第24話 仕事の音が消えていく
その頃、テレビやネットのニュースでは、新型コロナウイルスという言葉が繰り返されるようになっていた。
最初のうちは、それはまだ、僕にとって遠くの国で起きている出来事でしかなかった。画面の向こう側にある、別の種類の現実。空港の映像、白い防護服、専門家の険しい顔。そういうものを眺めながらも、自分たちの日常とは薄いガラス一枚で隔てられているように感じていた。
けれど、そのガラスは少しずつ曇り始めていた。
イベントの中止や延期が相次いだ。店先からマスクや消毒液が消えた。電車の中で誰かが咳をすると、まわりの空気がわずかに硬くなった。
これまで当たり前だと思っていたものの表面に、細いひびが入り始めている気配があった。古い茶碗に、ある日ふと見つかる小さな亀裂みたいに。そこに水を注げば、いつか必ず染み出してくる。そういう種類のひびだった。
翌日、僕はいつものように会社へ向かった。
四階に上がると、ノガミさんの席はもぬけの殻になっていた。
パソコンも、モニターも、HDDも、机の上にあった細々とした私物も、きれいに消えていた。人がいないというより、その人がそこにいた痕跡だけを、誰かが急いで拭き取ったように見えた。
逃げたか。
そう思った。
驚きはなかった。むしろ、何かがきちんと予定された場所に収まったような気さえした。
そのとき、エレベーターの動く音がした。
低い機械音が、この場所へ向かって少しずつ近づいてくる。
扉が開くと、そこに社長が立っていた。
「ちょっと話がある」
そう言われて、僕は社長と二人で話すことになった。
社長は椅子に座ると、少し間を置いてから口を開いた。
「お前、昨日、モリにこっ酷くやったらしいな」
僕は黙っていた。
「暴力振るわれたとか、土下座を強要されたとか、あいつ、必死で訴えてきたぞ」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
暴力。
土下座の強要。
その二つの言葉だけが、やけに立派な看板みたいに目の前に置かれた。
やっぱり彼は彼だった。
昨日は自分の過ちを認め、必死で許しを乞うていた人間が、次の日には被害者の顔をして訴えている。
コントみたいだと思った。普段は手際の悪い彼が、人を陥れようとするときだけ異様に動きが早い。その落差がおかしくて、思わず笑ってしまった。
普段はいじられてばかりの二流の芸人が、ある瞬間だけ妙な底力を見せて、客席を爆笑させることがある。あの感じを思い出した。拍手したい気分にさえなっていた。
「笑いごとちゃうぞ」
社長は言った。
「それ、パワハラやからな」
また吹き出しそうになったので、無理やり笑いを押し殺した。
「まあ、その件もあるけどな」
社長の声が少し低くなる。
「どっちにしても、これからしばらく出社は難しくなるかもしれん」
顔を上げると、社長はノガミさんの席に目をやっていた。
「ノガミも来てへんやろ?」
僕は黙っていた。
ノガミさんの件もか、と思ったが、席を眺めていた社長が、少し眉をひそめた。
「あれ? パソコンもなくなってるな。いや、何もかもなくなってる」
どうやら社長も、今そこで気づいたらしい。
僕はまた吹き出しそうになった。
けれど、次の言葉で、そんな気分は一気に消えた。
「コロナや」
社長は言った。
その一言で、部屋の温度が少し下がったように感じた。
目の前の話が、急に別の重さを持った。
「これから本格的に流行り始めるかもしれん。イベントもどんどん止まってるし、緊急事態宣言が出る可能性もある」
社長は続けた。
「そうなったら、うちもかなりまずい」
いつもなら、社長はこういうときでもどこか自分を大きく見せようとしていた。大丈夫や。何とかなるやろ。そういう調子のいい言葉を、煙草の煙みたいに吐く人。
でもそのときの声には、いつもの虚勢が少し残っているだけで、その奥にははっきりとした焦りがあった。
「会社にコロナを持ち込まれても困るし、できるだけ家で作業してもらうことになると思う」
僕は黙って聞いていた。
会社の中で起きたことが、まだ自分の中で処理しきれていなかった。モリくん、ノガミさん。そして、コロナ。
それぞれ別の場所にあったはずのものが、同じ机の上に乱暴に置かれていく。悪意と保身と疫病。そんなものが一度に押し寄せてくると、人間の感情はうまく順番をつけられなくなる。
