第26話 卒業
社長からメールが届いたのは、それからしばらく経ってからだった。
本文には、会社に来て話をしたい、という趣旨のことが短く書かれていた。
そしてそのメールには、PDFがひとつ添付されていた。
解雇通知書。
その五文字は、画面の上で妙に静かだった。声を荒げるわけでもなく、こちらの事情を尋ねるわけでもなく、ただ白い背景の上に、事務的な顔をして置かれていた。
そこには、緊急事態宣言によるイベント中止と、売り上げの大幅な減少を理由に、僕を解雇するという内容が書かれていた。
売り上げ八十パーセント減。
その数字だけが、やけにはっきりと目に残った。
八十パーセント。
それはもう、減少というより、ほとんど消失に近い数字だった。
ほぼ同じ内容のメールが、妻にも届いていた。
「来たね」
妻が言った。
「うん」
「とうとう解雇か」
その言葉を口にしても、不思議と大きく感情が揺れることはなかった。思っていたよりも、ずっと静かにその言葉を受け止めていた。
「話したいから、会社に来てほしいって」
僕が言うと、妻は小さく首を振った。
「私は行かないよ。ジョウはどうするの?」
「最後にちょっと、話をしてくるわ」
そう言いながら、自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。
ああ、終わるんだ。
そういう感覚だった。
もちろん、不当解雇にあたるのではないかということは、頭のどこかでわかっていた。突然の通達だ。こちらにも生活や事情がある。結婚したばかりで、これからの予定も、生活も、まだ何ひとつ固まっていなかった。ようやく二人でひとつの暮らしを作り始めたところだった。
でも、それ以上に、あの会社との細い糸が、ようやく切れるのかもしれない。
そう思うと、どこか安堵にも期待にも似たものが、胸の奥に少しだけ広がった。
翌日、僕は会社へ向かった。
久しぶりに会社を目の前にすると、以前より少し遠い場所にあるように感じた。毎日のように通っていた場所のはずなのに、数か月離れただけで、建物というものはこんなにも他人行儀になるのかと思った。こちらを覚えているようで、もう覚えていない。そんな顔をしていた。
エレベーターで三階に上がり、扉を開けて中に入る。
人の気配はほとんどなかった。
以前なら、どうでもいい雑談の声や、電話の音や、パソコンのキーボードを叩く音などがどこかしらから聞こえていた。
でも、その日は違った。
会社は、会社の形をしているだけだった。
事務所には、社長ひとりだけがいた。
机も、椅子も、壁も床も、前と同じだった。けれど、人がいないだけで、会社というものはこんなにも生気を失うものらしい。
社長は、僕を見ると、少しだけ表情を変えた。
「おぅ、お疲れ様」
その声には、いつものような強さがない。
大きく見せようとする声でも、相手を押し込めようとする声でもなかった。どこか湿った布をかぶせたような、弱い声だった。
僕は何も言わず、軽く頭を下げた。
社長は少しだけ視線を落とした。
いつものような、人を威圧するための沈黙ではない。言葉を選んでいる、というより、自分の口から出ていく言葉を、できることならまだ口の中に留めておきたい。そういう間だった。
「結婚したばかりなのに、大変やな」
社長は言った。
その言葉は、妙に素直に聞こえた。
この人の口から出る言葉を、僕はずいぶん長いあいだ疑いながら聞いてきた。どこまでが本当で、どこからが自分を大きく見せるための飾りなのか。どこに責任逃れが混じっているのか。
そういうことを、ほとんど反射的に探す癖がついていた。
だけど、社長の顔には、珍しく申し訳なさのようなものが滲んでいた。もちろん、それがどこまで本物なのかはわからない。けれど少なくとも、いつもとはどこか違っていた。
「緊急事態宣言が出て、例年受けてたイベントがほとんど中止になった」
社長はゆっくり話し始めた。
「銀行から金を借りながら、何とか給料は払ってきた。でも、この先いつイベントの仕事が戻ってくるか、正直わからん」
僕は黙って聞いていた。
「このままの人数を抱え続けるのは、もう厳しい。だから、人員を減らさざるを得ない状況なんや」
社長はそこで一度、言葉を切った。
そして、少しだけ言いにくそうに続けた。
「まずは、映像制作部から辞めてもらおうと思ってる」
