第三話 リハーサルと、三歩後ろの男
■ 一
サイレントウィードの拡散パターンには、三つの異常値がある。
父の馬車の中で、私は膝の上のノートを見ていた。昨夜のうちに書き込んだ数字と図が、揺れる車内でわずかに滲む。父は向かいの席で商会の書類を読んでいる。「薬草の新しい品種について王宮の医師団と話し合いたいんだが、一緒に来るか?」——珍しい誘いだったが、理由を問う前に頷いた。王宮に正当な理由で入れる機会は、そう何度も来ない。
異常値の一つ目。患者の勤務地が「北翼」に集中している。
異常値の二つ目。発症日が「月曜日」に集中している。
異常値の三つ目。食事記録から「夕食後の症状悪化」が読める。
三つを重ねると、一つの仮説になる——毒の混入ポイントは「週末にしか使われない食材」か、「週末だけ行われる調理工程」のどちらかだ。そして北翼に週末だけ現れる人物、たとえば非常勤の料理人や外部の納品業者が関わっている。
馬車が石畳の道に入った。揺れが大きくなる。
「エルナ、何を見ているんだ」
父が書類から目を上げた。
「薬草の配合メモです」私はノートを閉じた。「北翼の厨房を見学できると聞いたので、予習を」
「誰がそんなことを」
「以前、お母様が王宮の料理長の話をしていたので。ただの興味ですわ」
父は一拍置いてから「……お前は誕生日以来、少し変わったな」と言った。穏やかな声だったが、何かを測るような間があった。私は窓の外の景色を見るふりをして、その間を受け流した。
馬車が王宮の正門をくぐる。
石造りの壁が左右に迫り、馬の蹄の音が反響する。空気が変わった——外の春の生乾きの匂いから、石と灰と、蝋燭の燃えた後が混ざった「管理された建物の匂い」へ。薬草園とは正反対の気配だ。
この場所には、生きているものが少ない。
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■ 二
父が医師団の応接室へ通される間、私には「お待ちの間、中庭でお過ごしください」という案内があった。
願ってもない。
中庭から北翼の厨房棟まで、距離にして八十歩ほど。私は一度だけ振り返って父の姿が廊下の向こうに消えたのを確認してから、迷わず北へ向かった。
「お嬢様、こちらは——」
案内の侍従が追いかけてくる気配がした。私は立ち止まって振り返り、満面の笑顔を作った。
「すみません。お料理の匂いがして、つい。お父様も薬草のことで先生方とお話が長くなりそうですし、厨房の方を見学させていただいてもいいですか?前から王宮のお料理に使う薬草に興味があって、お父様に何度もせがんでいたんです」
侍従は困った顔をした。
「それは……厨房長に確認を——」
「是非お願いします!」
子供のすることだ、とその侍従は顔に書いてあった。それでいい。
厨房棟の入口は予想より広かった。大所帯の王宮を養う台所は、平日でも数十人が働いている。私は侍従に連れられて厨房長のもとへ行き、「薬草に興味のある伯爵家のご令嬢が見学を」と取り次いでもらった。厨房長——五十がらみの、腕に調理の傷跡が幾筋もある女性——は私を一瞥して「邪魔しないなら」と短く許可した。
邪魔はしない。観察するだけだ。
私は部屋の端に立ち、全体を見渡した。
厨房の空気は複雑だ。肉の焼ける香り、酢の酸味、茹でたハーブの青さ、そして——。
(……何か、ある。)
私は鼻を立てた。混合物の中から、一本の糸を引くように、特定の気配を探す。ラナンキュラス型アルカロイドは加熱に比較的安定している。乾燥処理されていれば揮発成分は少ないが、微量の「青臭いが甘ったるい」後味のような気配が、空気の底に沈んでいる——。
見つけた。
冷蔵室の扉に近い区画。コンテナが積み上がっている場所だ。
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■ 三
「あの、すみません」
私は近くを通った若い料理人に声をかけた。「あそこのコンテナは何が入っているんですか?」
「ドライハーブですよ。業者から週末に届くやつです」
「どんなハーブを使うんでしょう?勉強になるから聞いてもいいですか?」
