第27話 最初の火
朝、目を覚ました。
しばらく天井を見ていた。
昨日までと同じように、部屋は静かだった。でも、その静けさの意味はもう違っていた。
会社からの連絡を待つ必要はない。次の指示も、自宅待機がいつ終わるのかも、もう気にしなくていい。
僕は自由になった。
その自由は、思っていたより静かだった。
歓声も音楽もない。ただ、これまで何かが置かれていた場所だけが、ぽっかり空いている。
今日から何をしてもいい。
でもそれは、今日から何をするのか、自分で決めなければいけないということでもあった。
妻は、少し早く起きていた。
シャワーを浴びたあとらしく、部屋にシャンプーの匂いが少し残っていた。
「今日、何するの?」
妻が言った。
その声は、いつもと変わらなかった。何かを急かすでもなく、励ますでもなく、ただ今朝の予定を聞いているだけの声だった。
僕は少し考えてから答えた。
「とりあえず、仕事を探す」
「転職活動?」
「いや」
僕は椅子に座りながら、パソコンの電源を入れた。
画面が白く光った。起動音が、いつもより少し大きく聞こえた。静かな部屋の中で、機械だけがやけに正直に働き始める。
「転職はしない。個人でやる」
妻は、少しだけ僕の方を見た。
「フリーランスってこと?」
「うん。前から独立はしたかったし」
「準備は?」
その一言で、胸の奥に小さな石が落ちた。
僕はすぐには答えなかった。
足元には編集用のパソコン本体があり、目の前にはモニターがある。Premiere Proも、After Effectsも、Photoshopも、Illustratorも入っている。映像を作るための環境だけは、ちゃんと揃っていた。
でも、それ以外はほとんど何もなかった。
「正直、あんまりできてない」
「名刺は?」
「ない」
「ポートフォリオは?」
僕は画面を見たまま、少し笑った。
「完パケデータは会社にほとんど置いてきた」
そこで二人とも、少しだけ黙った。
「それに、七年会社で映像を作ってきたけど、実績として自分で公開できるものって、思ったより少ないんだよ。クライアントワークだから、勝手にネットに載せられないものも多いし」
言葉にしてみると、その事実は想像していたより重かった。
七年。
その時間は、決して短くなかった。
僕はそのあいだ、いくつもの映像を作ってきた。イベント映像も、企業のプロモーション映像も、画面の端々まで神経を通わせた編集も、誰にも気づかれないような小さな苦労も、山ほどあった。
でも、その七年を証明するものは、今、ほとんど僕の手元にない。
自分の手で掘り出し、自分の手で磨き、自分の手で並べてきた宝石の山がある。たしかにある。けれど、その山をいざ人に見せようとすると、そこには柵があり、立て札があり、鍵のかかった門があった。
僕はただ、門の外からそれを眺めているだけだった。
「でも、映像は作れるでしょ」
妻は言った。
「うん」
「じゃあ、完全に何もないわけじゃないね」
完全に何もないわけではない。
パソコンはある。編集環境はある。七年間、現場で覚えたあれこれも、体の中に残っている。
ただ、仕事の取り方がわからなかった。
会社員だった頃は、仕事は社長や上司を通って、僕のところへ回ってきた。僕はそれを編集し、納品していた。良くも悪くも、仕事は流れてきた。
けれど会社を辞めた今、その流れはもうない。
誰も、僕の机に仕事を置いてくれない。
「まずは、会社で付き合いのあったクライアントに連絡してみる」
僕は言った。
「会社を辞めましたって?」
「うん。今後は個人でやりますって。何かあれば声をかけてくださいって」
僕はメール作成画面を開いた。
宛先を入れ、件名を書き、本文を打つ。
会社を退職したこと。
今後は個人事業主として映像制作の仕事をしていくこと。
もし何かあれば、声をかけてもらいたいということ。
それだけの内容なのに、何度も読み返した。
文章のどこかに余計な要素が混じっていないか。軽く見えすぎていないか。失礼な表現はないか。意味はちゃんと伝わるか。
一文を消し、また書き直した。
いつからだろう。
僕は、こういう細かいところまで妙に気にするようになっていた。言葉ひとつで、相手に与える印象は少し変わる。そのわずかなズレが、編集画面の一フレームのズレみたいに目についた。
一フレームずれるだけで、映像の伝わり方は少し変わる。
言葉も同じなのだ。
職業病というものは、こういう形で人の体に残るのかもしれない。
ようやく送信ボタンを押した。
メールは、あっけなく送信済みになった。
そのあと、いくつか返信が届いた。
「何か仕事があった際にはご連絡させてください」
そう書かれた文面を見て、僕は小さく息を吐いた。
それが本当に仕事につながるのかはわからなかった。社交辞令かもしれない。大人の世界では、やさしい言葉の中に、何も入っていないこともある。
それでも、そのときの僕には十分だった。
焼け野原にひとりで立っているような気持ちだった。
見渡しても、道はない。看板もない。誰かが迎えに来る気配もない。
その中で、遠くに小さな明かりがひとつ見えた。
本当にそこに家があるのか、ただの見間違いなのかはわからない。
でも、焼け野原の中では、見間違いのような光でさえ、人を少し歩かせる。
そして実際、その中の一社から仕事の依頼が来た。
会社員時代に、最も懇意にしていたクライアントだった。
その依頼の文面を読み終えたとき、胸の奥で、消えかけていた火が少しだけ持ち直した。
大きな炎ではなかった。
誰かに見せびらかせるような、派手な火でもなかった。
けれど、両手で包めば消えずに済むくらいの、小さくて確かな火だった。
最初の火としては、それで十分だった。




