第6話 スネ夫の論理
それから数日が過ぎても、彼は学校に戻ってこなかった。
けれど講師たちは、その不在を気に留めている様子もなかった。いつも通り前に立ち、いつも通り軽口を叩き、いつも通り気に入っている連中だけを見て笑っていた。
まるで、最初からそんな生徒はいなかったみたいに。
その無関心が、妙に胸に引っかかった。喉の奥に小さな魚の骨でも刺さったみたいに、取れそうで取れない違和感が残った。
「……あいつ、まだ来てないよな」
「……ん? うん」
「このままにしていいのか?」
同級生に誘われて、居酒屋で飲んでいたときのことだ。
店の中はうるさかった。隣のテーブルではサラリーマンが赤い顔で笑っていて、油の匂いとアルコールの匂いが混ざり合っていた。天井の近くにはタバコの煙が薄く溜まっていて、店員が通るたびにその煙が少し揺れた。テーブルは狭く、グラスの水滴が木目の上に輪を作っていた。そういう、どこにでもある安い居酒屋だった。
僕は枝豆の殻を皿の端に寄せながら、この気持ち悪い現状を、みんなどう考えているのか知りたかった。
「あれは教育じゃない」
自分の声が、思っていたより低く出た。
「大金を払って入った以上、簡単には辞められない。だから仕方なく耐える。その足元を見て、いじり倒して、やりたい放題だ。でも、本人にとっては何のプラスにもならない。講師どもは、本当に腐ってる」
向かいに座っていたヤマカワが、すぐに反応した。
「いや、それぐらい厳しい方が本人のためだと思う。それで逃げ出すやつは甘ったれてる」
僕は少し意外に思った。
ヤマカワは、これといって何かが秀でている人間ではなかった。編集がうまいわけでもない。カメラが得意なわけでもない。ディレクションに光るものがあるわけでもない。むしろ、総合的に見れば、他のどの生徒よりも劣っているくらいだと僕は思っていた。そういう人間こそ、講師の機嫌取りなんかに付き合っている場合じゃないはずだった。人より遅れているなら、その分、人より技能を鍛えなければいけない。そんなことは、少し考えれば分かることだ。
「甘ったれてる?」
僕は聞き返した。
「ちょっと意味がわかんない。ここは学校だろ。講師たちは、より良い学習環境を作らないといけない。それなのに、いじったり悪口を言ったりして、生徒にストレスを与えて勉強をやりづらくしてる。おかしいって言ってんのはそこだよ」
「いやいや」
ヤマカワは半笑いのままグラスを口につけた。氷が小さく鳴った。喉を鳴らして飲み干してから、少し得意げな顔で言った。
「ジョウくんはアメリカに住んだことある?」
「え?」
話が急に曲がった。何を言い出したのか、一瞬わからなかった。
「生活の中で銃声を聞いたことある? いつ殺されるか分からない環境で生きたことある?」
「……ない」
「そういう経験、何もないじゃん。そういう経験がある俺からするとさ、全部甘えに見えるんだよね。今の状況って別に大変じゃないよ。どいつもこいつも、少しは頑張ったらいいんじゃない? 甘えてないでさ」
僕は一度、固まった。
何を言ってるんだ、こいつ、と理解するまでに少し時間がかかった。耳には届いているのに、言葉が意味として頭に入ってくるまでに妙な時差があった。先に伝わってきたのは、中身じゃなくて、その言い草の安っぽさだった。
それから少し遅れて、腑に落ちた。
こいつは、自分を人より上の側に置いているのだ。技術習得に遅れているという自覚が薄い。だから焦りもない。だから、このひどい状況すら、どこか他人事みたいな顔でやり過ごせる。そして誰よりも講師に気に入られようとしている。
こいつもスネ夫だ。
講師という名のジャイアンの、従順な下僕だった。
「じゃあさ」
僕はグラスに触れたまま言った。
「ヤマカワくん、ボクシングやったことある?」
「ないよ。何言ってんの?」
「じゃあ、これから体験してみようか。俺がスパーリング相手になるから」
ヤマカワの顔が少し引きつった。頬の肉が不自然にこわばって、目の奥だけが忙しなく動いた。
「え、気が狂ったの? 頭やばいよ?」
「え? 辛いことも苦しいことも、何でも受け入れられるくらいじゃないとダメなんじゃなかったっけ?」
僕は目を逸らさなかった。
「それ、お前が言ってた話だろ」
彼は何も言わなかった。
僕はそのまま続けた。
「お前、いじめを許容するんだよな。じゃあお前も、いじめられていいだろ。俺に」
当然、彼はスパーリングには乗ってこなかった。
生活の中で銃声を聞いただの、いつ殺されるか分からない環境で生きただの、そんな大層なことを言っていたわりに、目だけがせわしなく泳いでいた。丸い体を小さく縮めるみたいにして、黙り込んだ。
――情けない、と思った。
口だけの彼も。こんな話をしている自分も。
その夜、僕ははっきり確信した。
この学校で仲間は作れない。
ヤマカワだけじゃなかった。僕の言葉に、はっきり賛同するやつは一人もいなかった。みんな、程度の差こそあれ、あいつの側にいた。講師に媚びる側。空気を読む側。見て見ぬふりをする側。そこに、信頼できる人間が育つ余地はなかった。
だから僕は、この学校で仲間を作るのを諦めた。
“信頼できる人間”が育つ土壌が、そもそもここにはない。
ここは、媚びへつらいが仕事力として評価される場所だった。そこに適応できるやつが上に行く。技術よりも、機嫌取りの才能が先に評価される。そういう構造だった。
映像制作は分業だ。チームワークが何より大事だということくらい、僕だって分かっていた。だから最初は、仲間を作ることにも目を向けるつもりだった。
でも、もうやめた。
人間関係に期待するのをやめた。
当初の目的――映像制作の能力を底上げすることだけに集中する。
そう心に決めた。