料理人は手を動かしながら「バジルとかタイムとか、普通のですよ」と答えた。関心なさそうな顔だった。私はそれ以上聞かず、コンテナのそばへ移動した。
側面のラベルを確認する。「ドライハーブ(業者A納品)」。筆跡は業者のものか、厨房側が転記したのか分からないが——「業者A」という記載が匿名に近い。正式な薬草商なら商会名と代表者名を明記するはずだ。
「すみません、これを少し見せていただいても?」
厨房長が離れた隙に、私はコンテナの端を持ち上げた。乾燥ハーブが数種混在している。上から見る限りは普通のタイムとセージに見える——だが。私は一番下の層に手を入れた。そこにある葉は、他のハーブより色が濃く、葉脈の走り方が異なる。
一枚だけ取り出して、指で軽く揉む。
匂いを嗅ぐ。
(……来た。)
セリ科に似た青臭さの奥に、わずかに甘い後を引く気配。揮発成分の揮発速度から推測すると、乾燥してからおよそ二週間——新鮮だ。週末に届けられたというのは本当だろう。
私は葉を舌先に当てた。
苦味が広がった。喉の奥に収斂性の感覚。これは——。
「お嬢様!」
厨房長が飛んできた。「何をなさっているんですか、毒見なんて!」
「大丈夫です」私は手を振った。「薬草は小指の先ほど舐めたくらいで死にませんから」
実際には微妙なところだが、この量なら肝臓に影響が出るまで時間がかかる。問題ない。
「それに——」私はゆっくりと言った。「これ、食用ハーブではないですね?」
厨房長の顔色が変わった。
「セイヨウキンポウゲの仲間です。ラナンキュラス型のアルカロイドを持っている。加熱調理で毒性は少し落ちますが……長期間、少量ずつ摂取すれば肝臓に蓄積します」
厨房長は固まっていた。私は笑顔を崩さなかった。
「研究用に一枚、いただいてもいいですか?お母様に見せたいんです。珍しい植物だから」
「あ……は、はい……」
困惑しているところに無邪気に押せば、大抵は通る。葉をスカートのポケットにしまった。厨房長は「その葉は……どこで手に入ったのか、私も存じなくて」と言い訳を始めた。私は「ありがとうございました」と頭を下げ、その声が終わる前に歩き始めた。
納品書は別の方法で確認する必要があった。
「あのう」私は立ち去り際に振り返った。「この業者Aさん、どちらのお店の方ですか?珍しいハーブを扱っているなら、お父様の商会でも取引できるかもしれないので」
厨房長は少し考えてから「王都の南端の方だったと思います。薬草を扱う小さな業者で……三ヶ月前に急に取引が始まって、私も詳しくは」と答えた。
三ヶ月前。
やはり、そこに収斂する。
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■ 四
その頃、ホールではフローラが笑っていた。
園遊会はまだ先だが、父が医師団と話している間、フローラは侍女に連れられて中庭の泉水近くで遊んでいた——と、後から聞いた。私が見たのはたまたまだ。厨房棟の窓から中庭が見えた。
彼女は花を摘んでいた。
それ自体は不思議ではない。八歳の子供が庭で花を摘む、春のよくある光景だ。問題は——摘んだ後の動作だった。
フローラは花をまとめて手に持ち、一本ずつ、花弁を静かにむしった。地面に落とす。次の一枚。また落とす。捨てるわけでもない。遊んでいるわけでもない。ただ確認するように——花弁が地面に触れる瞬間を、視線で追っている。
侍女は向こうを向いていた。
だから彼女だけが知っている動作だった。
私は窓から離れた。
(まさか。あの年で——)
一度、否定した。それが正直なところだった。
薬草の抽出において、花弁の分離は基礎中の基礎だ。花弁の付け根を力で引き千切ると組織が潰れ、有効成分より先に色素が滲み出る。だから一枚ずつ、角度を保ちながら——あの動作は、それと同じだった。同じすぎた。
しかし八歳だ。八歳の子供が、薬草抽出の基礎動作を、遊びの中でなぞっている——そんなことがあるか。
(ない。あるはずがない。ただの遊びだ。花びらを落として、何かを数えているだけだ。)
そう思いたかった。思いたい、というのは感情であり、データではない。私は自覚している。薬師として、感情による自己欺瞞が最も危険な判断ミスを生む——それを、三十五年かけて学んだ。
