


 「そうです」


 「つまりこの指示は、解毒を不可能にするための命令だ」


 「そういうことになります」


 「誰がこれを書いた」


 エルナは二枚目の紙をランプに近づけた。筆跡を観察する。力強い、斜めに傾いた文字。書き手は右利きで、ペンを強く握る癖がある——ペン先の圧痕が裏面に出ている。インクの種類は……ハインツの研究ノートの断片と比較したいが、今は手元にない。


 「現時点では判断できません。筆跡鑑定が必要です」


 「俺が専門家を手配する」


 三枚目。これは手紙の形式だった。宛先は「H」、差出人の名前はない。


 内容を読む。


 エルナの顔に、変化はなかった。


 しかし胸の中で、何かが固まった。石灰化するように。じわりと、温度のないものが広がった。


 「……殿下。フローラが、ハインツに診察を受けた件についてお聞きします。その三ヶ月前——誰がハインツをヴァルトハウゼン家に紹介したか、お分かりになりますか」


 レオンハルトが少し間を置いた。「……なぜ今それを」


 「この三枚目の手紙に、紹介者について言及した一文があります。名前は書かれていない。ただ『例の伯爵家の末娘への接触は完了した』とあります」


 沈黙が落ちた。


 厚い石の壁の中で、二人の間の空気だけが、重くなっていった。


 「……つまり」とレオンハルトは言った。「フローラへの接触は、計画的なものだった」


 「そう解釈できます」


 「その『誰か』の目的は」


 「不明です。しかし——」


 エルナは紙を折り畳んだ。


 「フローラを媒介として、何かを行おうとしている。ハインツはその実行者の一人だった」


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■ 八


 帰路は静かだった。


 レオンハルトは三枚の紙の写しを取り、原本はエルナに渡した。「保管はお前が適切だ。俺のところでは、誰かが見る可能性がある」と言った。エルナはそれを受け取り、外套の内側に収めた。


 馬車の中で、レオンハルトは窓の外を見ながら言った。


 「月蝕草の保護、優先する。お前が言う通りにしよう」


 「ありがとうございます」


 「ただし」彼は窓から視線を戻した。「お前がまだ隠していることがある。お前の知識の出所。シグバルトという人物についての何か。そしてフローラへの『本当の懸念』」


 エルナは彼を見た。


 レオンハルトの目は、今日も整然としていた。感情を表面に出さず、情報を処理している目だ。しかしその奥に——何かある。確認ではなく、蓄積だ。この男は全てを整理しながら、答え合わせを待っている。


