第29話 僕の名前につく仕事
僕は受けた案件を、とにかく丁寧にこなした。
フリーランスになったからといって、急に仕事のやり方が変わるわけではない。
ただ、会社員の頃とは、ひとつだけ決定的に違うことがあった。
ひとつひとつの仕事が、直接、自分の名前に返ってくるようになったのだ。
もう、そこに会社の看板はない。
納品した映像の質も、返信の速さも、ミスの有無も、相手に与える安心感も、そのまま僕自身の評価になる。良くも悪くも、逃げ場がない。
だから、チェックは細かく行う。
書き出した映像を、最初から最後まで見る。気になるところがあれば、もう一度タイムラインに戻る。素材の位置を一、二ピクセル動かす。音のつなぎ目を少し整える。カットの長さを数フレームだけ調整する。
たった数フレームで、映像の印象は変わる。
それは、ほんの少し塩を入れすぎたスープのようなものだった。気づかない人は気づかない。でも、どこかで味は変わっている。見る人の意識には上がらなくても、体はちゃんと受け取っている。映像には、そういう細いところがある。
もちろん、細部にこだわればこだわるほど時間はかかる。時間をかけた結果、納期に間に合わないようでは意味がない。丁寧に作ることと、納期を守ることは、どちらか一方を選ぶものではない。
僕は、できるだけ早い段階で初稿を出すようにしていた。
「もう初稿いただけるんですか? 納期、まだ先ですよね」
クライアントから返ってきたチャットの文字を見て、僕は少しだけ息をついた。
「はい。早めにご確認いただけた方が、修正が出た場合も余裕を持って対応できますので」
そう返した。
すると、すぐにまた返信が来た。
「ありがとうございます! 本当に助かります! すぐに確認します」
その短い文章を見て、僕は椅子の背もたれに少し体を預けた。
ただ感謝されるだけではない。その中には、こちらへの信頼が少しだけ深まったような温度があった。僕は仕事の中で、そういう温度をわりと大事にしていた。
夜、妻が作業部屋を覗いた。
「まだやってるの?」
「うん。さっき初稿は送った」
「また納期短いの?」
「先だよ」
「じゃあ、もう少し後でもよかったんじゃないの?」
僕は画面を見たまま答えた。
「ギリギリに出して、何か言われたら嫌じゃん」
僕は少し笑った。
「でも、それだけじゃない。仕事って、納品物だけじゃないんだと思う。相手が安心して進められるかどうかも含めて、仕事なんだよ」
言いながら、会社員時代に教わったことを思い出していた。
僕よりもずっと仕事ができる先輩がいた。
編集の技術も、現場での動きも、クライアントが寄せる信頼も、僕よりずっと上だった。新人の頃の僕は、その人に何度も質問した。どうすればこのクオリティの映像になるのか。何を見て、何を判断しているのか。
僕が期待していたのは、エフェクトを使うときの工夫や、演出の秘訣、心地よい間の作り方といった、職人的な奥義のような答えだった。
でも、その人が言っていたのは、もっと地味なことだった。
ちゃんと見ること。
細かく確認すること。
納期を守ること。
相手を不安にさせないこと。
相手が何を求めているかをしっかり考えること。
当時の僕は、それを聞いて少し拍子抜けした。そんなことなら、自分でもわかっていると思っていたのだ。
でも実際には、わかっているつもりでいることと、それを実際の仕事の中でやることは違った。
当たり前のことは、たいてい地味な顔をしている。
だから、多くの人は途中で見落とす。あるいは、知っているつもりになって通り過ぎる。
僕はその地味なことを、自分の中に深く入れた。骨の奥まで染み込ませるみたいに。
そのせいで、少し完璧主義になった部分もある。必要以上に細かいところが気になって、自分で自分の首を絞めるような夜もあった。
けれど、独立したあと、その性質は確実に僕を助けた。
最初は、細い道だった。
前職時代から付き合いのあったクライアントから、ぽつぽつと連絡が入る。業務委託で入った会社から、定期的に案件が振られる。
クラウドソーシングで一度だけ受けた会社からも、その後、直接連絡をもらうようになった。
ひとつ終わらせる。
確認が入る。
修正する。
納品する。
また別の素材が届く。
そういうことを繰り返しているうちに、季節がひとつ変わった。
それでも仕事は途切れなかった。
また、ひとつ季節が変わった。
はじめは足元にかろうじて見えているだけだった細い道が、少しずつ踏み固められていった。気がつくとそこには、次の仕事へ続く道筋のようなものができ始めていた。
「今回もお願いできますか?」
「前回の動画、評判よかったです」
「別件でも相談したいものがありまして」
そういう言葉が増えていった。
さらに、その会社で親しくなった担当者が転職したあと、今度は転職先からも声がかかった。
「ジョウさん、こちらの会社でもお願いできる案件がありまして」
そのメッセージを見たとき、僕は少し不思議な気持ちになった。
会社員だった頃、僕は会社に来た仕事をしていた。会社の看板があり、会社の取引先があり、僕はその中で働いていた。
けれど今は、少しずつではあるけれど、仕事が僕自身についてくるようになっていた。
