第7話 五千円の対価
学校には、ひとつだけ救いがあった。
仕事を紹介していたことだ。
制作会社から来る単発の案件を学校が受けて、それを生徒に割り振る。生徒はスタッフとして現場に入る。期間は仕事によって違った。一日で終わるものもあれば、映画みたいに数ヶ月続く現場もある。学校には、そういう制作の仕事がいくつも回ってきていた。
僕は、行けるものには片っ端から手を挙げた。
当時の僕は、ミュージックビデオ制作に強く惹かれていた。だからミュージックビデオの現場があれば、できるだけ入った。結果として、かなりの数の現場を回ることになった。
日給は、どれも五千円だった。
いま思えば、完全にブラックだ。
でも、学校の教室で座っているだけでは絶対に分からないことが、現場にはあった。撮影がどういう段取りで進むのか。スタッフが何を見ながら動いているのか。そういうことは、実際にその場にいないと分からなかった。
朝早く集合して、まだ眠気の残る頭で機材車のそばに立っていると、現場はもう静かに動き始めていた。誰かがケーブルを運び、誰かが機材ケースを開け、誰かが小さな声で確認を飛ばす。撮影前の現場には独特の匂いがあった。埃っぽいスタジオの匂いだったり、外ロケならアスファルトの湿った匂いだったりした。そこに照明機材の熱や、人の体温や、コンビニのコーヒーの匂いが混ざる。そういうものが入り混じった空気の中で、現場は少しずつ形を持ち始める。
現場では、判断が遅れると撮影が止まる。誰かが迷えば、その迷いの数秒を全員が待つことになる。だから僕は、香盤表を見ながら先を読む癖をつけた。
このあと小道具が必要になる。
今のうちに用意しておく。
画面の端に余計なものが見切れていないか、モニターで確認する。
ディレクターが何を狙っているのか、言葉の端から探る。
次の動きが読めたら、呼ばれる前に動く。
そういうことを、少しずつ覚えていった。
丁寧にやることと、遅いことは違う。
現場では、遅さはただの迷惑だった。
誰かの遅れが、全員の苛立ちになる。空気が少し重くなり、言葉が短くなる。さっきまで普通の声で飛んでいた指示が、少し硬くなる。返事も短くなる。そういう変化は、肌で分かった。
僕のポジションはADとか制作スタッフと呼ばれるものだった。
要するに雑用だ。
小道具を用意する。
それが本当に使えるか確認する。
ロケハンをする。
車を出す。
弁当を買う。
現場で必要な気配りをする。
やることは多かった。細かくて、目立たなくて、でもひとつ欠けると現場が微妙に回らなくなる仕事ばかりだった。撮影が始まる前に必要なものが揃っているかを何度も確かめる。コンビニ袋を提げて走ることもあれば、しゃがみこんで小道具の具合を確かめることもある。地味な仕事ばかりだったけれど、そういうもので現場はぎりぎり成り立っていた。
何度か、ミュージックビデオに出演させられたこともある。
高校生役の、爽やかな感じで。
スタッフ兼演者、というやつだ。
さっきまで裏で雑用をしていたのに、「次、出て」と言われて、そのままカメラの前に立つ。髪を軽く整えられて、立ち位置だけ伝えられて、笑ってくれとか、自然に歩いてくれとか言われる。撮り終われば、またすぐ裏へ回る。演者の飲み物を気にして、荷物を運んで、次の段取りを確認する。一人で何役もやる。そういう現場だった。
そんなふうにいくつもの現場を回り続けているうちに、ある疑問が頭の中に残るようになった。
――この先、僕はどこで映像を作る側に回れるんだろう。
撮影現場は面白かった。学べることも多かった。現場にしかない熱も、たしかにあった。カメラが回る直前の緊張も、OKが出た瞬間に少しだけゆるむ空気も、嫌いじゃなかった。
でも、結局、僕がいちばん惹かれるのは編集だった。
どれを残して、どれを捨てるか。順番をどう変えるか。どこで情報を伏せて、どこで見せるか。どういうタイミングで音を入れて、どういう間を作れば、観る側は気持ちいいのか。そうやって一本の映像に仕立てていく作業が、たまらなく好きだった。
だから調べ始めた。
「編集の仕事」「映像制作会社」「どうすれば編集に関われるのか」
パソコンの前に座って、夜遅くまで求人を見た。画面の白い光が部屋の壁に鈍く反射していた。条件を読んでは閉じ、また別のページを開く。思っていた以上に入口は狭かった。
当時は、今でいうYouTube動画編集みたいな、初心者でも入りやすい入口の仕事がなかった。簡単な編集であっても、きちんと報酬が発生する以上、ちゃんとした制作会社などに所属していない限り、なかなか仕事にはありつけない。
だから、映像編集者になりたいなら、制作会社に入るしかなかった。
朝早く出社して、モニターを拭く。
先輩編集者の指示に従って、細かい手伝いをする。
何年もの時間をかけて、少しずつ編集の業務を任されるようになる。
そういう長い下積みを通るのが、当たり前のルートだった。
遠い、と思った。
簡単な道じゃない。
気が遠くなるほど回り道にも見えた。
それでも、自分の心はもう決まっていた。
――俺は、映像編集がやりたい。
どうしてもやりたい。
自分の手で作った作品を、多くの人に見てもらいたい。
そこへ辿り着くための、もっといい道はないのか。
きっと、あるはずだった。
あの頃の僕は、周りの意見にほとんど耳を貸さなかった。人が何を現実的だと言おうが、何を無謀だと言おうが、そんなことはどうでもよかった。自分の願望だけを握りしめて、暗い場所で小さな光を探すみたいに、ただひたすら前を見ていた。