 「殿下の推測は正しい」とエルナは言った。「隠していることはあります」


 「それは?」


 「まだ話せません。ただし——話す必要が生じた時には、必ず最初に話します」


 「……最初に、というのは?」


 「他の誰かに話す前に、という意味です」


 レオンハルトはそれを聞いて、また少し沈黙した。馬車が石畳の振動を伝える。


 「条件がある」と彼は言った。


 「聞きます」


 「話せる状況になった時に、それを俺に告げる前に十分以上経過させないこと。俺への連絡を最優先にすること」


 「……それは随分と、急かしますね」


 「急いでいる」彼は短く言った。「王宮で起きていることが、俺の想定より速く動いている。お前も分かっているはずだ」


 「分かっています」


 「では合意か」


 「合意です」


 エルナは窓の外を見た。街が流れていく。春の午後の光が、石造りの建物の壁に斜めに当たっている。やわらかい、穏やかな光だった。


 その光の中を、エルナは今日、何かを決めながら帰っていた。


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■ 九


 館に戻り、夕食を終え、フローラが「お姉ちゃん、一緒に星を見ない?」と言った。


 エルナは「今日は疲れたから」と答えた。


 フローラは少し口を尖らせてから「じゃあ、おやすみ」と言って部屋へ戻っていった。その背中を見ながら、エルナは思った——あの背中の向こうに、何があるのか。


 自室に戻り、鍵をかけた。


 机の前に座る。今日の調剤室での分析ノートを開く。成分リスト、推定薬効、副作用の見積もり。全てが揃っている。リスクは計算済みだ。


 エルナは外套のポケットから銀の針を取り出した。


 月明かりが窓から差し込んでいる。針の表面がその光を受けて、一瞬だけ青白く輝いた。


 「感情バイパス理論の実装版」と、エルナは小声で言った。「前世の私が、四十歳でも辿り着けなかったもの」


 それがここにある。


 シグバルトが渡した。三度目の時間軸で、崖際から渡した。


 エルナはノートの最終ページに一行書いた。


 『投与記録:第一回。皮下穿刺。穿刺部位:左手甲、第三中手骨外側。投与前の感情状態——フローラへの疑惑54%、保留46%。目的:感情バイアスの除去、客観的観察の実施』


 ペンを置いた。


 左手の甲を右手でつかむ。皮膚を張る。針の先端を皮膚の最上層に当てる。


 穿刺した。


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■ 十


 最初の十秒間、何も起きなかった。


 エルナは自分の手を見た。穿刺部位は小さな赤点になっている。出血は最小限だ。魚膠の被膜が体内水分と接触して溶解し、内容液が皮下組織へ浸透している——そのプロセスを想像する。細胞膜を通じて血流へ。脳へ。


 十五秒後。


 視界の周囲から、色が薄れ始めた。


 エルナは窓の外を見た。夜の薬草園が見える。月光を受けた葉が銀色に輝いているはずだった。しかしそれが——白と黒と、その間のグラデーションに変わっていく。色相が消え、輝度だけが残る。


 恐怖はなかった。


 「分析。視覚系への影響:色相認識の一時的抑制を確認。輝度認識は正常」


 エルナは声に出して記録した。ノートにペンを走らせる。


 二十秒後。


 思考の速度が、変わった。


 変わった、というより——増えた。一本だった思考の流れが、複数のチャンネルに分岐している。今この瞬間にも、右手の穿刺部位の凝固状態、針の成分が血流に乗る速度の推計、薬草園の月蝕草の芽の現在状態、レオンハルトの「急いでいる」という発言の背景にある政治的文脈——それらが同時に、干渉し合わずに処理されている。


 「思考並列化を確認。推定速度:通常の一・七から一・九倍」


 三十秒後。


 胸の中が、静かになった。


 石が沈むような静けさではなかった。海の底が穏やかなように——あらゆる波が届かない、透明な静けさだ。フローラへの疑惑も、シグバルトへの不信も、レオンハルトへの警戒も、処刑台の記憶も——全てが「データ」として整然と棚に並んでいる。取り出せる。しかし揺れない。


 エルナは自分の状態を観察した。


 「感情バイアス:消失を確認。意思決定プロセス:論理回路のみ稼働」


 それから少し間を置いて、付け加えた。


 「……薬師として感じるべき『欠落感』:現時点では検出されず」


 それ自体が、症状の一つだった。


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■ 十一


 フローラの部屋へ向かった。


 廊下を歩く間、エルナは自分の歩行を観察した。歩幅、ケイデンス、重心移動——全て正常範囲だ。身体機能への影響はない。シグバルトが「行動能力は正常」と言った通りだ。


 フローラはまだ起きていた。ドアをノックすると「どうぞ」という声がした。


 入る。


 フローラは窓辺の椅子に座り、膝の上に薄い本を広げていた。蝋燭の光の中で、その横顔が橙色に染まっている。八歳の、柔らかい横顔だ。


 「お姉ちゃん、来てくれたの」


 フローラが顔を上げた。笑顔だった。夜の遅い時間に姉が来てくれた、という小さな喜びを含んだ笑顔だ。自然だった。とても自然だった。


 エルナは部屋に入り、フローラの向かいの端に腰を下ろした。


 「フローラ、今日はどんな本を読んでいたの」


 「植物の本。薬草のことが少し書いてあって」


 「そう」


 エルナはフローラを観察した。


 通常の目では読めなかったはずのものが、今の状態では細かく拾われていく。


 表情の筋肉の動き。微小な、意識されていない動作。フローラが本を膝に置いた時、右手の親指が表紙の角を一度だけ押した。癖だ。しかし——何かを確認する時の動作に似ている。


