第30話 答える時間
ちょうどその頃、業務委託で関わっていた会社に、新しく若い社員が入ってきた。
ヤマザキさんという女性だった。
ヤマザキさんは、いつもの担当者を補佐しながら、これから少しずつ案件に関わっていくことになっている。サブの担当者、という言い方がいちばん近いのかもしれない。
最初に顔を合わせたのは、Google Meet上でのことだった。
いつもの担当者の隣には、少し緊張した面持ちの女性が映っていた。ピンと背筋を伸ばし、こちらの言葉を一言も聞き逃すまいとする真剣さが伝わってくる。モニターを通しても、人の緊張や熱心さというものは案外伝わるものらしい。
「新しく入りました、ヤマザキです。今後、様々なプロジェクトに少しずつ関わらせていただくことになります。よろしくお願いいたします」
ヤマザキさんは、少し硬い声でそう言った。
「ジョウです。こちらこそ、よろしくお願いします」
僕は画面に向かって軽く頭を下げた。
そのときは、初々しい人が入ってきたな、くらいにしか思っていなかった。
新しく入った社員の人が、先輩社員の横で仕事を覚えていく。会社ではよくある光景だ。僕も会社員時代、新人の頃はそうやって先輩について、言葉の意味も、仕事の流れも、編集のコツも、ひとつずつ覚えていった。
最初のうち、ヤマザキさんは打ち合わせ中もあまり多くは話さなかった。
担当者が案件の概要を説明し、僕が編集方針を確認する。その横で、ヤマザキさんは小さくうなずきながらメモを取っていた。画面越しなので手元までは見えない。ただ、視線が時々下に落ち、またすぐこちらに戻ってくる。その繰り返しで、彼女が何かを一生懸命追いかけているのはわかった。
その会社との連絡は、基本的にSlack上で行われていた。
いつもの担当者とのやり取りが中心だったが、それからは、少しずつヤマザキさんも加わるようになった。
「こちらの素材、格納しました!」
「確認用データ、社内でも共有しておきます!」
「先ほどの修正内容、念のためまとめました!」
文面は丁寧だった。必要な情報が整理されていて、こちらから余計な確認をしなくても済むようになっていた。新しく入ったばかりの人にありがちな、言葉だけが丁寧で中身が散らかっている感じはない。
仕事がしやすい人だな、と思った。
それくらいの印象だった。
けれど、何度か打ち合わせを重ねるうちに、ヤマザキさんの意識が、少しずつ別のところにも向き始めているのを感じた。
彼女は、ただ案件の進行を追っているだけではなかった。
僕が、なぜそのショットを選んだのか。
演出のアイディアは、どこから出てくるのか。
使っているテクニックは、具体的にどうやるのか。
そういうものに、少しずつ興味を持ち始めているように見えた。
ある打ち合わせの終わり際だった。
担当者との確認がひと通り終わり、そろそろGoogle Meetを閉じようとしていたとき、ヤマザキさんが少しだけ前に身を乗り出した。
「あの、ジョウさん」
「はい」
「少しだけ聞いてもいいですか?」
声は控えめだった。けれど、ただの確認事項とは少し違う響きがあった。
「もちろんです」
僕は答えた。
ヤマザキさんは、少し言葉を探してから言った。
「動画の構成って、どうやって考えているんですか?」
一瞬、画面の中の空気が静かになったような気がした。
僕は少しだけ姿勢を直した。
「構成ですか」
「はい。いつも、ただ素材を並べているだけじゃない感じがしていて。構成案を作るときって、まず何から考えればいいんでしょうか? 素材を見て流れを決めるものなのか、ジョウさんはどうやって組み立てているんだろうと思って」
言葉は少したどたどしかった。でも、ちゃんと自分の中に疑問を持っている人の聞き方だった。
僕は少し考えてから答えた。
「動画の内容にもよりますけど、まずは誰に向けた動画なのかを考えます」
ヤマザキさんは、画面の向こうで小さくうなずいた。
「誰に向けた動画か、ですか」