だから、もう一度だけ、窓の外を見た。
フローラはすでに歩き去っていた。地面に白い花弁が散っていた。等間隔に。花弁の枚数は——私の直感では、ちょうど一株分を丁寧に取り切った枚数だった。
(毒草も最初は、ただの草に見える。)
それが心に繰り返した。厨房で発見した証拠と、窓の外の妹の動作が、頭の中で同じ引き出しへ向かっていく——私はその引き出しを、まだ閉めておいた。証拠がない。証拠なしに結論を出すのは、薬師ではなく呪師のすることだ。
「お嬢様、お父上がお呼びです」
侍従が来た。私はノートを持って歩き始めた。
歩きながら、厨房で摘んだ葉のことを考えた。
セイヨウキンポウゲの近縁種——この世界の薬草分類では「ニセアカリタソウ」に当たる植物だ。サイレントウィード。私がかつて、その名前を正確に知ったのは三十二歳の時だった。患者の肝機能データを見て、摂取経路を遡って、標本と照合するまでに半年かかった。
今の私には、その半年分の知識が最初からある。
だからこそ使う。
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■ 五
父の商談は二時間で終わった。帰りの馬車の中で、父は「お前、中庭で何をしていたんだ」と聞いた。侍従から報告が入ったのだろう。
「厨房を少し見学しました。珍しい植物があったので」
「厨房を」父は微妙な顔をした。「……薬草に使えそうなものがあったか?」
「一種類、気になるものが」
父はそれ以上聞かなかった。父という人は、「娘が変なことをしている」という事実を前にすると、最終的に「まあ、ヴァルトハウゼンの血だな」という結論へ向かう。私の変質を、家名で解釈する。ありがたい傾向だ。
館に戻ると、母が「今日はどうだった?」と迎えてくれた。
「王宮の厨房を見学できました」
「まあ。どんな食材を使っているの?」
「いろいろ。興味深かったです」
母は私の顔を少し長く見てから、「夕飯前に着替えなさい」と言った。その「少し長く見る」が最近増えた。前世では気づかなかった視線だ。
夕食が終わる頃、フローラが私の部屋を訪れた。
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■ 六
「お姉ちゃん、今日はどこに行ってたの?」
ドアを開けると、フローラが立っていた。ランプを持った侍女が後ろに控えている。笑顔。無邪気な、妹の笑顔。私は十歳の顔を作って、「お父様の仕事についていったの」と答えた。
「王宮に?」
「そう。厨房を見学したんだ。薬草の勉強になるから」
フローラの目が、一瞬だけ変わった。
笑顔の形は崩れなかった。表情の筋肉は同じ動きをしていた。だが目の奥——瞳の焦点が、わずかに「計算」のために動いた。薬師の観察眼は、表情のずれより先に、その焦点移動を拾う。
「お姉ちゃんってすごいね」
フローラは言った。「私にも教えてよ。薬草、私も好きだから」
「いいよ」私は笑った。「今度一緒に薬草園を回ろう」
それが全くの嘘でも、全くの本音でもないことは、自分でも分かっていた。
フローラが部屋を出る直前——彼女の服の裾が翻った時、何かがスカートのひだから落ちた。小さな、銀色のかけら。
フローラは気づかずに出ていった。
私はそれを拾い上げた。
枯れた植物の葉片だった。薄く、繊維が透けている。乾燥しているが色が残っている——銀がかった青白い光沢。
(……月蝕草。)
私の手が、静止した。
月蝕草はこの季節に生育しない。少なくとも、この地方の気候では。しかしこの葉片は枯れているが、乾燥から日が浅い。一ヶ月以内に採取されたものだ。
フローラの服にこれが付いていた理由は、三つ考えられる。
一つ——偶然どこかで付着した。だが月蝕草をこの季節に入手できる場所が、私には思い当たらない。
二つ——誰かに渡された。乾燥処理された薬草を、意図的に持っていた。
三つ——彼女の「おままごとの薬草」に混じっていた。
どの場合も、出所は同じ疑問に行き着く。
この植物は、誰が用意したのか。
私は葉片を小さな封筒に入れ、机の引き出しの鍵のかかる棚の奥に押し込んだ。ランプの火を落とす前に、一つだけ書き留めた。
