第19話 ひとりで立たなくていい
何日かして、僕らは改めて会った。彼女は、あの夜よりも落ち着いていた。落ち着いている、というより、何かが彼女の中で静かに決まってしまったように見えた。感情が冷めたのではない。むしろその逆だった。感情はどこか深い場所まで沈んで、底のほうで硬く形を持ったのだ。
「この前の話だけど」
彼女はそう言った。
「うん」
「私は、本当に辞めるつもり」
僕はすぐには返事をしなかった。その言葉が、その場の勢いで出たものではないことくらい、もうわかっている。彼女の声にあるのは、熱っぽさではない。もっと静かな確かさだ。夜明け前の道路みたいに、冷えていて、それでもどこか先へ続いている。
「ジョウも、辞めたほうがいいと思う」
僕はテーブルの上のグラスを見た。氷は少し溶け、底には透明な水が溜まっている。グラスの表面には細かい水滴がついていて、まるでその小さな器だけが先に泣いているように見えた。
「会社を辞めたら、一文なしになるよ」
僕は言った。
「そしたら、デートに連れて行くことも、美味しいものをご馳走することもできなくなる。そんな状態では一緒にいられなくなる」
言いながら、自分でも少し情けないと思った。でもそれは、そのときの僕にとって、かなり切実な現実だった。お金がないというのは、ただ財布の中身が減ることではない。自分が誰かに対して差し出せるものが、手元から消えてしまう。他を探してみても、そこには何もない。そんなふうに感じていた。
「それは問題ない」
彼女は言った。
「私が払えばいいんだから」
僕は顔を上げた。
「いや、それは違うだろ」
「違わないよ」
「そんなのおかしい、君に負担をかけるだけじゃん」
「負担じゃないよ」
「いや、負担だよ。俺が働けなくなって、君に払ってもらって、それで平気な顔して一緒にいるなんて、そんなの無理に決まってるだろ」
「でも、ジョウが今の会社にいて壊れていくほうが、私はずっと嫌だよ」
彼女はそう言って、少しだけ息を吸った。
「あなたが一文なしになっても、私がいるんだから何とかなる」
その言い方は、とても普通だった。特別なことを言っている感じはまるでしなかった。明日は雨が降るかもしれないね、とか、冷蔵庫に卵が残っていたよ、とか、そういう当たり前のことをひとつ置くみたいに、彼女はそう言った。だからこそ、僕はうまく返せなかった。
僕の人生には、そういう発想がほとんどなかった。働くのをやめたら、それで終わりだ。体調を崩しても、ひどい目にあっても、我慢して働くしかない。自分が止まれば、そのまま全部が崩れる。自分の足が折れたら、もう誰もそこから運んではくれない。そんなふうに、どこかで決めつけていた。
でも、今は、一人ではなかったのだ。どちらかが崩れても、もう一方が踏みとどまっていれば、生きていける。そんな当たり前のことを、僕はそのとき初めて、身体の中に入れた気がした。頭で理解したのではない。もっと奥のほうに、ゆっくり染みていった。乾いた土に水が吸い込まれていくみたいに。
「だから、会社を辞めたって大丈夫なんだよ」
彼女は言った。
僕は黙っていた。その言葉を、すぐに信じられたわけではなかった。長いあいだ身体に染みついたものは、そう簡単には剥がれない。自分で何とかしなければならない。一人で立っていなければならない。倒れたら終わりだ。そういう古い感覚が、まだ僕の中には残っていた。
でも、それでも。彼女の言葉は、どこか深いところまで届いた。強く押し込まれたわけではない。ただ、そこに静かに置かれたのだ。だから、こちらも乱暴に払いのけることはできない。
僕はそのとき、彼女のことをもっと好きになった。それまでの僕は、どこかで彼女のことを守られるだけのか弱い存在として見ていた。壊れないように支えなければならない人だと。会社の中で傷つき、体を壊し、泣いている姿を見て、そう決めつけていた。
でも、違った。僕が勝手にそう見ていただけだった。彼女は彼女の足で立っていた。そのうえで、僕の手を取ろうとしている。そのことが、少し遅れて胸に入ってきた。
「……わかった」
僕はようやく言った。
それは、すべてを理解したという意味ではない。不安がなくなったわけでもない。クソ野郎がどこにでもいるという考えが、急に消えてなくなったわけでもない。会社を辞めたあとに何が待っているのかも、まるでわからなかった。だけど、少なくとも彼女の言葉をもう夢物語だとは思えなくなった。
人生は、一人で耐えるものだと思っていた。でも、もしかすると違うのかもしれない。二人で生きるというのは、片方がずっと支えることではないのかもしれない。支える日もあれば、支えられる日もある。その入れ替わりを、恥じずに受け入れることなのかもしれない。
その考えは、僕の中に灯ったばかりの、頼りない火のようなものだ。手のひらで包まなければ、すぐに消えてしまいそうだ。それでも、確かにそこにある。僕はその小さな火を、しばらく黙って見つめていた。
それから、胸の奥に残っていたことを、ようやく口にした。
「この前のこと、ずっと考えてた」
僕がそう言うと、彼女は少しだけ目を上げた。
「別れるとか、ああいうことを勝手に言うのは違ったと思う」
彼女はすぐには答えなかった。
「……うん」
「ただ、自分と一緒にいることで、君がもっと壊れていくかもしれないと思うと恐ろしくてたまらなかった。ずっと心苦しかった。だからもう現実が嫌になった。そんな気持ちだった」
言い訳みたいに聞こえるかもしれない。でも、そのときは、それ以上うまく言えなかった。
彼女は少し息を吐いた。
「そう思うなら、勝手に離れようとしないで」
その声は責めているというより、もう一度、同じ場所に引き戻そうとしている声だった。僕は小さく頷いた。そうして、僕らは少しずつ元の日常に戻っていった。
彼女は次の働き場所を探しながら、しばらくはあの会社に通い続けた。会社は何も変わらなかった。それでも僕らは、また出かけるようになった。映画を観たり、イベントに行ったり、少し遠くまで足を伸ばしたりした。何かを見て、言葉を交わして、二人で過ごす時間を少しずつ取り戻していった。
表面だけ見れば、前とよく似た日常だった。でも、僕の中では何かが大きく変わっていた。この人とは、晴れた日の景色だけでなく、濁った水の中にも一緒に入っていけるのかもしれない。その感覚は、日々の中で、少しずつ確かな重さを持つようになっていった。




