第18話 濁った水の底で
夕飯のあとだった。使い終わった皿が、まだテーブルの上に残っている。流しに運ぶには中途半端な沈黙が部屋に溜まっていて、僕も彼女も、しばらくそこから動けなかった。彼女は何も言わない。僕も口を開かない。下手に何か言えば、薄い膜が破れ、そこから面倒なものがいっせいに流れ出しそうな気がした。
やがて、彼女が口を開いた。
「もう私は、あの会社を辞める」
その声には迷いがなかった。強い言い方ではなかったし、感情をぶつけてくるわけでもない。ただ、柔らかな布の中に、細い針が一本だけすっと通っているみたいに、その言葉には揺るがない芯があった。
僕は黙って彼女を見た。
「二人で辞めよう」と彼女は言った。
「そうすれば、全部よくなるから」
全部よくなる。その言葉は、僕の中で少しだけ宙に浮いた。軽すぎたからではない。むしろ重すぎたのだ。ひとつの選択で世界がきれいに切り替わる。そんなふうに物事が動くとは、僕はもうあまり思えなくなっていた。昔なら、そういう言葉にすがれたかもしれない。でもその頃の僕には、世界はもっと粘り気のあるものに思えた。手を離しても、簡単には剥がれ落ちてくれない種類の何かに。
もちろん、彼女の言いたいことはわかった。会社を辞めれば、少なくとも今のこの地獄からは離れられる。社長の悪意も、彼女を少しずつ壊していったあの環境も、日常の中心からは消える。彼女がそう考えるのは自然だった。むしろ、まっとうだった。
でも僕の中には、別の考えがあった。
クソ野郎は、どこにでもいる。場所を変えれば終わるのか。会社を辞めれば、それで全部片づくのか。
僕には、どうしてもそうは思えなかった。たぶん僕は、子どもの頃からそれを見すぎてきたのだと思う。形を変え、名前を変え、少しだけ見え方を変えながら、でも本質だけはほとんど変えずに、そういう連中はいつも現れる。まるで季節の変わり目に決まってやってくる湿った風みたいに。いなくなったと思っても、また別の場所から入ってくる。だから、彼女の言う「辞めればよくなる」は、僕にはどこか夢みたいに聞こえた。責めたいわけじゃない。ただ、信じきれなかった。
「辞めたって」と僕は言った。
「また別のところで、同じようなやつが出てくるだけだよ」
彼女はすぐには何も言わなかった。僕の言葉を否定するでもなく、受け入れるでもなく、ただいったん自分の前に置いて、静かに眺めているようだった。そして少しだけ目を伏せた。
「そうかもしれない。でも、少なくとも今の場所からは離れられるよ」
「離れたって、また同じなら意味ないだろ」
「意味なくないよ」
静かな言い方だった。でも静かなぶんだけ、かえって強かった。
「全部が一気によくならなくても、今より悪くならないだけで十分なことだってあるよ」
僕は返事をしなかった。彼女が間違っているとは思わなかった。でも、僕の中にはまだ別の声が残っていた。それは、本当に悪いのは誰だ、という声だった。場所を変えても同じ種類の人間にぶつかるたびに、問題は場所じゃなくて、自分のほうにあるんじゃないか。そう考えてしまうことがあった。自分が何かを引き寄せているんじゃないか、と。言葉にすると馬鹿げている。でも追い詰められていると、人は馬鹿げた考えにまで、妙な現実味を感じてしまう。
「私の人生って、ほんと、いい人ばっかりだったんだよね」
彼女はぽつりと言った。
「地元でもそうだったし、東京に出てきてからもそうだった。友達も、職場の人も、もちろん全部じゃないけど、でも基本的には、いい人たちだった」
彼女は少しだけ微笑んだ。良い記憶のあたたかさを、自分の内側にもう一度呼び戻すような表情だった。壊れかけたものを、自分の手でそっと元の位置に戻そうとしているようにも見えた。
「だから、正直、こんな人たちがいるんだってびっくりした。ほんとにいるんだ、って」
僕は何も言わなかった。それはたぶん、彼女の真実だった。人は普通に優しい生き物だという前提で生きてこられた人の真実。世界は基本的にはまともで、たまに例外が混じるだけだという見方。でもそれは、僕の真実とは違っていた。
僕の人生には、ずっとそういう人間がいた。だから僕は、彼女のその言葉を聞きながら、少しだけ遠い場所に置いていかれるような気がした。彼女の見てきた世界と、僕の見てきた世界は、同じ地図の上に載っているくせに、まるで別の法則で動いているみたいだった。パラレルワールド、という言葉が頭に浮かんだ。僕らは同じ部屋に座っているのに、違う空気を吸っているようだった。
