第21話 みんな知っている
二月二十二日。
僕らは籍を入れた。
教会で交わした約束が、二か月ほどの時間を経て、ようやく現実の側へ渡ってきた。彼女は僕の妻になり、僕は彼女の夫になった。
何かが劇的に変わったわけではない。昨日までの僕らと、今日からの僕らは、見た目にはほとんど同じだ。それでも、胸の奥には、これまでとは少し違う重みがあった。二人で生きていくという言葉が、もう引き返すことのできない形を持って、静かにそこへ置かれている。
幸福というものは、思っているよりも持ち運びが難しい。
二人のあいだではあれほど確かな形をしていたものが、会社へ持っていこうとした瞬間、急に壊れやすいガラス細工のように思えた。薄くて、透明で、ほんの少し指先に力を入れただけで、音もなく割れてしまいそうなもの。
休み明けの出勤日、僕らは結婚したことを社長に報告することにした。
僕らはいつものように仕事をしながら、そのタイミングを待った。編集画面を見つめ、マウスを動かし、キーボードを叩く。そのどれをしていても、意識のどこかはずっと別の場所にあった。時計を見るたび、胸の奥が少しずつ硬くなっていった。
誰もいない時間を見計らって、僕と彼女は四階のミーティングスペースで落ち合った。そして、そこに社長を呼んだ。
エレベーターが四階で止まり、扉が開く音がした。
社長が現れた。
「お疲れ様です。すみません、どうしてもお話ししておきたいことがあって」
「あぁ、いいよ」
社長はいつもと少し違って見えた。表情が硬いというわけではない。ただ、こちらが何か大事な話をしようとしていることを、薄々察しているようだった。何を言われても大きく崩れないように、あらかじめ心を落ち着かせている。そんなふうに見えた。
僕らは、社長と向かい合うように座った。
テーブルの上には何も置かれていなかった。ただ、これから僕が口にする言葉だけが、先にそこへ置かれているような気がした。透明な、けれど妙に重たいものとして。
「実は、ご報告があります」
僕はそう言った。
「うん」
社長は短く返した。
驚くでもなく、急かすでもなく、ただ次の言葉を待っていた。
僕は一度、隣にいる彼女を見た。
彼女は小さく頷いた。
「僕たち、二月二十二日に結婚しました」
一瞬、間が空いた。
僕はその短い沈黙の中で、いくつかの反応を想像した。茶化されるかもしれない。嫌な顔をされるかもしれない。なぜ黙っていたのかと責められるかもしれない。これまでのことを考えれば、どれも十分にあり得るように思えた。
でも、社長の反応は、そのどれとも違っていた。
「おお!」
社長は、ぱっと顔を明るくした。
「おめでとう! とうとうか!」
その声は、思っていたよりもずっと晴れやかだった。四階の静かなミーティングスペースの中で、その声だけが少し浮いて聞こえた。でも、それは嫌な浮き方ではなかった。少なくともその瞬間だけは、社長は本当に嬉しそうに見えた。
「いやあ、よかったなあ。もしかしたら別れてまうんちゃうかって、ちょっとヒヤヒヤしながら見てたんやけど」
僕は曖昧に笑った。
見ていた、という言葉が、ほんの少しだけ耳に引っかかった。
けれど、その場ではまだ、それを拾わなかった。拾ってしまえば、かろうじて保たれている祝福の空気に、ひびが入る気がしたからだ。
「創業してから、社内の人同士で結婚するのは初めてやで」
社長はそう言った。
「ほんまにおめでとう」
その言葉は、きちんと祝福の形をしていた。
そのあと、少しだけ他愛のない話をした。式のことや、これからのことや、その場にふさわしいと思われる、いくつかの当たり障りのない話だった。
すると社長は、ふと思い出したように言った。
「あ、ちょっと待っててな」
そう言って席を立つと、社長はその場を離れた。僕と彼女は、何があるのかわからないまま、四階のミーティングスペースに残された。
少しして、社長は戻ってきた。手には、白い封筒を持っていた。
「これ、ほんまにおめでとう」
そう言って差し出されたのは、結婚祝いの十万円だった。
僕はそれを受け取りながら、少しだけ混乱していた。
目の前にいる人は、これまで何度も僕のことを悪く言い、彼女を苦しめ、僕らのあいだに泥を塗ってきた人間のはずだった。なのに今は、まるで親しい人間の幸せを心から喜んでいるみたいに笑っている。
人は、ひとつの顔だけでできているわけではない。
そんな当たり前のことを、僕はそこで少し思い出した。
この人は、もしかすると本当は、もっと普通に関わりたかったのかもしれない。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
もし最初から、僕らが付き合っていることをきちんと伝えていたら。もし隠さず、相談し、心を開くような形を取っていたら。彼女が僕の悪口を聞かされることも、あれほど傷つくことも、少しは避けられたのかもしれない。
でも、その考えはすぐに引っ込んだ。
それはあまりにも綺麗すぎる。現実はそんなふうに、あとから都合よく並べ替えられるものではない。割れた皿を、割れる前の食卓の美しさで説明することはできない。
祝福の言葉を聞きながらも、僕の中にはひとつだけ、どうしても引っかかっているものがあった。
僕らのことを、なぜ知っていたのか。
やはり、聞くなら今しかないと思った。
ひととおり落ち着いたところで、僕はゆっくり口を開いた。
「付き合っていることを、内緒にしていてすみませんでした」
社長は、こちらを見た。
「もしかしたら、うまくいかなくなる可能性もあると思っていたので、言い出しにくくて」
それは、半分は本当で、半分は前置きにすぎない。
僕が本当に聞きたいのは、その先にある。
「ところで、社長」
「ん?」
「カトウさんから、色々聞きました」
社長の顔から、ほんの少しだけ表情が抜けた気がした。
「何で、僕たちが付き合ってることを知ってたんですか?」
四階は静かだった。
さっきまでの祝福の声が、急に遠くへ行ってしまったみたいに。テーブルも、椅子も、窓の外の景色も、何も変わっていない。なのに、そこに置かれている言葉だけが、さっきとは違う重さを持っている。
社長はすぐには答えなかった。
言いにくそうにしているようにも見えたし、何をどこまで言うべきか考えているようにも見えた。
僕は続けた。
「もしかして、モリくんから聞きました?」
社長は少し不思議そうな顔をした。
「モリから?」
その返し方で、僕の中に嫌なものがひとつ落ちた。
モリくんから聞いたのなら、そうだと答えればいい。少なくとも、その反応ではない。社長の顔には、僕が思っていた道筋とは違う場所を見ているような気配がある。
「モリからっていうか……」
社長はそこで一度、言葉を切った。
それから、少しだけ困ったように笑った。
「みんな知ってるで」
僕はすぐには何も言えなかった。
みんな知っている。
その言葉だけが、何の説明もないまま、僕らのあいだに残った。
誰が知っているのか。いつから知っていたのか。どうやって知ったのか。問いはいくつも浮かんだ。けれど、その答えを探すより先に、体の奥がすっと冷えた。
自分たちだけの小さな部屋だと思っていた場所の壁には、知らないうちに無数の穴が空けられていて、そこから誰かが覗き込み、笑い、勝手に名前をつけ、勝手に物語にしている。
幸福は、やはり持ち運びが難しい。
とくに、それを運ぶ道に、どこから伸びてきたのかわからない手が、いくつも潜んでいるのならば。