 声の波形。「薬草のことが少し書いてあって」という文の中で、「薬草」という単語の発音に他の単語より微量の力がかかっていた。強調。あるいは馴染みすぎている単語を、「馴染みすぎていないように見せる」時の調節。


 エルナはその観察結果を、頭の中の別のチャンネルで処理しながら、表の会話を続けた。


 「植物が好きなの?」


 「うん。お姉ちゃんに似たかな、って」


 その言葉に、エルナは反応しなかった。感情回路が止まっているため、「嬉しい」も「疑わしい」も出力されない。純粋に情報として処理する——「似たい」という言葉は所属欲求の表現か、あるいは姉の行動を予測するための擬態か。


 「フローラ」とエルナは言った。「少し前、具合が悪かった時があったでしょう。あの時に診てくれたお医者様のこと、覚えている?」


 フローラの目が、わずかに揺れた。


 それは——エルナの無感情レンズが確かに捉えた、〇・三秒の揺れだった。


 「うーん……忘れちゃった。おじいさんみたいな人だったかな」


 「そう」


 エルナはそれ以上聞かなかった。


 「おじいさんみたいな人」——ハインツ・メルヒオールの年齢は不明だが、宮廷薬師として長年勤めていれば五十代以上だろう。ありえなくはない情報だ。しかし問題は内容ではなく、〇・三秒の揺れだった。


 八歳の子供は、思い出せない時に目を上へ向ける。記憶を探す時の反射だ。


 フローラの目は、上には向かなかった。


 横に、動いた。


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■ 十二


 会話を終えてフローラの部屋を出た。廊下に出た瞬間、エルナは立ち止まった。


 何かが、ある。


 感情のない状態で「何かがある」という認識が生じるのは——論理回路が「不整合なデータ」を検出した時だ。感覚的な違和感ではない。計算上の不一致だ。


 フローラの部屋の中に、何かがある。


 エルナは三秒考えて、ドアを再び開けた。


 「忘れ物をしたわ」


 声のトーンは平坦だった。口角を両側に三ミリ引き上げ、眼輪筋に微量の収縮を加えた——友好関係を示すのに必要な最低限の筋肉操作だ。「笑顔」ではない。笑顔の形の再現だ。感情のない状態では、感情表現は「設計の模倣」として出力される。


 フローラは「どうぞ」と言ったが、その時わずかに——肩が、先ほどより緊張していた。


 エルナは部屋に入り、来た時に座った椅子のそばに行った。何も置いていない。だから「忘れ物」はない。しかし、それが目的ではない。


 部屋の中を、改めて、輝度と空間の歪みだけで観察した。


 窓辺の植木鉢。先日、土が掘り返されていた場所だ。薬の効果で色相が消えているため、植物の「色」ではなく「光の反射パターン」だけが見える。その反射が——おかしかった。


