第22話 鍵のかかった引き出し
その日の業務が終わってから、僕はモリくんを呼び出した。
交際のことを話した相手は限られている。モリくんと、ノガミさん。その二人だけだ。どちらにも、誰にも言わないでほしいと頼んでいる。言葉にして、念も押した。
それなのに、社長は知っていた。
しかも、みんな知ってると言った。
だったら、まずは確かめるしかない。
モリくんは、いつもの調子で四階に上がってきた。
「お疲れ様です。話って何ですか?」
その顔を見た瞬間、僕の中で何かが切れた。
気づいたときには、彼の胸ぐらを掴んでいた。
「お前、言ったな」
モリくんの顔から、すっと血の気が引いた。まるで部屋の明かりが一段暗くなり、彼の顔だけが白く浮いているようだった。
「ひっ……」
「俺たちが付き合ってること、社長に言っただろ」
モリくんは口を開けたまま、動かない。言葉を探しているというより、どこかに逃げ道がないか探しているように見える。
「言ったのか、言ってないのか。どっちだよ」
「ご、ごめんなさい……」
その一言で、答えは出た。
否定はない。
ただ、謝るだけだ。
僕はさらに手に力を入れた。彼の服の布地が、指の中でぐしゃりと歪む。安い布の感触だけが、やけにはっきりと手のひらに伝わってきた。
「ごめんなさいじゃねえんだよ」
「すみません、本当に、そんなつもりじゃ……」
「そんなつもりじゃない?」
自分の声なのに、自分のものではないみたいに低く響いた。
「じゃあ、どういうつもりだったんだよ」
「違います、違います。本当にすみません」
「何が違うんだよ」
モリくんは何度も首を振る。そうすれば、何かが取り消されるとでも思っているように見えた。
「俺は言ったよな。誰にも言うなって」
「はい……」
「俺だけのことじゃないから、絶対に言うなって言ったよな」
「はい……」
「なのに言ったんだろ」
「……はい」
「何でだよ」
モリくんはすぐには答えない。
その沈黙が、余計に腹立たしかった。謝ることはできる。でも理由は言えない。自分が何をしたのかも、たぶん本当の意味ではわかっていない。ただ、この場をなんとかやり過ごそうとしている。そんなふうに見えた。
「お前が軽く話したことで、彼女が何をされたかわかってんのか」
モリくんは小さく肩をすぼめる。
「社長に、俺の悪口をずっと聞かされてたんだよ。意味のわからない嫌がらせみたいなこともされて、体まで壊して、薬を飲んでも飲んでも治らなくなって」
「すみません……」
「すみませんで済む話じゃねえだろ」
モリくんは、今にも泣き出しそうな顔をしている。
昔なら、その顔を見て、少しは気持ちが揺れたかもしれない。モリくんは社長にいじられ、軽く扱われ、いつもどこか頼りなさそうにしていた。
僕にとって、そんな彼はどこか放っておけない後輩だった。飲みに連れて行ったり、話を聞いたりしたのも、たぶんそのせいだ。雨の日の軒下で、行き場をなくした小動物を見つけたような気分だったのかもしれない。
でも、弱いことと、人の大事なものを踏みにじっていいことは、別の話だ。
「ヘラヘラ近づいてきて、こっちが少しでも信用したら、すぐ社長に流すのか」
「違います、そんなつもりじゃ……」
「またそれかよ」
僕は彼から手を離した。
モリくんの身体が、少しだけ後ろへ揺れる。支えを失った人形みたいだった。胸元の布だけが、僕の指の形に歪んで残っている。
「じゃあ何なんだよ。そんなつもりじゃないなら、何なんだよ」
モリくんは口を開いたまま、何も言えない。言葉を探しているというより、言葉というものが、この世から消えてしまったみたいな顔をしている。
四階は静かだった。
