第17話 言葉が夜を渡るあいだに
ある晩、ノガミさんと古参社員のマツオキさん、それから僕と彼女の四人で飲みに行った。最初は、よくある飲み会だった。仕事の話が出て、誰かが軽く愚痴をこぼし、誰かがそれに笑って乗る。氷がグラスの中で小さく鳴って、店員が空いた皿を黙って下げていく。そういう、どこにでもある夜だった。
ただ、途中から少しずつ、話の流れが悪くなった。ノガミさんが、マツオキさんの仕事のやり方について口を挟みはじめた。最初は軽かった。冗談の続きみたいな口調だったし、表情にも笑みが残っていた。でも言葉が二つ三つ重なるうちに、冗談だけが先に席を立って、中身だけがそこに残った。ノガミさんはそういうところがあった。表面はやわらかいままなのに、芯の部分だけが細く、鋭く、きれいに尖っていく。
「いや、でもさ」とノガミさんは言った。
「そこまでやる必要あります? 結局、自分で勝手に仕事増やしてるだけじゃないですか」
「勝手にじゃないでしょ」
「だって、先に帰ろうとする人まで引き止めるじゃないですか。みんな早く帰りたいんですよ。会社なんて、できるだけいたくないんです」
その言い方に、少しだけ嫌なものが混ざっていた。酒の席で、わざわざそこまで言う必要があるのかと感じさせる響きだった。僕は黙っていた。彼女も黙っていた。こういう流れに口を挟んで、まともな場所に着地するのを、僕はあまり見たことがなかった。そのうち、マツオキさんの顔つきが変わった。さっきまでの曖昧な笑いが、きれいに消えていた。
「俺は会社を良くしようと思ってやってるんだよ」
すると今度は、ノガミさんのほうが少し強い調子になった。酔っているというより、何か別の熱が上がってきたみたいだった。
「会社は良くならないですよ」
グラスを置いた音が、妙に耳についた。
「社長があの様だから」
その一言だけは、今でも変にくっきり残っている。ほかの言葉はだいぶ曇ってしまったのに、そこだけはいまだにピントが合っている。マツオキさんも何か言い返していたと思う。でも、そのあたりの記憶は、湯気の向こうに置き忘れたみたいにぼやけている。
覚えているのは、店を出る頃には、みんな表面上はいつもの顔に戻っていた、ということだけだ。僕も、その夜のことは、酒の席でよくある小さな摩擦みたいなものとして、そのまま流れていくのだろうと思っていた。
でも、流れなかった。
それから2日後のことだ。
「この前の飲みのことなんだけど」と彼女は言った。
「うん」
彼女はすぐには続けなかった。何かの形を確かめるみたいに、指先でコップの縁をなぞった。
「……社長、あの話知ってた」
僕はそこで顔を上げた。
「あの話って?」
「ノガミさんとマツオキさんが揉めたやつ」
僕は一瞬、言葉の置き場所がわからなくなった。
「なんで社長が知ってるんだよ」
「私もそう思った」
彼女は前を向いたまま言った。
「しかも、変なふうに話してきた」
その時点で、もう嫌な予感はあった。社長の話をこんなふうに持ち出すときは、だいたいろくなことにならない。
「ジョウが原因で、ノガミさんとマツオキさんが揉めた、みたいな言い方だった」
僕は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……は?」
「しかも、“社長があの様だから会社の雰囲気はよくならない”って言ったの、ジョウだってことになってた」
外を走る車の音が、ずいぶん遠くから聞こえた。僕はその場にいた。何があったのか知っている。誰が言ったのかも知っている。それなのに、その事実はいつのまにか別の形に折り曲げられて、別の場所で、別の顔をして流通していた。怒りよりも先に、もっと始末の悪い気持ち悪さが込み上げた。まるで、誰かに勝手に自分の影を切り取られ、違う体に貼りつけられたようだった。
「言ってないだろ、そんなこと」
「うん。私も最初、何の話してるのかわからなかった」
彼女はそう言って、少し黙った。
「でも、ジョウの悪口がずっと続いて。話が、もう、そういう流れになってた」
「それで、カトウさんは何て言ったの?」
自分でも少し冷たい声だったと思う。彼女はすぐには答えなかった。
「……何も」
「何も?」
「だって、話が飛びすぎてて、最初はほんとに何のことかわからなかったし」
「途中でわかっただろ」
「たぶん、あの飲み会のことかなって思った。でも、その頃にはもう、ジョウの悪口ばっかりになってたから」
僕は黙った。もちろん、全部悪いのは社長だ。そんなことはわかっていた。僕のいないところで事実を都合よくねじ曲げ、それを僕にいちばん近い人間へ吹き込む。そういうやり方は、ひどく下品で、陰湿で、救いようがない。でも、それとは別に、僕の中には小さな棘みたいなものが残った。
なぜ反論しないんだろう、と思った。なぜ、「違いますよ」と言わないんだろう、と。逆の立場なら、僕は黙っていない。おそらく、とことんひどいことになっていただろう。だからこそ、彼女のその沈黙が、僕には理解できなかった。
「俺だったら言うけどな」と僕は言った。
「そんなの、違いますって」
彼女は少しだけ顔を上げた。
「……うん」
「うん、じゃなくて」
言いながら、僕は自分の声が少しずつ硬くなっていくのを感じていた。よしたほうがいい、とどこかではわかっていた。でもその頃の僕には、怒りと疲れと失望を、別々の引き出しにしまっておく余裕がなかった。全部がひとつの引き出しの中でぶつかり合っていた。
「だって、言われっぱなしじゃん」
「言われっぱなしにしたかったわけじゃないよ」
彼女の声も、少し硬くなった。
「じゃあ何で」
「何でって、あの空気の中で、どうやって言えばよかったの?」
「普通に言えばいいだろ」
「普通に言えるなら、とっくに言ってるよ」
そこで僕らは黙った。彼女はたぶん、彼女なりに精一杯だったのだと思う。悪意に慣れていない人が、それでもその場を壊さずにやり過ごそうとするとき、黙るしかなくなることがある。あとになってからならいくらでも正しい言葉は思いつく。でも、その場には、その場の空気がある。
その頃の僕には、それをちゃんと受け止める余裕がなかった。社長への怒りと、会社への嫌悪と、何も良くならない現実への苛立ちが、ひとつの濁った塊になって、いちばん近くにいた彼女のほうへまで流れてしまっていた。
それから、喧嘩が増えた。大きな理由がある喧嘩ばかりじゃなかった。ほんのちょっとした言い方や、返事の間や、疲れているときの表情みたいな、そういうささいなものが火種になった。もともとは別々の場所で受けた傷なのに、帰る場所が同じだと、それらはいつのまにか同じテーブルの上に並べられてしまう。僕らは、そこに並んだ傷をどう扱えばいいのか、まだよくわかっていなかったのだと思う。
そして、限界が来た。