——フローラに「未来の知識」を提供する者がいる。
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■ 七
翌日の昼過ぎ、レオンハルトが来た。
護衛なし。旅装束。三度目になると、私もこの訪問形式に慣れてきた。
「北翼の夕食を調べた」
応接間で椅子に座るより先に、彼は言った。「症状が出た使用人は全員、月曜の夕食に北翼の食堂で食事を取っていた。全員だ。一例の例外もない」
「では私の仮説は」
「正しかった」彼は短く認めた。「認めたくはないが」
「素直なご感想をありがとうございます」
彼は私を一瞥した。その目に「なぜこの十歳はこんな顔をしているのか」という色があった。
「お前は何か知っているな」
「かもしれません」
「全て話せ」
「では——取引をしましょう、殿下」
応接間の空気が変わった。母は「少し席を外しますね」と言って出ていった。私はそれを視野の端で確認してから、ゆっくりと話し始めた。
提示した条件は四つだ。
一つ、私が毒の正体と混入経路の特定方法を提供する。二つ、殿下は私を「宮廷薬師補佐」という形で調査に組み込み、王宮への出入り権限を与える。三つ、調査結果の公表は殿下の判断に委ねるが、私の名は一切出さない。四つ——これが最後の条件だった。
「私の家族から、物理的な距離を置く口実を、定期的に作っていただきたい」
レオンハルトが眉を上げた。
「自分を守るために、妹から距離を置きたい……ということか?」
「殿下も以前の話を覚えていらっしゃるでしょう。我が家の遺伝的な素因の件を」
「……遺伝病か」
「私は保因者です。妹への影響を考えれば、定期的に離れている方が安心です——医学的な理由で」
完全な嘘ではない。遺伝的素因は本物だ。ただし「うつる」という誤解を招く表現を使ったのは意図的だ。この時代の医学知識では、遺伝病は伝染すると誤解される場合がある。その誤解を、今は利用する。
レオンハルトはしばらく黙っていた。
指を机の端で二度、叩いた。癖だ。考えている時の。
「……お前は本当に変わっている」と彼は言った。「感情より論理と予防を優先する」
「感情はデータになり得ませんから」
「面白い」
彼の口元が、微かに動いた。「取引に乗ろう」
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■ 八
羊皮紙を広げ、調査項目を書き出した。
北翼の夕食で週末だけ使われる食材のリスト。外部から特別に納品されているもの。納品者の身元——特に王宮の出入りを許された薬草商の有無。ここ三ヶ月間で辞めた、あるいは異動した使用人のリスト。
「なぜ三ヶ月なんだ」
レオンハルトが聞いた。
「毒が広がる仕組みを数理的に追う手法があります。患者の分布と発症日の関係を逆算すれば、侵入時点が浮かび上がる——私の独自の手法ですが、三ヶ月前が最も整合します」
「数理的に、か」
彼の目が細くなった。問い詰める色ではなかった。確認に近い——「この娘は本当にただの十歳ではない」という、静かな確信だ。しかしその確信を彼は口に出さなかった。出すより、内部に仕舞って使う方が得策だと判断したのだろう。
賢い。だから油断できない。
「一つ聞かせてほしいんだが」
「はい」
「その納品業者——業者Aと呼ぶが——お前はもう見当をつけているのか?」
私は少し考えてから答えた。「見当というより、消去法です。正式な薬草商であれば商会名と代表者名を明記する。それをしていない業者は、表に出られない事情がある」
「たとえば」
「たとえば——解雇された宮廷薬師が、身元を変えて取引している、など」
レオンハルトの表情が、わずかに固まった。
「知っているのか」
「仮説です」
「……ハインツ・メルヒオールという名を知っているか?」
私は首を振った。「存じません」
「三ヶ月前に解雇された宮廷薬師だ。公式の理由は王族への治療ミス。だが——私の独自調査では、何かを知りすぎた可能性が高い。そして現在、行方不明だ」
私はペンを置いた。
「行方不明、というのは、逃げたのか、隠されたのか」