もし、本当に彼女の人生には本来そんな連中が存在しなかったのだとしたら。もし、僕と一緒にいたせいで、彼女がこういう目に遭ってしまったのだとしたら。だとしたら、悪いのは社長だけじゃなくて、僕自身でもあるんじゃないか。その考えは、じわじわと嫌な形を取りはじめた。ゆっくり水に溶けていくインクみたいに、ぼんやりとしたまま広がっていった。僕といると、不幸になるんじゃないか。
その頃の僕は、極端な考え方しかできなくなっていたのだと思う。人は疲れると、物事を細かく分けて考えられなくなる。白か黒か。敵か味方か。残るか辞めるか。そういう粗い仕分けしかできなくなる。真ん中にあるはずの、曖昧で、それでもいちばん大事な部分が見えなくなる。
「だったら、別れたほうがいいのかもな」と僕は言った。
言葉は、口に出した瞬間に自分の手を離れてしまう。しまった、と思ったときにはもう遅い。その一言が部屋の中央に落ちて、硬い音も立てずに、ただそこに居座った。部屋がしんとした。
彼女はしばらく動かなかった。僕の言葉を理解するまでに時間がかかったのか、それとも理解したくなくて時間が止まったのか、そのへんはよくわからなかった。ただ彼女は、黙ってそこにいた。やがて、その目に涙が溜まった。
「何でそうなるの?」
彼女は泣きながら言った。
「だって」と僕は言った。
「俺と一緒にいるから、こうなってるんじゃないのか。君の人生には、もともとこんな人たちいなかったんだろ」
彼女は首を振った。涙が頬を伝って、顎の先で小さく光った。
「違う」
でも僕は、そのときまだ止まれなかった。
「違わないだろ。俺がいなかったら、こんな会社ごときに、こんなふうに壊されることもなかったかもしれない」
彼女は唇を噛んだ。それから、少し乱暴なくらいの手つきで涙を拭った。ふだんの彼女にはあまりない仕草だった。
「あなたがいなかったからだよ」
僕は黙った。言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。
「これまでの人生にあなたがいなかったから、こんなふうにならなかったんだよ」
彼女は泣いたまま、でも言葉だけははっきりしていた。
「こんなに好きになる人がいなかったから、こんなに苦しくなることもなかったし、こんなに傷つくこともなかった。こんなことで泣くこともなかった」
その言葉は、責めているようにも聞こえたし、まったく逆のことを言っているようにも聞こえた。たぶん、その両方だったのだと思う。本当に大事なことは、たいていひとつの意味だけでは済まない。
「でも、それって」と僕は言いかけた。
「でも、じゃないよ」
彼女は遮った。
「私は、あなたと一緒にいるからこんなふうになったことを、不幸だと思ってない」
部屋は静かだった。何かが決定的に壊れたあとの静けさではなく、まだ壊れていない何かを、二人でじっと見つめているときの静けさだった。
「つらいよ。会社も嫌だし、社長も最低だし、こんなふうに顔中にニキビができて、薬ばっかり飲んで、ほんとに嫌だよ」
彼女はそう言って、また涙を拭った。
「でも、それと、あなたと一緒にいることは、別だよ」
僕は何も言えなかった。別だよ、というその短い言葉が、妙に強く引っかかった。僕はその頃、いろんなものをひとつの場所に放り込んでいた。社長の悪意も、会社の気持ち悪さも、彼女が泣いていることも、全部同じ濁った水の中でかき混ぜていた。でも彼女は、そこを分けた。苦しさと、愛情を。傷ついたことと、一緒にいたいことを。その分け方を、僕はそのときうまく理解できなかった。理解できなかったけれど、たぶんそれが正しいのだろうとは思った。
彼女は少し息を整えてから、静かな声で言った。
「だから、別れるとか、勝手に決めないで」
僕はテーブルに描かれた絵柄を見ていた。言葉がうまく出てこなかった。
「……うん」
ようやく出たのは、それだけだった。
彼女は小さく首を振った。
「二人で辞めよう」
その言葉は、さっきよりも静かだった。静かなのに、前よりずっと動かなかった。部屋の真ん中にまっすぐ置かれて、そのままどこにも流れていかない言葉だった。僕はすぐには頷けなかった。たぶんその夜、僕らは同じ場所で、少し違うものを見ていたのだと思う。僕は終わりを見ていた。彼女は、その先を見ていた。




