第23話 引き金
その名前を聞いた瞬間、怒りより先に、奇妙な静けさがやってきた。嵐の前の静けさではない。むしろ、嵐が全部過ぎ去ったあとに残る、妙に白けた静けさだった。
ノガミさん。
社長のことをよくわかっているような顔をしていた人。
僕の立場を理解しているような顔をしていた人。
あの会社の歪さを、同じ側から見ているような顔をしていた人。
その人が、僕のことを話していた。
「すみません。本当に、すみません」
その言葉を聞きながら、僕はもう、彼を見ていなかった。
「今日はもういい」
僕がそう言うと、モリくんは小さく頭を下げた。
「すみません……」
そして、逃げるようにエレベーターへ乗り込み、そのまま下へ降りていった。
僕は携帯を取り出し、その場でノガミさんに電話をかけた。
数回、呼び出し音が鳴った。
「もしもし?」
いつもの声だった。柔らかく、人当たりがよく、こちらの警戒心をほどくような声。その声を聞いた瞬間、胸の奥に冷たい金属のようなものが落ちた。
「今、どこにいますか」
「え? 今?」
「はい」
「いつもの店にいるけど。どうしたの?」
いつもの店。
何度も連れて行ってもらったことのある店だ。ノガミさんの顔馴染みのマスターがやっている、カレーが美味しい、こぢんまりした店。
「今から行きます」
「え、何? なんかあった?」
「行ってから話します」
僕は電話を切った。
店に入ると、ノガミさんはカウンターで一人で飲んでいた。グラスを前に置き、少し肩を丸めて座っている。店内に客は他にいなかった。黄色い照明がカウンターを照らし、カレーの匂いが、何も知らないみたいに普通に漂っていた。
僕が入ると、マスターが軽く会釈をした。
ノガミさんは僕を見ると、少し驚いた顔をした。
「おつかれ、ジョウくん。今まで仕事してたの? 何かあった?」
その声はいつも通りだった。
「少し話せますか」
「うん。いいけど」
ノガミさんは隣の席を指した。
「何か飲む?」
「いりません」
僕がそう言うと、ノガミさんの表情がほんの少しだけ変わった。
ほんのわずかな変化だ。けれど、僕にはわかった。何かを察し、それをこちらに悟られまいとしている顔だ。
「社長から聞きました」
グラスへ伸びたノガミさんの手が、途中でほんの少し止まった。
「何を?」
その返しは自然に聞こえた。
「僕のことです」
「ジョウくんのこと?」
「カトウさんと付き合ってること、社長に話しましたね?」
ノガミさんはグラスを持ったまま、何も言わなかった。
「なんで、社長がそれを知ってるんですか」
ノガミさんは、少しだけ目を伏せた。
僕は彼の顔を見ていた。
この人のこういう沈黙を、これまで何度か見たことがあった。難しい注文をどうすれば形にできるのか、じっくり考えているとき。あるいは、口にする言葉を選んでいるとき。彼はこうして黙り込んだ。
でも今は違う。
どうすれば自分に責任が及ばずに済むのか。それだけを考えているようにしか見えなかった。
「俺じゃないよ」
やがて、ノガミさんは言った。
「俺は言ってないよ。社長には言ってない」
「じゃあ何で社長が知ってるんですか」
「それは……」
ノガミさんは、一瞬だけこちらを見た。そして、すぐに視線を外した。
「モリだよ」
僕は黙っていた。
「モリがペラペラ喋ってたよ。俺の目の前で。あいつ口軽いでしょ? 社長に聞かれたら、言ったんだよ。あいつ、弱いから」
それを聞いたとき、僕はようやく、目の前にいる人間の形がはっきり見えた気がした。
あいつは弱いから、という逃げ道。
その言葉に重なるように、床に手をついて謝っていたモリくんの姿が浮かんだ。
弱い人間を、自分の盾にしている。
「ノガミさん」
「俺じゃない。全部あいつがやってる。信じてよ、ジョウくん」
その言葉で、僕の中に残っていた最後の歯止めが外れた。
「お前、ふざけんなよ」
僕が詰め寄ると、ノガミさんは席を立ち、そのまま後ずさる。
「じゃあ、モリくんが俺の実家の話まで知ってたのはなんでだ」
ノガミさんの顔から、血の気が引いていく。
それまで口の中で何かを転がすように言い訳を探していた彼の動きが、その瞬間、完全に止まり、目だけが右へ、左へと小さく動く。どこかに逃げ道がないか探しているみたいだった。
「いや、それは……」
「それもモリくんが勝手に知ったのか」
「……」
僕が一歩近づくと、彼はびくっと肩を揺らした。
そして、反射的に両手を少し上げた。殴られると思ったのだろう。自分が何を言ったのかではなく、自分がこれから何をされるのかだけを考えている顔だった。
その顔を見た瞬間、頭のてっぺんまで上っていた僕の中の熱が、すっと冷めた。
結局、この人はそこなのだ。
