第25話 名前のない駅
その言葉は、ニュースの中ではとても整った形をしていた。白い文字で画面に表示され、アナウンサーが落ち着いた声で読み上げる。
程なくして、社長から連絡があった。
「いったん、自宅待機で」
それは、とても短い言葉だった。
仕事をしろ、ではない。
会社に来い、でもない。
家で作業しろ、ですらない。
ただ、家にいてくれ。
そういうことだ。
僕はその文字を、しばらく黙って見つめていた。
自宅待機。
働いているわけではない。休んでいるわけでもない。辞めたわけでもない。ただ、次の指示が来るまで、そこに留まっている。どこにも進まず、どこにも戻らず、ただ中途半端な場所に置かれている。
それは、名前のない駅で降ろされて、次の電車が来るのかどうかも知らされずに、ホームに立たされているような状態だった。
朝になっても、やるべき仕事はなかった。
いつもの時間に目は覚めた。顔を洗い、水を飲み、作業部屋に入ってみても、開くべきプロジェクトはなかった。
HDDは机の上に置かれたままだったが、その黒い箱は今はただ、役目を失った道具のようにそこにあった。
僕はパソコンの画面を見ながら、次に何が来るのか考えた。けれど、何もわからなかった。わからないものを考え続ける時間は、ひどく疲れる。見えない糸の先を持たされて、どこか遠くで誰かがそれを引くのを待っているようだった。
そんな時間を、妻も同じ家の中で過ごしていた。
二人で立てていた予定が、いくつもあった。指輪を見に行く予定。結婚式の予定。旅行の予定。カレンダーの中にあった小さな楽しみが、何者かの手で丁寧に消されていくみたいに、少しずつ白くなっていった。
腹の底に、じわじわと苛立ちが溜まっていった。
でも、その怒りをどこに向ければいいのかわからない。
社長に向けるものでもない。会社に向けるものでもない。国に向けるものでもない。
相手のいない怒りは、行き場を失って、体の内側に沈んでいく。
それでも妻と同じ空間にいることが、僕をかろうじて日常につなぎ止めていた。
僕らは、同じような話を何度もした。いつまでこの状態が続くのか。どこまで我慢すればいいのか。
もちろん、答えは出なかった。けれど、黙っているよりはよかった。不安が形を持ちすぎてしまう前に、言葉で少しずつ削っていたのだと思う。
ニュースでは、外出を控えるよう繰り返し呼びかけていた。
けれど、ランニングやウォーキングのような軽い運動まで、完全に禁じられていたわけではなかった。家の中にずっといると、体よりも先に、頭の中のどこかから崩れていく気がした。
だから、気分転換に二人で走ることもあった。
人気の少ない道を選び、少し距離を取りながら、息が上がりすぎないくらいの速さで走る。街は静かだった。店のシャッターは閉まり、歩いている人も少なく、信号だけがいつも通りの間隔で色を変えていた。
「運動不足になったら、余計に不健康なのに」
隣から、息の弾んだ声がした。
「不健康そうな奴らの言うことを全部聞いてたら、逆に体を壊すかもね。我々は全力で健康を目指そう」
僕は走りながら言った。
妻は少しだけ笑った。
その笑い方は、明るいというより、暗い部屋の中で小さな灯りをつけるみたいなものだ。大きく何かを照らすわけではない。でも、その灯りがあるだけで、完全な暗闇ではなくなる。
一日が過ぎ、また一日が過ぎた。
相変わらず、テレビやネットでは、見えないウイルスをめぐるニュースが続いていた。感染者数、休業要請、イベントの中止、補償、医療現場。
社会全体が揺れていた。
けれど、揺れているものが大きすぎると、自分の足元がどれくらい傾いているのか、かえってわからなくなる。
この先、会社はどうするのか。
そして、僕らはどうなるのだろうか。
そのことを考えない日は、一日もなかった。