「はい。その人が最初に何を知りたいのか。逆に、どこで飽きるのか。何を先に見せると最後まで見てもらいやすいのか。特にネット上の動画は、最初の数秒でその後も見てもらえるかがかなり決まるので、一番見せたい部分とか、一番引きのある部分は、最初にハイライトとして置いた方がいいです」
言いながら、僕は自分でも少し驚いていた。
忙しい時期だった。仕事は溜まっていたし、納期の近い案件もあった。短く済ませようと思えば、いくらでも短く済ませられた。
でも、雑に答える気にはならなかった。
ヤマザキさんは、ちゃんと聞いていた。
画面の中の表情が、少しずつ変わっていた。単に「勉強になります」と言うための顔ではなかった。自分の中にある空の引き出しを開けて、そこにひとつずつ言葉をしまおうとしているような顔だった。
「たしかに、最初って大事ですよね。それは、動画のジャンルによって変わるんですか?」
ヤマザキさんが言った。
「変わりますね。番組型の動画なら、最初の数秒にかなり力を入れた方がいいです。そういうフレームワークもあります。でも、それだけじゃないんです。見る人がどう受け取るかを考えないと、ただきれいに並べても伝わらないことがあります」
「なるほど……」
ヤマザキさんは、少しだけ画面の外へ視線を落とした。たぶん、何かをメモしていたのだと思う。
その日を境に、彼女は少しずつ動画編集のことを質問してくるようになった。
テロップのルール。
効果音を入れるタイミング。
声が聞き取りやすい音量バランス。
時短の工夫。
素材サイト。
サムネイルと本編の関係。
それらは、何となく聞いている質問ではなかった。自分なりに考えて、実際に手を動かして、そのうえでわからなかった場所をこちらに差し出してくる。そういう質問だった。
僕は忙しかった。
けれど、ヤマザキさんから質問が来ると、できるだけ丁寧に答えるようにした。
なぜだろう、と自分でも思った。
ある日、ヤマザキさんからDMが送られてきた。
「ジョウさん、いつもすみません! お忙しいのに、毎回すごく丁寧に教えてくださって、本当に助かっています。まだ聞きたいことがたくさんあるんですけど……これからも、ちょこちょこ質問してしまっても大丈夫でしょうか? ご迷惑じゃなければ、ぜひ勉強させていただきたいです!」
僕はその文面をしばらく見ていた。
画面の中の文字は、ただの文字にすぎない。けれど、その向こう側にいる人間の温度のようなものが、そこにはあった。少なくとも僕には、そう感じられた。
僕は少し考えてから返信した。
「大丈夫です。ちゃんと考えて質問してくれているので、答えやすいです」
送信してから、僕はまた編集画面に戻った。
タイムラインには、細かく切られた素材が並んでいた。
未読のメッセージも残っていた。
やることはいくらでもあった。
それでも、その質問に答えた時間が、無駄だったとは思わなかった。
むしろ、その時間だけは、不思議と仕事に追われている感じが少し薄くなった。
誰かに何かを教えるというのは、自分の中にあるものを少しだけ外に出して、形を確かめる行為なのかもしれない。
僕はそんなことを考えながら、再生ボタンを押した。
画面の中で、映像がまた最初から動き出した。
後日、ヤマザキさんからまたDMが届いた。
「ジョウさん、今日ってお忙しいですか? 私も今日リモートなので、もし少しお時間あれば、息抜きに少しお話ししませんか?」
僕はその文面を、少しだけ眺めた。
用件だけがまっすぐ飛んでくる業務連絡とは違う。かといって、完全な私用とも言い切れない。
「大丈夫ですよ。少しなら話せます」
そう返すと、すぐにGoogle MeetのURLが送られてきた。
クリックすると、画面が切り替わった。
ヤマザキさんが映った。少し照れたような顔をしていた。
「すみません、急に」
ヤマザキさんは言った。
「いえ、大丈夫です。どうしました?」
「いや、特に急ぎの用事ってわけじゃないんですけど……」
彼女は少し笑った。