「わからない。だが三ヶ月前に消えて、ほぼ同時期に業者Aが新規取引を始めた——この二つが偶然だとは、俺は思わない」
「同感です」
「つまり業者Aは彼本人か、あるいは彼の知識を使っている別の人間だ」
「そしてその背後に——もっと上の立場の人間がいる」
「……お前、本当に十歳か」
「殿下も十二歳にしては随分と、宮廷医の診断表を一日で集めますね」
沈黙があった。
それからレオンハルトは、短く笑った。喉の奥で響く、抑制した笑いだった。
「引き分けにしておこう」
彼は立ち上がりかけ——それから、ふと思い出したように「そうだ」と言った。
「一つ、お前に渡しておくものがある」
外套の内側から、折り畳んだ紙を取り出した。広げると、人名と日付が縦に並んだ記録だった。
「ハインツ・メルヒオールが解雇される三ヶ月前——彼が診察記録に残した患者リストだ。俺が宮廷の記録室から写させた」
私は目を走らせた。そして止まった。
リストの下から三番目。
患者名の欄に——「フローラ・フォン・ヴァルトハウゼン」と書いてあった。
「……」
「お前の妹が、その薬師に診察を受けていた。三ヶ月前、お前の誕生日の二週間後だ」
血の気が、どこかへ引いた。引いたまま戻らなかった。
フローラが。解雇される直前の宮廷薬師に。誰も知らないところで。
「……これを、なぜ今」
「お前が仮説を出す前に見せると、お前の思考の向きが変わる。情報は適切なタイミングで出す——それが俺のやり方だ」
(この男は、情報の出し方まで計算していた。)
引き分け、と私は思っていた。
だが違った。取引の初めから、レオンハルトは一手持っていた。それを最後に出した。
「……素直に教えてくださればよかったのに」
「さてな」
彼の口元が、また微かに動いた。今度は先ほどとは違う——余裕のある、余韻を楽しむような表情だった。
「引き分けにしておこう」
今度こそ彼は立ち上がった。私は紙を持ったまま、その背中を見送った。
妹の名前が、視界の隅で揺れていた。
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■ 九
その夜。
私は月蝕草の種を埋めた場所へ向かった。
発芽の確認のためだ。春まであと一ヶ月はある。通常の条件では芽は出ない。それでも確認する——これは薬師の習慣だ。実験は毎日記録する。変化がないことの記録も、変化と同じ価値がある。
東端の区画に入った瞬間、足が止まった。
土が盛り上がっていた。
「……ありえない」
声に出た。
私はしゃがみ込み、土の表面を指先で触った。湿っている。温かい——わずかに、周囲の土より温度が高い。根の呼吸熱だ。
植物が、生きている。
慎重に土を取り除く。根を傷つけないように。一センチずつ、横にずらしながら——。
白い、細い芽が出ていた。
発芽促進処理を施した種が、予測の三倍以上の速度で芽吹いていた。ジベレリン酸の反応速度の計算が、どこかで狂っている。いや——処理が「改訂された」のか。前世の私の論文の手法を基にしながら、さらに最適化が加えられたとしたら。
「発芽促進処理は、君が三十五歳で書いた論文の——改訂版だ」
背後から、声がした。
私は振り返らなかった。三秒、呼吸を整えた。心拍が上がっている。これは恐怖ではない。確認に近い——「来た」という、むしろ冷静な認識だ。
「……いつから、そこにいましたか」
「今来たばかりだ」
男の声だった。低く、落ち着いている。若い。しかし「若さ」の浮つきがない、重みのある落ち着き方をしていた。
私は立ち上がり、振り返った。
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■ 十
月明かりの中に、男が立っていた。
二十代後半から三十代の前半。背が高く、肩幅がある。軍人に近い体格だが、装束は平民のものだ。右手の薬指の第一関節から先が、ない。
それで分かった。
処刑台の上で見た、遠い影の男。「シグバルト」と書いた手紙の筆跡。薬指の欠けた手が書いたと分かるわずかな癖。
あれは幻覚ではなかった。
「……シグバルト」
名前を呼ぶと、彼の表情がわずかに動いた。予想していた名前を聞いた時の、微妙な動揺。
「手紙を読んだんだな」
「読みました」
