第20話 十二月二十四日、小さな教会で
十二月二十四日。
その日を選んだのはたぶん、僕なりに、ちゃんとした形を与えたかったからだと思う。あの頃の僕らの毎日は、決して綺麗なものではなかった。問題は何も解決していなかった。
でも、全部が片づいてから何かを決めようとしていたら、たぶん人生の大事なことは、いつまでたっても決められない。濁った水の中では、足元が見えるのを待つのではなく、見えないまま一歩を踏み出さなければならない。人生には、そういうときがある。
僕らはその日、軽井沢に来ていた。
冬の軽井沢の空気は、東京のそれよりずっと硬かった。息を吸うと、肺の奥に薄い氷が入り込んでくるみたいだった。道の端にはところどころ白いものが残っていて、車の窓の外を流れていく景色は、どこか音を失っているように見えた。
旅行のときはいつも、行きたい場所を二人で決め、二人でプランを作った。宿を探し、食事を決め、途中で寄る場所を調べる。そういう小さな相談の積み重ねが、僕らにとっては旅行の一部だった。でもこの日だけは、その全部を僕に任せてほしいと頼んだ。
冬の軽井沢には、スタッドレスタイヤを履いていないと車では行けない場所がある。そんなこともろくに調べずにプランを立てたのは、このあとに控えていた出来事に、僕の頭の大部分が持っていかれていたからだと思う。
夜ご飯は、小さな教会の隣にあるレストランを予約していた。料理はフルコースだ。店の中は暖かく、窓の外の暗さだけが冬らしさを残している。白い皿の上に料理がひとつずつ運ばれてくるたび、彼女は少し驚いた顔をした。ナイフとフォークの小さな音や、低く抑えられた話し声が、照明のやわらかい光の中に溶けていく。
いつもよりだいぶ豪勢な食事に、彼女は料金を心配した。
「大丈夫なの?」
「まあ、今日はクリスマスイブだから」
僕はそんなふうに言って誤魔化した。
隣の席では、年配の女性たちが楽しそうに話していた。
「この日は毎年ここに集まって食事してるけど、これから先、いくつになっても、何があっても続けましょうね」
なるほど、と僕は思った。それも悪くない。この先、無数の試練が訪れるだろう。僕らはそれを、二人でどうにか乗り越えていく。そして十二月二十四日になれば、今日のこの日を祝う。人生が大きく変わる、この夜のことを。
「全部おいしかったけど、米粉のパンがあったのは嬉しかった。小麦粉はなるべく取らないようにしてるから」
彼女はそう言った。顔中にニキビができてから、彼女は食べるものにかなり気を使うようになっていた。僕はそれを把握していたので、注文のときにも、何がだめで、代わりに何へ変えてほしいのか、できる範囲でお願いしていた。彼女に、少しでも気持ちよく過ごしてほしかった。
食事が済むと、僕は言った。
「ちょっとトイレに行ってくる」
そう言って、席を立った。会場の外には、スタッフさんが待っていた。
「これから始めます」
「わかりました。準備はもうできています」
短くやり取りをして、僕は急いで隣の小さな教会へ向かった。外へ出た途端、空気がさっきよりもさらに冷たく感じる。レストランの暖かさが、背中から剥がれ落ちていくみたいだった。ほんの短い距離なのに、足元だけが少し浮いているような感じがした。
教会の前には、小さなキャンドルが灯っている。火は道しるべのように並び、その場所へ静かに人を導いていた。まだ明るい時間に見たときとは、まるで違う場所に見える。これから大切なことが行われるのだと、その小さな火が、声を出さずに知らせているようだった。僕はそれを見て、少しだけ心強くなった。
教会の中には、外の冷たさとは別の種類の静けさが満ちている。天井は思っていたより高い。祭壇の前に立つと、自分の呼吸の音まで少し大きく聞こえる。灯りは強すぎず、壁や床にやわらかく落ちていた。外の世界と切り離された、小さな箱の中にいるみたいだった。
僕は祭壇の前で、花束を抱えて彼女を待った。頭が真っ白になって台詞を忘れないように、小さな声で何度も練習した。心臓は、思っていたよりもずっと強く鳴っている。
こんな厳かな場所で、人生で一度もやったことのないことを、動揺していないように見せながら、できるだけ自然に進めなければならない。そういう妙なプレッシャーがあった。何より、人生を変えることになるかもしれないこの瞬間に、僕はいま正面から立ち向かおうとしている。リングに上がる前というのは、きっとこんな心境なのだろう。
音楽が小さくなり始めた。いよいよだ。扉の向こうで、人の動く気配がした。次の瞬間、扉がゆっくりと開き、彼女が入ってきた。
「映画のシーンみたい」
予想に反して、彼女はケラケラと笑った。その笑い方は、いつもと何も変わらない。
目の前にいるのは、いつも通りの彼女だ。そこには、僕が勝手に「守らなければならない」と思い込んでいた人はいない。彼女は彼女の足で、そこに立っている。その姿を見ていると、胸の奥の小さな火は、もう僕ひとりで守るものではないように思えた。
何を言ったのか、細かいところまでは覚えていない。話すべき言葉はたくさんあった。謝りたいことも、伝えたいことも、これからのことも、全部ある。でも、この場所で本当に伝えたいのは、最後のひと言だけだ。
僕は彼女の前で膝をつき、小さな箱を開けた。
「結婚しよう」
彼女の顔には、笑みが浮かんでいる。この笑顔をずっと見ていたいと思った。その一瞬の中に、これまでのいろんな時間が詰まっているような気がした。旅行先で見た景色も、映画の帰り道に交わした会話も、会社の悪意に痛めつけられて泣いていた顔も、あの夜の「勝手に離れようとしないで」という声も、全部が小さく折りたたまれ、その沈黙の中に置かれている。
そして、彼女が少しだけ口を開く。
「はい、よろしくお願いします」
それだけだった。その返事は、これまで聞いたどの返事とも違っていた。軽くもなければ、重すぎもしない。逃げるでもなく、すがるでもない。自分の足で立ったまま、まっすぐこちらへ手を伸ばしてくるような声だった。
その瞬間、僕らのあいだにあったものが、ようやくひとつの形を持った。