「部屋で一人で仕事してると、誰かと話したくなりませんか?」
その言い方が、妙に正直だった。
僕は少し笑った。
「わかります。フリーランスだと、基本ずっと一人なので」
「ですよね。会社にいると、隣に誰かいるじゃないですか。ちょっとした確認とか、雑談とか、何となくできるんですけど、リモートだと本当に一人で。パソコンに向かって、Slack見て、資料見て、またSlack見て、みたいな感じで」
「ありますね。気づいたら、一日誰とも話してないこともあります」
「え、それはちょっと寂しくないですか?」
「寂しいですね。久しぶりに誰かと喋ったら、声のボリューム感覚がわからなくなるんですよ。いきなり大きい声が出て、自分でびっくりしたことがあります」
そう言うと、ヤマザキさんは少し声を出して笑った。
「それ、ちょっとわかる気がします」
そんな、たわいもない話をしばらくした。
会社のこと。リモートの日の過ごし方。仕事中にどれくらい休憩を入れるか。昼ごはんを適当に済ませてしまうこと。
話しているうちに、ヤマザキさんの表情が少し柔らかくなっていった。
そして、少し間を置いてから、彼女は言った。
「あの、実は、ちょっと相談したいこともあって」
「はい」
「最近、動画編集の勉強をちゃんとしたいなと思っていて」
彼女は画面の外に視線を落とした。たぶん、何かのページかメモを見ているのだと思った。
「自分でもいろいろ調べてるんですけど、動画編集スクールっていっぱいあるじゃないですか。正直、何がいいのか全然わからなくて」
「最近本当に増えましたね」
「はい。それで、ひとつ気になってるスクールがあるんですけど、ジョウさんから見てどう思うか聞いてもいいですか?」
「もちろんです」
ヤマザキさんは画面共有をした。
そこには、動画編集スクールのページが映っていた。新しいサービスらしく、デザインはきれいだった。白を基調にしたページに、淡い青のボタンが置かれている。初心者でも安心、案件獲得までサポート、そんな言葉が、整った顔で並んでいた。
カリキュラムも一応まとまっていた。
Premiere Proの基本操作。テロップの作り方。サムネイル制作。ポートフォリオ作成。案件獲得の流れ。初心者向けとして必要そうな項目は、きちんと棚に並べられていた。
「料金もそこまで高くないですし、内容も見た感じは良さそうかなと思ったんですけど、私だと判断できなくて」
僕はページを上から順番に見ていった。
教材の内容。サポート期間。添削の有無。講師のプロフィール。受講生の作品例。掲載されている情報を、仕事で素材を確認するときのように見ていった。
「ぱっと見た感じ、カリキュラムは悪くないと思います」
僕は言った。
ヤマザキさんの表情が少し明るくなった。
「本当ですか?」
「はい。初心者が最初に触る内容としては、ちゃんと揃っていると思います。料金も、内容に対して高すぎる感じはしないです」
「よかった……」
「ただ」
僕がそう言うと、ヤマザキさんは少し背筋を伸ばした。
「これだけで全部わかるかというと、たぶんそれは別です」
「別、ですか」
「はい。操作は学べると思います。Premiere Proの使い方とか、基本的な編集の流れとか。そういうものは身につくと思います。でも、実際に仕事で使える映像を作るには、もう少し別の判断が必要になります」
「別の判断……」
ヤマザキさんは、その言葉を小さく繰り返した。
「たとえば、この見せ方ならターゲットに刺さるはずだ、という仮説を立てることです。その仮説を、構成やデザインや音やテンポに落とし込む。編集ソフトは、そのための道具なんです」
僕は画面の中のカリキュラムを見ながら話した。
「もちろん、道具の使い方は大事です。包丁の握り方も知らない人が料理を作るのは難しい。でも、包丁を握れるだけで料理人になれるわけじゃない」
言いながら、僕は会社員時代に何度も味わった感覚を思い出していた。