「メモを解読したことも」
「月光の傾きと薬草師の間の俗称を組み合わせれば、難しくはありませんでした」
彼は少し沈黙した。月明かりの中で、その顔を観察した。目が——深い。年齢の割に、目の奥に時間が詰まっている。三十年か、それ以上の重みが、あの目の底にある。
私と同じ目だ、と思った。
「レオンハルトと取引したことは」と彼は言った。「正しい判断だ」
「あなたが評価する立場ですか」
「いや」彼は静かに言った。「ただ、俺が見てきた中では——あの男との協力関係が、最善に近い結果をもたらした時間軸があった」
「時間軸、と言いましたね」
「言った」
「複数形で」
彼は答えなかった。だが否定もしなかった。
「あなたは私の死後の時間軸から来た」私は確認のために言った。「私が三十五歳で発表した論文の改訂版を知っている。つまりあなたは私の死より後に——少なくとも私の論文が改訂される時間が経過した後に——生きていた」
「そうだ」
「そして回帰した」
「そうだ」
「なぜ」
シグバルトは、少し目を細めた。月光がその横顔に当たる。感情を制御している顔だ——感情がないのではなく、制御している。
「処刑台で、君を助けられなかった」と彼は言った。「俺はその場にいた。真実を暴くために潜入していた。間に合わなかった」
「……」
「それだけではない」彼は続けた。「俺はその後も生き続けた。フローラが聖女として君臨する世界を、何年も見た。そしてある日、同じ場所に戻っていた——時間を越えて。理由は分からない。だが俺は、この時代の知識を持ったまま、もう一度始めることができた」
「複数の失敗を、経験しているということですか」
沈黙があった。長い沈黙だった。
「……二度だ」
彼の声が、わずかだけ低くなった。「俺はこれで三度目の時間軸にいる。最初の時は君に会えなかった。二度目は——会えたが、別の形で失敗した」
「どんな形で」
「それは」彼は首を振った。「まだ話せない」
「なぜ」
「知りすぎると、君の行動が変わる。行動が変わりすぎると——フローラの反応が変わる。俺が見てきた中で、フローラの狂気は『エルナが先手を打ちすぎた時』に最も加速する」
私は、その言葉を頭の中で分解した。
「つまり私が正しいことをすることが、彼女を追い詰める」
「正しいことをするのが問題なのではない」シグバルトは言った。「完璧にやりすぎることが問題だ。エルナ——君は薬師として、変数を排除しようとする。しかしフローラという変数は、排除されようとした時に最も危険になる」
「…………」
「だから俺は三歩後ろにいる」
その言葉が、夜の空気の中に置かれた。
私は以前、「三歩後ろ」を風下の立ち位置と解釈した。毒を扱う者が風上に立つな——三歩の距離を保ち、安全な観察位置を守る。それは正しかったのかもしれない。しかしもう一つの意味がある。
三歩後ろは、追いつける距離だ。
遠すぎず、近すぎず——君が倒れた時に、確実に拾える場所だ。
「フローラの背後に」と私は言った。「別の回帰者がいる」
シグバルトの目が、僅かに変わった。「なぜそう思う」
「フローラのスカートから月蝕草の葉片が落ちた。この季節、この地方では生育しない植物だ。誰かが意図的に彼女に渡している」
「……よく気づいた」
「気づかない方がおかしい」
彼は少し沈黙した。それから「そうだ」と言った。「フローラの背後に、別の回帰者がいる。俺には誰かは特定できていない。しかしその人物は——月蝕草をこの時代から意図的に絶やそうとしている。サイレントウィードの解毒手段を、根絶するために」
「つまり私が気づく前に、解毒の道を塞ごうとしている」
「そしてその種を先に埋めたのが、俺だ。逆手を打った」
私は足元の、白い芽を見下ろした。
発芽促進処理の改訂版。私の論文の先にある技術。それが今、土の中から顔を出している。
「一つ確認させてください」
「何だ」
「あなたは私に振り向くなと書きましたね。自分を探すな、と」
「……そう書いた」
「あれは——私が後悔の方向を見ることを止めようとしたのか、それともあなた自身を探させないためか」
シグバルトは少し間を置いた。月の光が雲に隠れ、庭が一段暗くなった。