 植物の葉は、光を吸収しながら反射する。葉緑素の有無によってパターンが変わる。しかし窓辺の植木鉢の葉は、光を吸収している部分が——一部、著しく少ない。


 「葉緑素が著しく低下した部位が存在する。通常の植物では起こらない」


 エルナは植木鉢に近づき、葉を一枚、指で触れた。


 表面が、滑らかすぎた。


 本物の葉は、顕微鏡なしには分からない細かな毛が生えている。細胞壁の微小な凹凸がある。しかしこの葉は——まるで別の素材でできているかのように、均質だった。


 「……人工物か」


 エルナは声を抑えた。


 人工的に作られた植物の模造品。その中に——何かが、ある。


 「何してるの、お姉ちゃん」


 フローラの声が後ろから来た。


 エルナは振り返った。フローラは床に立ち、エルナを見ていた。笑顔だった。


 しかし、その笑顔の構造が——今夜初めて見た笑顔とは、わずかに違った。


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■ 十三


 「植物に興味があって」とエルナは答えた。「珍しい品種かと思って」


 「ただの観葉植物よ」


 「そう。綺麗な葉ね」


 エルナは植木鉢から手を離した。笑顔を作る——感情がなくても、顔の筋肉を動かすことはできる。それは技術だ。三十五年かけて身に付けた、感情とは別個の技術だ。


 「おやすみ、フローラ」


 「うん。おやすみ、お姉ちゃん」


 エルナは部屋を出た。


 廊下に出て、扉が閉まる音を聞いた後、エルナは動かなかった。


 石の廊下の冷たさが、靴底を通して伝わってくる。蝋燭の光が揺れている。夜の館の静けさの中で、エルナは今見たものを処理した。


 フローラの部屋にある人工物の植物。


 その葉の光反射パターン。


 葉緑素のない部位の分布が、あるパターンを形成していた——エルナが分析を終えたのは、廊下に出てから四秒後だった。


 放射状。


 中心から外側へ向かって、一定の角度で広がる反射パターン。


 それは自然界の植物には存在しない配列だった。意図的に作られた配列だ。そして——意図を持って配列された情報は、何かを伝えるために配列される。


 「……暗号か記号の類いだ」


 感情があれば、震えていたかもしれない。


 しかし今のエルナには、その代わりに別のものがあった——問いだ。


 誰が。


 あの植物を作り、フローラの部屋に置いた者は、誰か。


 そして、あの光のパターンは、何を伝えているのか。


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■ 十四


 自室に戻り、窓を開けた。


 薬草園が見える。月明かりの中で、植物たちが輝度の差として見える。色相のない世界だ。しかしそれが——かえって、別のものを際立たせていた。


 輝度の異常だ。


 東端の区画——月蝕草の種を埋めた場所の、さらに奥。


 そこに、何かがある。


 生物発光ではない。月蝕草の芽が放つ微弱な光とは質が違う——もっと強く、もっと方向性がある光だ。誰かが光源を持っている。


 人影、とエルナは判断した。


 薬草園の中に、人がいる。


 体格のシルエットを分析する——シグバルトではない。彼の背丈と肩幅は夜の薬草園で一度確認している。今見えるシルエットは、それより小さい。しかし子供でもない。成人の、おそらく女性に近い体格だ。


 そしてその人物の周囲の空気が——歪んでいる。


 フローラの部屋で初めて感じた「歪み」と、同質のものだ。色相のない視界の中で、その歪みだけがはっきりと見えた。まるで空気の屈折率が局所的に変わっているように。


 「……フローラの背後にいる、別の回帰者か」


 感情がないため、恐怖は出力されなかった。


 代わりに、判断が出た。


 「接触:優先度、高。情報取得の最適機会:現在」


 エルナは外套を取り、廊下に出た。


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■ 十五


 薬草園の夜気は、冷たかった。


 体感温度を示す皮膚の受容体が「冷たい」と信号を送っている——それは分かる。しかし「寒い」という不快感は生じない。情報だけがある。


 東端の区画へ進む。


 月蝕草の芽の近くを通る時、エルナは一度だけ視線を落とした。白い双葉が、輝度差の中で識別できる。正常に育っている。


 その先。


 人影は、まだそこにいた。


 エルナは近づいた。草を踏む音を最小限にしながら、しかし「隠れて近づく」のではなく「普通に近づく」という形で。感情がないため、「怖い」という踏みとどまる力も、「慎重に」という直感的な抑止力も、今は機能していない。


 純粋な判断として——接触することが、今最も情報効率が高い。


 人影が振り向いた。


 月明かりの中に、顔があった。


 エルナは、その顔を見た。


 色相がないため、肌の色も、目の色も分からない。輝度とコントラストだけで形が分かる。


 女性だ。


 四十代から五十代と思われる。体格は中程度。服装は簡素だが、素材の光反射から上質な布地だと判断できる。表情は——読めない。輝度の分布から、目が大きく開いていることは分かる。驚き、あるいは警戒。