怒ればいいのか。
笑えばいいのか。
警戒すればいいのか。
それとも、ただ黙って立っていればいいのか。
自分でもよくわからなかった。
「今やってる案件は、家でできるか?」
「HDDを持ち帰れば、できると思います」
僕は答えた。
実際、新居には作業部屋がある。映像編集に耐えられるだけのスペックを持ったパソコンもある。モニターも、キーボードも、必要なソフトも揃っていた。会社の椅子に座っていなければ進まない仕事ではなかった。必要なのは、素材とプロジェクトファイルと、それを入れたHDDだけだった。
そのことに、僕は少しだけ救われた気がした。
この会社から、物理的に離れられる。
その事実だけが、ひどく静かに、僕の中へ降りてきた。
家に帰ると、僕は作業部屋の机の上にHDDを置いた。
机の上に置かれたその黒い箱は、会社にあったときは何でもない仕事道具のひとつに過ぎなかったのに、この部屋の机に置かれると、どこかよそから運び込まれた小さな動物のように見えた。黙っていて、無表情で、それでいて中に何かを抱え込んでいる。
部屋はまだ生活の匂いが薄い。
僕と妻が暮らし始めたばかりの場所。カーテンも、机も、本棚も、まだそれぞれが自分の居場所を探しているようだ。そこに、会社の備品の一部が置かれている。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
パソコンを起動し、HDDをつなぎ、プロジェクトを開く。
画面の中には、作業途中のAfter Effectsの編集画面がそのまま残っていた。タイムラインがあり、レイヤーが並び、エフェクトの項目が開かれている。位置、スケール、角度、不透明度。ひとつひとつの数値を少しずつ変えながら、見え方を整えていく。やっていることは会社にいたときと何も変わらなかった。
マウスを動かす手つきも、キーボードを叩く指の感覚も、いつもと同じだ。
けれど、耳の奥が静かだった。
そこには会社の音がなかった。
あるのは、自分の部屋の音だけだ。
パソコンのファンが低く回る音。窓の外を車が通り過ぎる音。リビングの方で妻が何かをしている音。そういうものが、静かにゆっくりと混ざっていた。
僕は黙って作業を進めた。
在宅での作業は、思っていたよりも問題なく進んだ。
もちろん、確認や連絡は必要だった。会社と完全に切れたわけではない。メールを返し、必要なことを聞き、指示を受ける。見えない糸はまだ残っていた。けれど、作業そのものはできた。むしろ会社にいない分だけ、余計なものがずいぶん減った。
誰かの顔色を見なくていい。
不意に飛んでくる社長の声に身構えなくていい。
自分の言葉が誰の耳に入り、どんな形に変えられて、どこへ運ばれていくのかを、いちいち考えなくていい。
余計なことは何も考えなくていい。それだけで、仕事はずいぶん滑らかに進んだ。
僕は受けていた仕事を、ひとつずつ片づけていった。
編集を仕上げ、確認し、納品する。画面の中の作業はいつも通りだった。けれど、その外側にある世界は、少しずつ動きを止めていった。
イベントの中止はますます増えていた。
誰かがどこかに集まること。会場を押さえること。人が移動すること。照明を立て、音響を組み、カメラを回し、終わったあとに映像として形にすること。これまで当たり前に回っていたものが、ひとつずつ止まっていった。
受けていた仕事をすべて納品すると、次の仕事は入ってこなかった。
すぐにまた何か来るだろう。
そう思おうとした。
思おうとした、という時点で、たぶん半分はわかっていたのだと思う。来るものなら、もう来ているはずだ。
けれど、待っても新しい案件は来なかった。
メールを開いても、そこにあるのは最後に届いた必要最低限の連絡だけ。タイムラインを眺める時間より、何も届いていない受信箱を確認する時間の方が増えていった。
仕事が減るというのは、音が消えていくことに少し似ている。
最初は、ひとつの楽器が止まる。
それから、別の楽器も止まる。
気づくと、さっきまで鳴っていたはずの曲そのものが、どこかへ行ってしまっている。
僕の周りでも、そんなふうに仕事の音が消えていった。
そして、それまで細いひびにすぎなかったものが、とうとう誰の目にも明らかな形まで広がった。
日本に、緊急事態宣言が発令された。