それは、嬉しいことだ。
同時に、少し怖いことでもあった。
僕の名前で仕事が来るということは、失敗もまた、僕自身に返ってくる。ひとつひとつの仕事が、次の仕事につながっている。そう思うと、手を抜く余地はどこにもなかった。
その頃には、営業らしい営業をしなくても、仕事が途切れることはほとんどなくなっていた。
メールが来る。
チャットが来る。
打ち合わせが入る。
素材が届く。
編集する。
確認する。
修正する。
納品する。
その繰り返しで、一ヶ月のスケジュールは丸ごと埋まっていった。
「最近、ずっと仕事してない?」
ある夜、妻が言った。
僕はモニターから目を離さずに答えた。
「してるね」
「たまには休んだら?」
「休んでるよ」
「ずっとパソコンの前でカチャカチャしてるじゃん」
妻は少し呆れたように言った。
僕は手を止めて、ようやく妻の方を見た。
たしかに、休んでいる感覚はあまりなかった。朝起きて、パソコンを付けて、編集して、打ち合わせをして、また編集する。食事をしていても、頭のどこかでは次の仕事のことを考えている。風呂に入っていても、あの演出はもう少し抑え方がいいかもしれない、などと考えている。
好きな仕事だ。
それは間違いない。
でも、好きな仕事でも、休みなく働いていれば体は疲弊する。好きだから平気ということにはならない。水が好きでも、ずっと水の中にいれば息はできなくなる。
気がつけば、仕事を探して画面の前で途方に暮れていた独立直後の僕は、もうそこにはいなかった。
ひとつひとつ丁寧にこなした仕事が、紹介を生み、次の依頼につながっていく。そうやって僕のもとには、次の仕事、また次の仕事が届くようになっていた。
そうして僕は、いつの間にか、売れっ子のフリーランス動画クリエイターになっていた。
同時に、僕の中にあった余白は、少しずつ削られていった。
「これ、全部一人でやるの?」
ある夜、妻が言った。
僕はモニターを見たまま、少しだけ肩を回した。首の奥で、小さく骨が鳴った。
「やるしかないでしょ。まあ、きついはきつい」
僕は正直に言った。
「でも、断るのももったいないんだよ。せっかく声をかけてもらってるし」
「それはわかるけど、体が一個しかないじゃん」
体が一個しかない。
その通りだった。
どれだけ気合いを入れても、どれだけ効率化しても、結局、最後にマウスを動かすのは僕の手だ。音のバランスを確かめるのも僕の耳で、違和感を拾うのも僕の目だ。
「人に頼むとかは?」
妻が言った。
僕はすぐには答えなかった。
人に頼む。
その言葉は、頭の中に何度か浮かんではいた。自分一人で全部抱えるのではなく、カット編集だけでも誰かに任せる。テロップ入れだけでも任せる。手のかかるモーショングラフィックスの部分だけでも任せる。そうすれば、僕はもっと重要な部分に時間を使える。
理屈としては、わかっていた。
でも、理屈と実際の仕事は、いつも少しだけ違う場所にある。
「考えてはいる」
僕は言った。
「でも、誰に頼むの?」
「知ってる人に頼めばいいんじゃないの?」
「頼めるならそれが一番いい。でも、みんな自分の仕事があるから。こっちが急ぎで頼みたいときに、たまたま空いてるとは限らないんだよ」
「そっか」
妻は短く言った。
仕事は、こちらの都合だけで来るわけではない。急ぎの案件は、たいてい急ぎで来る。修正は、予想していないタイミングで来る。素材は遅れて届くこともある。クライアントの確認も、こちらが思った通りには進まない。
そういう流れの中で人に任せるには、ただ知り合いがいるだけでは足りない。
必要なときに声をかけられる相手が何人もいて、その中の誰かに仕事を任せられる。そういう状態を作っておく必要があった。
「じゃあ、またああいうサイトを使うの?」
妻が言った。
「ああいうサイト?」
「前に見てたやつ。ランサーズとか、クラウドワークスとか」
僕は少しだけ黙った。
受注者として見ていたとき、そこは自分の主戦場ではないと判断した場所だった。安い案件が並び、応募者が集まり、映像編集という仕事が小さく折り畳まれていた場所。
けれど、今度は立場が違う。
僕は仕事を受ける側ではなく、仕事を頼む側として、その場所を見ることになる。
そう考えると、まるで同じ扉を反対側から開けるような、少し不思議な感じがした。
僕は、自分が抱えている仕事の状況を見た。
締切日。素材到着予定日。確認待ち。修正対応。新規相談。
それぞれの仕事が、小さな札のように並んでいる。
どれも大切な仕事だ。
だからこそ、雑に扱いたくなかった。
でも、大切だからといって、全部を自分の両手で抱え続けることはできない。大切なものを守ろうとして、全部を抱え込んだ結果、腕の中でそれを潰してしまうことだってある。
その矛盾が、胸の中で少しずつ重くなっていた。
「外注、試してみるよ」
僕は言った。
「うん」
妻は短くうなずいた。
そのときの僕はまだ、人に仕事を任せるということが、どれくらい神経を使うものなのかを本当の意味ではわかっていなかった。
ただ、仕事が増えた今、自分一人では限界がある。
その事実だけは、はっきりしていた。