「両方だ」と彼は言った。「そして——どちらが本当の理由かを、俺自身まだ整理していない」
正直な答えだ、と思った。嘘をつける人間は「どちらかの答えを選ぶ」。両方と答えられるのは、本当にまだ分かっていないからだ。
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■ 十一
彼が外套の内側から何かを取り出した。
小さな、銀色の針だった。長さは人差し指の半分ほど。表面に刻まれた細かい紋様が、月光を拾って微かに光る。
「これを渡しに来た」
「何ですか、これは」
「意識共有の薬だ」シグバルトは言った。「飲めば——俺が経験した、失敗した時間軸の断片を、君も見られる。フローラの狂気の原点。レオンハルトの選択の分岐点。そして背後にいる回帰者が何を望んでいるか」
私はその針を見た。
銀色の表面に、液体が封じ込められているのが分かる。封入技術は昨夜の種子と同じ——蜜蝋と樹脂の多重封鎖。ただしこちらは金属製の針型の容器に封じてある。精度が高い。製作に時間と技術がかかっている。
「副作用は」
「飲んだ後、一時的に感情が失われる」
私はそこで、一瞬だけ言葉が止まった。
感情が失われる。
薬師にとって、それがどういう意味を持つか。患者の表情から苦痛の部位を推測する。家族の声のわずかな震えから「本当のこと」と「言いたくないこと」を聞き分ける。処方の最後の一手を選ぶ時に走る、言語化できない「これで合っている」という感覚——それら全てが、感情と論理の合算から生まれる。純粋な論理だけでは、薬は処方できない。
「……一時的、というのは」
「六時間から十二時間。個人差がある」
「その間の行動能力は」
「正常だ。むしろ——感情がない状態の方が、純粋な論理で動ける。ただし」彼は言葉を区切った。「君が薬師として患者に接する時、感情は判断材料になる。それが失われた状態で見るものが、君にとって全て正確だとは限らない」
「分かっています」
分かっている——だからこそ、怖い、と思った。「怖い」という感情があるうちは、それをデータとして使える。感情が奪われた後、私は何を失うか分からない。薬師として身に染み込んだ「直感」が実は感情に支えられていたと知ったとき、その認識を持つ「私」はもうそこにいない。六時間から十二時間の間、私は私を検証できない。
それが最も恐ろしいことだった。
私はその針を受け取った。
重さがある。銀は重い。しかしこの重さは金属だけの重みではない——何かが封じ込められた重みだ。
「飲むか飲まないかを、今決めろとは言わない」シグバルトが言った。
しかし彼の声に、何かがあった。
静かな声だった。落ち着いた声だった。しかし——その「落ち着き」が、少し違う質のものだ、と私は気づいた。押し込めている。何かを、あの落ち着いた声の下に、積んでいる。
「ただし——早い方がいい。三ヶ月後には状況が動く」
「月蝕草の開花の時期ですね」
「そうだ」
少しの間があった。
「……俺には」とシグバルトは、ほとんど独白のように言った。「三度目の機会しか残っていない」
「どういう意味ですか」
「二度目の失敗の後——回帰できる保証はない。俺が今ここにいるのは、恐らく最後の機会だ。この時間軸で決着がつかなければ……次はない」
次はない。
私はその言葉を、頭の中で転がした。感情で受け取るのではなく、意味を解析するように。
彼が三度目の時間軸にいる。そして「次はない」と言った。つまり回帰は無限に繰り返せるものではなく、回数に上限がある——あるいは、彼自身が何かを消耗している。三度の時間を越えるたびに、何かが削れていく。
「だから」彼は続けた。声は平静だった。しかし私には分かった——この平静は、揺れているものを抑えている形をしている。「俺は今回、顔を見せた。手紙だけでは、間に合わないかもしれないと思った」
「……間に合わない、というのは」
「前の二度は——君が動き始めるのが、少しだけ遅かった」
少しだけ。
その「少しだけ」の重みが、月明かりの中でじわりと広がった。
「分かりました」
私は針を手のひらに乗せたまま、月明かりにかざした。
銀色の表面に、封じ込められた液体が揺れる。気泡が一つ、すうっと上へ登った。