 その人物の周囲に、あの歪みがある。


 フローラの部屋で感じたものと同じ。フローラの植木鉢の葉のパターンと繋がっている何か。


 「あなたが」とエルナは言った。感情のない、均等な声で。「フローラに月蝕草の葉を渡した人ですか」


 沈黙があった。


 長い沈黙があった。


 それから相手は口を開いた。


 その声を聞いた瞬間に、エルナの思考が一瞬だけ、全チャンネル同時に停止した。


 「……そうよ」と女は言った。「あなたが知っていたとは思わなかった。エルナ」


 その声の、抑揚。


 その声の、温度。


 エルナはその声を知っていた。三十五年間、聞き続けた声だった。


 前世で、エルナが処刑台に立った時——最後まで会いに来なかった人の声だった。


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■ 十六


 「……伯爵夫人」


 エルナは言った。


 「お母様」とは、言わなかった。


 感情がなかったからではない。感情が戻っていたとしても、今この瞬間は——そう呼べなかったと思う。


 女は——エルナの母は——月明かりの中で、エルナを見ていた。その目の輝度分布から、目が潤んでいることが分かった。涙か、あるいは夜露が当たっているか。


 「あなたは」と母は言った。「誕生日から変わった。私には分かる。あなたは——エルナだけど、エルナではない何かが、一緒にいる」


 エルナは答えなかった。


 「私も」と母は続けた。「知っているの。この薬草園に、別の時間のものが埋まっていることを。月蝕草の種が発芽していることを」


 「……どうやって」


 「教えてくれた人がいる」


 「フローラに接触した人と、同じ人物ですか」


 沈黙。


 それは答えだった。


 エルナは処理した。母が——フローラへ接触した「別の回帰者」の情報網の中にいる。フローラへの月蝕草の葉の提供は、母が媒介していた。しかし母は「エルナを助けようとしている」のか、「エルナを利用しようとしている」のかが——今の輝度だけの視界では、分からない。


 「フローラに、何をされましたか」


 「……されたのではない」と母は言った。「私が、お願いした」


 「何を」


 「フローラを守って、と。あの子が強くなれるように、と」


 エルナは、その言葉を受け取った。


 感情回路が止まっていなければ、ここで何かが揺れただろう。しかし今は、データとして処理する——「母はフローラを守るために、別の回帰者と接触した」。それが事実として格納される。


 「その人物の名前を、教えていただけますか」


 母は首を振った。


 しかしそれは、「首を振った」という動作の精度が、通常より乱れていた。左側への傾きが〇・五秒、戻りが〇・八秒——判断による動作ではなく、抵抗のある動作の形だ。


 「……言え」


 声がかすれた。


 エルナは無感情のまま、その事実を記録した。「教えられない」のではなく「言えない」——そう言いかけて止まった。喉が動いた。舌が形を作ろうとして、止まった。まるで言葉の前段階が身体の外へ出ることを、何かが阻んでいるように。


 「お母様」とエルナは言った。「今、喉に何かを感じていますか」


 母が、びくりとした。


 「……なぜ、分かるの」


 「言いかけて止まる時、嚥下反射に近い動作が出ていました。無意識の、生理的な抑止です」エルナは続けた。「名前を言おうとする度に、それが起きますか」


 沈黙。


 長い沈黙のあと、母は小さく、頷いた。


 (投薬か暗示か。いずれにせよ、特定の発話を生理的に阻害する処置が施されている。これはハインツ・メルヒオールの薬学知識で可能な範囲か?——いや、より高度だ。フローラの背後にいる「別の回帰者」の技術だ。)