その言葉を聞いたとき、僕の中で、何かが小さく引っかかった。
映像制作部から。
相変わらず、めちゃくちゃなことを言う人だと思った。
世の中では、対面のイベントが止まり、営業も打ち合わせも、少しずつオンラインへ移っていた。配信、ウェビナー、動画資料。直接会えない相手に、画面越しに何かを伝えるための動画。
むしろ、映像を制作できる人間は、これからもっと必要とされるのではないだろうか。
それなのに、この人は最初に映像制作部を切ると言う。
もちろん、会社の台所事情はある。目の前の売り上げが消えている以上、何かを削らなければならないのかもしれない。
でも、その判断の仕方には、やはりこの人らしさがあった。
先や構造を見るのではなく、自分の好みを基準に、残すものを決める。
自分の王国の中で、自分の感覚だけで駒を動かす。
この会社は、そういう場所だった。
「お前たちなら、他に行くあてもあるやろ?」
社長は言った。
僕はその言葉を聞きながら、しばらく何も言わなかった。
他に行くあて。
そんなものが、はっきりあるわけではなかった。コロナで社会全体が止まりかけている時期に、次の仕事が簡単に見つかる保証なんてどこにもない。結婚したばかりで、生活もまだ落ち着いていない。これから二人で形を作っていこうとしていたところだった。
本来なら、ここで怒るべきだったのかもしれない。
不当解雇だと言えば、居座ることもできたのかもしれない。会社は社長の王国ではない。どれだけ社長がそう思い込んでいたとしても、社員の生活を紙一枚で好きにできる場所ではない。
でも、僕の頭の中には、以前、妻が言ってくれた言葉があった。
「もし一文なしになっても、私がいるから大丈夫」
「だから、会社を辞めたって大丈夫なんだよ」
その言葉が、静かに背中に手を添えた。
強く押されたわけではなかった。
ただ、後ろに誰かがいる。
倒れても、すぐ地面に叩きつけられるわけではない。
そう思えるだけで、人は思っているより遠くへ進めることがある。
僕は社長を見た。
「話はわかりました」
自分の声は、やはり落ち着いていた。
「辞めます」
そう言った瞬間、胸の奥で何かが外れたような気がした。
長いあいだ錆びついていた金具が、ようやく音もなく外れたような感覚だった。
社長はすぐには何も言わなかった。
「そうか」
それ以上、話すことは何もなかった。
僕は会社を出た。
エレベーターで下へ降り、建物の外に出る。春の終わりとも、夏の始まりとも言えない、曖昧な空気だった。
七年いた会社だ。
入社したばかりの頃、僕はこの場所で、もっと大きな映像を作れるようになるのだと思っていた。プロジェクションマッピングを、自分の手で形にできる日が来るのだと、信じていた。
暗い広場に映像が浮かび上がり、通りかかった人たちが足を止める。
映画館に入れない人にも、外の壁に映画を映して見せるような、そういう優しい映像を、自分もいつか作れるのだと思っていた。
結局、それは叶わなかった。
そのことに、まったく心残りがないと言えば嘘になる。
それでも、この場所で僕はいろいろなものを身につけ、いくつかのことを知った。
編集の技術。
撮影の技術と、構成や演出の考え方。
現場での立ち回り。
仕事の進め方。
他者への気遣いが、吉と出ることもあれば、凶と出ることもあるということ。
そして、クソ野郎は、敵ではなく味方の顔で近づいてくることもあるということ。
ずいぶん高い授業料だったと思う。
でも、そこで過ごした時間は、たしかに僕の中に刻まれた。長く使い込んだ道具についた細かな傷のように。
もう、消えることはない。
こうして僕は、七年いた会社を卒業した。
驚くほど、心が軽かった。
不安がないわけではない。これから仕事をどうするのか。どうやって生活していくのか。何も決まっていなかった。
それでも、不安よりも先に、胸の奥がざわついていた。
子どもの頃、台風の日の夜に感じた、あの妙な高揚感に少し似ていた。
外では風が鳴っていて、窓ガラスが震えている。危ないことはわかっている。でも同時に、いつもとは違う世界が目の前に開いているような気がする。
数年前の僕なら、こんなふうには思えなかったと思う。
でも今は違う。
僕には妻がいる。
必ず乗り切る。
彼女のために。
そう決めた。