これは毒か薬か。
——分析すれば、かなりのことは分かる。針の素材、内容量の推計、液体の表面張力から粘度の概算、気泡の挙動から封入圧力の推測。感情を奪う薬が神経系にどう作用するかを考えれば——情動に関わる回路を選択的に抑制する物質、代謝が速く六時間から十二時間で排出される構造を持つ何か——類似した薬効を持つ植物の組み合わせは、私の知識の中にいくつか浮かぶ。
だが分析だけでは、補えない何かがある。
感情を失った自分が、どこまで「自分」であるか——それは、飲んでみないと分からない。薬師として、未知の副作用を抱えたまま臨床に入ることは本来禁じ手だ。しかしこの「臨床」は始まっている。フローラの手に月蝕草の葉片がある。王宮の厨房に毒がある。レオンハルトは妹の名前が入った診察記録を持っている。
全て動いている。私が分析している間も。
「……答えは」と私は言った。「私自身が確かめる」
「飲むということか」
「まだ分析をしていない」
「……」
「成分が分かれば、副作用の範囲も絞れる。十二時間と六時間の差がどこから来るかも推測できる。情報なしに口にするのは薬師として正しくない——ただし」
私は針を握った。
「分析には時間をかけすぎない。あなたが言う通り、三ヶ月後には状況が動く。分析は一週間で終わらせます」
シグバルトは私をしばらく見ていた。
「……君は」と彼は言った。「俺が今まで会った人間の中で、最も薬師らしい」
「それは褒め言葉として受け取ります」
「褒めた」
「ありがとうございます」
私は針を外套の内ポケットにしまった。月蝕草の芽が、足元でわずかに風を受けて揺れた。
「一つだけ」と私は言った。「あなたは今、三度目の時間軸にいる。その三度目に——これまでと違う手を打っているとすれば、何ですか」
シグバルトは少し考えた。
「君に直接会いに来た。最初の二度は——会わなかった。手紙と種だけを残して、距離を保った」
「今回は距離を縮めたわけですか」
「三歩後ろには、いる」
「……」
「ただし今回は——顔を見せた」
それだけだった。彼はそれ以上説明しなかった。私も問わなかった。
月が雲から出た。庭が再び白く照らされる。月蝕草の小さな芽が、その光の中で、緑ではなく銀白色に見えた。
「また来ますか」と私は聞いた。
「必要な時に」
「……それはいつですか」
「三ヶ月後、月蝕草が開花する時に」
彼はそう言って、薬草園の端の暗がりに消えた。
私は芽の前にしゃがみ込んだ。
月明かりの中で、銀白色の双葉が空気を受けている。この芽が花を開く頃、三ヶ月後——私はこの針の中身を分析し終えて、飲むかどうかを決めているだろう。
あるいは、すでに飲んでいるかもしれない。
感情を失った状態で見る「失敗した未来」が、私に何を見せるのか。
薬師として考えれば、副作用の管理は前提だ。問題は、感情なしに見た真実が——感情ありで見た時と、どう違うかだ。データは同じでも、解釈が変わる。感情は時に判断を歪めるが、時に「正しい直感」の源でもある。
それを知った上で、私は選ぶ。
月蝕草の芽から視線を上げ、シグバルトが消えた暗がりを見た。
三歩後ろ。
風下の、拾える距離。
今夜だけは——その距離が、少し近かった気がした。
「次はない」と彼は言った。三度目の時間軸。削れていく何か。顔を見せた理由。
私は薬師として、患者の顔を読む訓練をしてきた。三十五年かけて。あの落ち着いた声の下に何があったか——それは、切実という言葉より、もう少し静かで、もう少し深いものだった。崖際に立っている人間の静けさに、少し似ていた。
(……急がなければならない。)
感情ではなく、データがそう言っている。
一週間で針を分析する。月蝕草の発芽記録を続ける。フローラの診察記録の意味を解析する。レオンハルトを使い、使われる。
やることは多い。時間は有限だ。それはいつもそうだった。前世でも。処刑台の上でも。
そして今も。
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(第三話・了)
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