第16話 光の花がほどけるころ
休日の東京は、平日の東京と少しだけ顔つきが違っていた。駅前には人が溢れていて、信号が変わるたびに、色とりどりの服を着た人たちが、足早に交差点を渡っていく。ビルのガラスには夕方の光が鈍く貼りついていて、風の中には、どこか甘ったるい匂いと排気ガスの匂いが、うまく混ざりきらないまま漂っていた。そういう雑多な街の空気の中を、僕らは休みのたびに並んで歩いた。
暗い展示空間に足を踏み入れると、彼女は子どもみたいに目を輝かせた。床一面には、光でできた水みたいなものが静かに流れていた。青と紫がゆっくり混ざり合って、人が歩くたび、その流れがかすかに崩れる。壁には花びらのような光が浮かんでは消え、消えたと思うと、少し離れた場所でまた咲き直す。天井は黒く沈んでいて、どこまでが壁で、どこからが映像なのか、そのうち分からなくなってくる。
「ねえ、見て見て!」
彼女が僕の袖を軽く引いた。
「どれ?」
「私が通ったとこ。足元の花、ぱっと散った」
見ると、さっきまで丸く咲いていた光の花が、彼女の靴先の軌跡に沿って、するりとほどけていた。そのあとを追うみたいに、淡い色の波紋が静かに広がっていく。
「ああ、ほんとだ」と僕は言った。
「ただ流してる映像じゃないんだな。ちゃんと人の動きに反応してる」
「そこが面白いよね。見てるだけじゃなくて、自分が入ることで変わるから」
「うん。こっちが触ったら、向こうも少しだけ形を変える。その感じがあると、一気に体験したって感じになる」
カトウさんは少しかがんで、足元を流れていく光を見ていた。頬のあたりに青い色がうっすら乗っていて、そのせいで彼女は少しだけ、この現実から離れた場所にいる人みたいに見えた。
「なんか、生き物みたい」と彼女は言った。
「映像なのに、ちゃんと息してる感じがする」
「わかる。作り物なんだけど、反応があるだけで急に本物っぽく見える。こんなの、楽しいって思うに決まってるじゃん」
僕は笑った。
「うん」
彼女も笑った。
こういう時間が、僕は好きだった。自分が受け取った感覚を、そのまま曖昧に流さず、ちゃんと言葉にして置いてみること。どこに心が動いたのか。どこに違和感があったのか。そういうものを一つずつ拾い上げていくと、ただの感想が、少しずつ次の作品の材料に変わっていく。僕らにとってそれは、デートであると同時に、仕事の延長でもあった。
映画を観たあとも、それは同じだった。館内の明かりがついて、席を立つ人たちの衣擦れの音が静かに広がる。エンドロールの余韻をまだ少しだけ身体に残したまま、僕らはロビーへ出る。ポスターの前には何組か人が立っていて、パンフレットをめくっている人もいた。カトウさんは決まって、すぐには感想を言わなかった。少しだけ考える時間が必要な人だった。
外へ出ると、夜の空気が頬に触れる。映画館の中の人工的な暗さに慣れた目には、街のネオンが少しだけ眩しかった。
「どうだった?」
僕が聞くと、カトウさんはしばらく黙っていた。それから、前を見たまま言った。
「静かな映画だったね」
「うん。でも、ただ静かなだけじゃなかった」と僕は言った。
「音楽を引っ込めてるぶん、生活音が前に出てた。あの家の空気がちゃんと聞こえる作りになってた」
「生活音?」
「食器の音とか、服が擦れる音とか、誰かが立ったり座ったりする音とか。普通なら音楽で包んでしまうところを、そのまま置いてた。だから、作ってる感じが薄くなる」
カトウさんは頷いた。
「たしかに。泣かせようとしてくる感じがなかった」
「そう。泣かせにくる映画って、だいたい“ここです”って教えてくるから。でもあれは、そこをやってない。そのぶん、沈黙がちゃんと効いてた」
「黙ってる時間、長かったもんね」
「長かった。でも死んでなかった。ああいう沈黙は、ただ長ければいいわけじゃない。黙っているあいだにも、その場の空気や、口に出さない感情がちゃんと動いていないと、ただ間延びして見えてしまう。逆に言うと、そういう空気が読めない人には、ちょっとつまんなく感じるかもしれない」
「うん……」
彼女は少し考えてから言った。
「あと、なんか距離感がよかった」
「カメラの?」
「そう。近すぎないのに、ちゃんと近い感じ」
僕は少し笑った。
「わかる。あれ、たぶん寄りすぎてないのがいいんだよ。顔で泣かせようとしてこないのに、遠くもない。覗き見してるみたいな距離でずっといるから、見てるこっちが勝手にその場の空気を読むことになる」
「うん、それ」
彼女は少し黙って、それから小さく言った。
「誰が悪いって、簡単に言えない映画だったね」
「うん。それがよかった」と僕は言った。
「善人と悪人で分けた瞬間に、たぶんあの映画は嘘っぽくなる。でもあれは、割り切れないまま置いてる。だから本物っぽく見える」
「本物っぽい、か」
「世界ってそういうものだからね。きれいに整理なんかできないし」
彼女は少しだけ笑った。
「ジョウって、やっぱりそういうとこまで見てるんだね」