 エルナは処理した。


 「分かりました。名前を言わなくていいです」と言った。「では——その人物の属性を教えてください。名前ではなく。立場、年齢の大まかな範囲、いつから関わっているか」


 母は、少し考えた。


 「……立場は」と母は言った。「王宮の人間ではない。でも王宮と深い繋がりがある。長い間——あなたが生まれる前から、この国に関わっている」


 「年齢は」


 「私より上だと思う。でも、老いていない」


 「いつから伯爵家と関わっていますか」


 「……フローラが生まれた頃から」


 エルナは、その三つの情報を格納した。


 王宮と繋がりがある。長い歴史を持つ。フローラの誕生に連動している。


 「お母様」


 「何」


 「私は今、一時的に感情がありません。だから傷つきません。今の状態で聞かせてください」


 母が、息を飲んだ。


 「……感情が?」


 「六時間から十二時間、消えます。今はその最中です」


 沈黙。


 母は、エルナの目を見ていた。その目の輝度から——何かを読み取ろうとしていることが分かる。読み取れているかどうかは不明だ。


 「……あなたは」と母は言った。ゆっくりと。「本当に、エルナなの?」


 「はい」


 「どこまで——知っているの?」


 「処刑台まで」


 それだけ言った。


 母が、静止した。


 薬草園の夜の空気の中で、二人の間に、言葉が切れた場所があった。


 エルナはその空白を数えた。三秒。五秒。七秒。


 それから母は、何かを振り切るように言った。


 「その人の名前は——」


 喉が、また止まった。


 しかし今度は違った。母は目を閉じ、息を深く吸い込んで、もう一度だけ口を開いた。文字を一つずつ、押し出すように告げた。


 言い終えた瞬間、母はその場に崩れ落ちそうになった。エルナが支えた。生理的抑止が解除された反動だ。強制的に阻害されていた神経回路が、一度だけ解放されて、次の瞬間に再び閉じる。身体への負荷は相当のはずだ。


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 そこで、薬の効果が切れた。


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■ 十七


 突然だった。


 色が、戻った。


 月光が白から銀に変わり、薬草の葉が緑に戻り、母の顔が血色を取り戻した。それが一瞬で起きた——まるで水面に石を投げ込んだように、全てが同時に戻ってきた。


 そして感情が——戻った。


 洪水のように。


 「お母様」


 エルナの声が、震えた。


 六時間。薬は最低六時間続くはずだった。しかし効果は四時間足らずで切れた。個人差、とシグバルトは言っていた。それだけではない——月蝕草の芽の近くを通った時に、わずかに触れた土が手についていたかもしれない。拮抗作用。


 どちらにせよ。


 「その人の名前は」とエルナは言った。喉が、固くなっていた。「教えていただけますか」


 母は、驚いた顔をしていた。エルナの声が変わったことに気づいている。


 「……エルナ、顔色が」


 「大丈夫です。名前を」


 母は少し迷った。それから、告げた。


 エルナはその名前を聞いた。


 感情が戻った状態で、聞いた。


 ……だから、震えた。


 その名は——この国に存在しないはずの名だった。記録の上では、十年前に死んでいる人間の名だった。墓がある。葬儀の記録がある。しかし今、母の唇がその名を告げた。


 お母様がなぜその人を知っているのか。その人がなぜフローラに近づいたのか。その人が何を知っていて、何を望んでいるのか——全てが、一つの輪郭を形成した。


 死んだはずの人間が、生きている。


 そして十年間、誰かを装いながら、この国に存在し続けていた。


 「……分かりました」


 エルナはかろうじてそれだけ言った。


 「お母様、今夜のことは、誰にも言わないでください」


 「エルナ——」


 「頼みます」


 母が、黙った。


 エルナは薬草園の暗がりを見た。月蝕草の芽が、今は緑の双葉として見えている。風を受けて、わずかに揺れていた。


 (分かった。名前は分かった。)


 (しかし今夜は——それだけで十分だ。)


 感情が戻ったまま、考えることは——今夜はできない。明日の朝にする。シグバルトに伝えるべきか、先にレオンハルトに伝えるべきか、それとも自分だけで次の一手を検討するか——それは朝にする。


 今夜は。


 「お母様、寒いですから部屋に戻りましょう」


 エルナは言った。


 それだけが、今夜の最後の言葉だった。


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                     (第四話・了)

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