ソフトの使い方はよく知っている。でも、映像がよくならない。
その壁の前で、僕は何度も立ち止まった。タイムラインの上に素材を並べながら、自分が何をわかっていないのかさえ、うまく掴めなかった。映像編集は、操作では終わらない。むしろ操作を覚えてからが、本当の入口なのだ。
「それって、スクールだと教えてもらえないこともあるんですか?」
ヤマザキさんが聞いた。
「スクールによると思います」
僕はそう答えた。
「ただ、少し引っかかったのは、講師の動画編集歴が五年程度というところです」
「五年って、短いんですか?」
「短いとは言い切れません。五年でも、密度の高い経験をしている人はいます。ただ、僕から見ると、だいぶ後輩ではあります。制作会社に勤めていたのか、動画制作全般をどの程度経験してきたのか、そのあたりがページからはよく見えない」
「たしかに、詳しくは書いてないですね」
「もしかしたら、趣味でYouTube動画を五年くらい編集してきた人かもしれない。それが悪いわけではないです。でも、現場で必要になる知恵や技術を、本当にどこまで教えられるのかは、そこだけではわからないです」
ヤマザキさんは画面の向こうで小さくうなずいた。
「じゃあ、やめた方がいいですか?」
彼女は少し不安そうに聞いた。
僕は少し考えた。
「いや、受けてもいいと思います」
「いいんですか?」
「はい。最初の入口としては、悪くないと思います。少なくとも、何もないところから一人で調べ続けるよりは、進みやすいはずです」
「なるほど……」
「ただ、受けながら疑問が出てきたら、そのままにしない方がいいです。そこに大事なものがあるかもしれないので」
「大事なもの?」
「はい。たとえば、テロップは入れられたけど、なぜか素人っぽく見える、とか。この動画とこの動画は似ているのに、なぜ片方だけよく見えるのか、とか。そういう疑問です」
ヤマザキさんは、真剣な顔で聞いていた。
「編集がうまくなるというのは、手が速くなることだけじゃないです。何が良くて、何が悪いのか。その違和感に気づけるようになることです。違和感に気づければ、直せます。気づけなければ、直しようがない」
ヤマザキさんは、何度かうなずいた。
「それ、すごく大事そうですね」
ヤマザキさんは、ただスクールに行くかどうかを相談しているだけだった。でも、その奥には別のものが見えた。ちゃんと作れるようになりたい。なんとなく覚えて終わりにしたくない。そういう小さな火のようなものが、画面の向こうで揺れていた。
火は、放っておけば消える。
でも、近くに乾いた薪があれば、大きくなることもある。
「もし受けるなら、わからないところは今までみたいに聞いてもらって大丈夫です」
僕は言った。
「え?」
「作ったものも、見せてもらえれば、僕のわかる範囲でどこを直せばよくなるかも言います」
ヤマザキさんの表情が、ぱっと明るくなった。
「え、本当ですか?」
「はい。ちゃんと作ってくるなら、見ますよ」
「めちゃくちゃありがたいです!」
ヤマザキさんは、ぐっと身を乗り出した。
「私、ちゃんとやります。せっかくなら、なんとなく受けて終わりじゃなくて、ちゃんと作れるようになりたいので」
その言葉を聞いて、僕は少しだけうなずいた。
「それなら、受ける意味はあると思います」
「ありがとうございます。ジョウさんに相談してよかったです」
彼女はそう言って、ほっとしたように笑った。
その笑顔を見ながら、僕は不思議な気持ちになった。なんだか懐かしい気持ち。
そのときの僕には、まだその感覚に名前をつけられなかった。
ただ、画面の中でヤマザキさんが笑っていた。
机の上のコーヒーはすっかり冷めていた。タイムラインは編集途中のまま止まっていた。でも、僕の中では、どこかに小さな印がついたような気がした。
編集画面の端に置いた、目立たないマーカーみたいに。
そのときはまだ通り過ぎただけの印だった。
けれど、その印はあとになって、何度も僕の目に入ることになる。