人の内側に土足で入り込んで、引き出しを開け、中身を外にばらまいておきながら、自分が責められた瞬間には、自分の身だけを守ろうとする。
僕は彼を見た。
「人の家族のこととか、経済的なこととか、過去のこととか、そういう場所に触れるって、暇つぶしでやっていいことじゃないですよ」
ノガミさんは黙っていた。
「この国では、人権が保障されてますよね。たとえ相手が嘘つきでも、犯罪者でも、クソ野郎でも、人として扱われる。そういう前提で、社会はできてる」
自分でも、少し大きな話をしていると思った。
でも、そのときの僕には、そこまで話を戻さないと、この気持ち悪さの正体に触れられない気がした。
「だから、人が口にした言葉は、軽口でも、冗談でも、酒の席の話でも、ただの音では済まないんです。一人の人間が言った言葉として、意味を持つ。人に届く。届いた先で形を変えて、誰かを傷つけることがある」
ノガミさんは何も言わなかった。
「俺の話をしたんですよね。俺の家族のこと、彼女のこと。人のセンシティブなところに触って、おもちゃにした」
僕は一度、息を吸った。
「だったら、自分のやったことに責任持ってください」
店の中は静かだった。
カレーの匂いだけが、場違いなくらい漂っていた。
「それは、平和な社会の中で引き金を引いたのと同じです」
ノガミさんの目が揺れた。
「引き金を引いた時点で、もう戦争は始まってるんです。あとから『俺じゃない』『モリが言った』って逃げても、あなたはもうその中にいるんですよ」
僕は彼の目を凝視した。自分でも異常だと思うほど、瞬きひとつせずに。
「あなたがやったのは、そういうことです」
ノガミさんは、口をあわあわと動かし、何かを言おうとした。
「ジョウくん、俺は……」
「もういいです」
僕は遮った。
「もう関わらないでください」
彼は顔を歪め、それから、メソメソと泣き出した。
「待って、違うんだって。俺は本当に……信じてよ、ジョウくん」
「また俺の大事な人を傷つけたら、今度はただじゃ済ませない」
ノガミさんは、そこで完全に黙り込んだ。
僕は店を出た。
外の空気は冷たい。
背後で店の扉が閉まり、黄色い灯りが夜の底に小さく滲む。振り返る気にはなれなかった。
しばらく歩いたところで、胃の奥がぐらりと揺れた。
最初は、ただ気分が悪いだけだと思った。けれど、それはすぐに違うとわかった。
もっと深いところから、何かがせり上がってくる。胃液ではない。怒りでも、嫌悪でも、失望でもない。けれど、そのどれにも少しずつ似ていた。それらが長い時間をかけて混ざり合い、名前を失ったまま、喉の奥へ向かって戻ってきた。
僕は道端に身を折り、そのまま吐いた。
体が、今日見たものを、どうしても内側に留めておけなかったのだと思う。
床に手をつき、怯えた顔で謝るモリくん。
メソメソと泣きながら、それでも自分の身だけを守ろうとするノガミさん。
僕らを純粋に祝福する社長。
そして、僕の隣で小さく頷く彼女。
あまりにも違う人間の顔が、たった一日の中に並んでいた。
そのすべてが、胃の奥でひとつの塊になっていた。
吐いても、少しも楽にはならなかった。むしろ、体の中に残っているものの方が、ずっと重いような気がした。
僕はしばらく、動けなかった。
アスファルトの上に落ちた吐瀉物は、僕の中に残っていた甘さの残骸みたいに、夜の道路の上でみっともなく形を持っていた。
人は、たいていの場合、まともである。
僕はどこかで、そう信じていた。
そう信じていなければ、やっていけないところがあったのだと思う。人を疑いながら生きることは、ナイフの刃をずっと握りしめて歩くようなものだ。手のひらは傷つくし、誰かに触れることもできなくなる。
その夜、その考えはひどく頼りないものに見えた。
それでも、人を信じることを完全にやめようとは思わなかった。
いや、やめられなかった、という方が近い。
なぜなら、僕の隣には妻がいるからだ。
彼女は、僕が信じていたものを裏切らなかった。むしろ、僕が一人では抱えきれなくなったものを、何度も分けて持とうとしてくれた。僕の中の何かが崩れそうになるたびに、彼女はそこに手を添えた。強い言葉ではなく、もっと静かなやり方で。
だから僕は、世界そのものを丸ごと捨てることができなかった。
信じるものと、二度と近づけてはいけないもの。
守るべきものと、切り離すべきもの。
その二つを、これからは見誤らないようにしなければならない。
たぶんそれが、大人になるということの一部なのだ。
美しいものを信じることだけではなく、美しくないものを見たあとで、それでも何を残すかを選ぶこと。
僕は口の中に残った苦い味を、何度か唾と一緒に吐き出した。
それから、ゆっくり顔を上げた。
夜の道は、何事もなかったみたいに続いていた。
ただ僕だけが、少し違う場所に立っていた。