さっきまで結婚報告をしていた場所なのに、まるで違っている。テーブルも、椅子も、白い壁も、何ひとつ変わっていない。けれど、そこに満ちていた祝福の気配だけが、もうどこにもなかった。
「すみません。本当に、すみません」
壊れた機械のように、同じ言葉だけが繰り返される。けれど、いくら繰り返しても、そこから何かが戻ってくるわけではなかった。
「なんで言った」
僕はもう一度聞いた。
モリくんの唇が震える。
「社長に……毎日、聞かれて」
「毎日?」
「はい。しつこく聞かれて……最初は言わないようにしてたんです。でも、隠し通せなくなって」
「それで言ったのか」
モリくんは小さく頷いた。
それから、崩れるように膝をつき、床に手をついて頭を下げた。
「ごめんなさい。本当に、すみません」
「やめろ。立て」
怒りは少しも収まらない。むしろ、彼が言葉を重ねるたびに、別の場所から新しい怒りが湧いてくる。
「でも……」
モリくんは、そこで言葉を止めた。
「でも、何だよ」
「言い訳になるかもしれませんけど、僕のせいじゃないかもしれないんです……」
その言葉が、胸の奥に小さな違和感を残した。
「は?」
モリくんは口を開きかけて、また閉じる。何かを言いたいのに、言えない。その先を口にすれば、もっと大きなものを壊してしまう。そんなことがわかっているような顔だった。
その顔が、僕をさらに苛立たせた。
「そうやって、俺の秘密はペラペラ喋るくせに」
僕は吐き捨てるように言った。
「俺には、まだ何か隠すんだな」
「違います、そういうわけじゃ……」
「社長にこっ酷くやられてるお前を心配して、飲みに連れて行ったり、話を聞いたりした俺が、本当に愚かだったよ」
モリくんの顔が歪んだ。
情けない顔だった。
それでも、彼は小さく息を吸った。
さっきまで逃げ場を探していた目が、そこで初めて、まっすぐこちらを向く。その奥には、何かを決めたような硬さがあった。
「ジョウさんは、叔父さんが亡くなって、その遺産で、おばあちゃんに専門学校の費用を出してもらったんですよね?」
僕は動けなかった。
まったく別の場所から、いきなり刃物を差し込まれたみたいだった。
「貧しくて、ギスギスしていた家庭だったけど、一緒に暮らしていたおばあちゃんが多くの遺産を相続したことで、家の中の空気が少しだけ変わったんですよね?」
何を言われているのか、すぐには理解できない。
その話を、モリくんにした記憶はなかった。僕の中でも、むやみに人に見せない場所へしまってある話だ。鍵のかかった引き出しの、さらに奥に。
「なんで、お前がそれを知ってる」
声がかすれた。
モリくんは、ひどく怯えた顔のまま言った。
「なんで僕が、こういう話を知ってると思いますか?」
胸の奥で、何かが静かに軋む
「僕は、二人が付き合ってることを社長に話してしまいました。でも、その前から社長は、そのことを知っていたんです。確認するために、僕に聞いてきたんです」
一度流れ出したモリくんの言葉は、もう止まらなかった。
「それに、社長だけじゃありません。みんな知ってます。社内だけじゃなくて、ジョウさんに関わりのある人たちも。技術さんも、クライアントも」
背筋が冷たくなった。
ただ寒いのではない。身体の内側から、少しずつ温度を抜かれていくような冷たさだった。
モリくんの話していることは、おそらく本当だ。
嘘をついている人間の顔ではない。むしろ、もう隠し続けることに耐えられなくなった人間の顔だった。
「ジョウさんのことを、何でもかんでも言いふらしてる人がいます」
モリくんは言った。
僕は何も言えなかった。
彼の口から次に出る名前を、もうどこかで知っていたのかもしれない。
知りたくなかっただけで。
「その人は……」
モリくんは、そこで一度だけ目を伏せた。
そして、その名前を口にした。
ノガミさんだった。