そうやって、僕らは何かを見て、言葉を交わして、そのたびに少しずつ同じ方向を向いていった。
二人で旅行することも、増えていった。旅行にも、たぶん相性みたいなものがある。食べ歩きを楽しみにする人もいれば、買い物に時間を使いたがる人もいる。僕らは、そのあたりの感覚がうまい具合に似ていた。何を見たいか。どこで足を止めたいか。どういう時間を心地よいと思うか。そういう細かなところが、ふしぎなくらい自然に噛み合った。
体を通して初めてのものに触れると、その記憶は妙に深く残る。海の中の世界も、夜の遊園地も、離島のペンションも、夏の夕方にふと見たあの光も、あとになって思い返すと、どれも少しだけ現実からはみ出していた。きれいだった、楽しかった、というだけではうまく片づかない、別の手触りがそこにはあった。
そういう時間を、僕らは少しずつ増やしていった。気がつけば、いくつもの月日を一緒に過ごしていた。同じ時間の底に、二人分の記憶が静かに沈んでいく。人生を重ねるというのは、たぶん、そういうことなのだと思う。
けれどその一方で、別の何かが、僕の知らない場所からゆっくり入り込んできていた。音もなく、水に垂らしたインクの濁りみたいに、少しずつ広がっていく種類のものだった。それがはっきり姿を見せたのは、仕事終わりに二人で飯を食っているときだった。
店の中はそれなりに賑やかだった。暖色の照明がテーブルの上に落ちて、グラスの水に細かい光が揺れていた。カトウさんは箸を持ったまま、少し黙っていた。まわりはちゃんと動いているのに、彼女のいるあたりだけ、うまく音が届いていないみたいに見えた。彼女は水をひと口飲んで、それからようやく口を開いた。
「今日さ、また言われた」
「何を?」
彼女は少しだけ眉を寄せた。困ったような、呆れたような、でもそれをそのまま表に出したくないときの顔だった。
「社長に。ジョウのこと」
僕は箸を置いた。
「なんて?」
「……あいつはコミュ症やで、って。まともじゃない、みたいな言い方だった」
痛い。心の柔らかいところを、不意に指先で押されたみたいだった。
「あと、なくなってもいい重要度の低い案件しか、あいつにはやらせへん、能力がないからやって。ジョウの悪口ばかり聞かされた」
僕は黙った。腹が立たなかったわけじゃない。それ以上に嫌だったのは、その言葉が僕に向かって直接投げられたものじゃないということだった。いったん彼女のところに落ちて、そこで少し温度を変えてから、こっちへ渡される。そういう届き方をする悪意は、妙に気持ちが悪い。手に取ると、指先にぬめりだけが残る。乾かない種類の悪意だった。
「なんで、わざわざそんなこと言うんだろうな」
僕がそう言うと、カトウさんは「さあね」とだけ言った。でも、その「さあね」は、ほんとうにわからない人の言い方ではなかった。わからないふりをしている人の声だった。たぶん、わからないんじゃない。考えたくないのだ。考えたところで、ろくな答えにならないと、もうどこかで知っているから。
その後も、彼女から同じような話を聞くことが何度かあった。
ある晩、彼女はやけに大きなマスクをしていた。店に入って席についても、なかなか外さなかった。ようやく外した顔を見て、僕は少しだけ息を止めた。顔中に、小さな赤いニキビが点々と出ていた。近くで見ると、薬の匂いみたいなものが、かすかにした。
「大丈夫?」
彼女はすぐに「大丈夫」と言った。そうやってすぐに「大丈夫」と答えるときほど、人はたぶん、大丈夫ではない。
「最近、ちょっとひどくて」と彼女は言った。
「薬飲んでるんだけど、全然よくならない」
そう言いながら、彼女は指先で頬のあたりをほんの少しだけ触った。無意識に確かめてしまうみたいに。
「ストレス?」
「……たぶん体質のせいだと思う。あまり肌が強くないから」
そう言ってから、彼女は少し黙った。それから、目だけが先に濡れていった。本人も、泣くつもりではなかったんだと思う。気づいたときにはもう、こぼれていた。そういう泣き方だった。言葉より先に、涙だけが溢れてしまうみたいな。
旅行先では、彼女は心から笑っていた。知らない土地の空気を吸い、新しい体験を重ねるうちに、張りつめていたものが少しずつほどけていった。
けれど会社へ戻ると、ほどけたはずのものが、また少しずつ張りつめていった。旅先の光が鮮やかだったぶん、事務所の蛍光灯は必要以上に白く、冷たく見えた。
ある日、仕事帰りに家へ向かって歩いていると、彼女が急に言った。
「社長さ」
「うん」
「知ってるみたい」
僕は一瞬、何のことかわからなかった。
「何を?」
彼女は前を向いたまま言った。
「私たちのこと」
信号が変わりかけ、誰かが僕らの横を小走りで抜けていった。街はいつもどおり動いていたのに、その言葉を聞いた瞬間だけ、周囲の音が少し遠くなった。
「……なんで?」
「今日、言われたの。見ていればわかる、って。お前たちが付き合ってることくらい、知ってるって」
僕はすぐには何も言えなかった。ああ、と思った。これまでの妙な踏み込み方や、ねっとりした悪口の理由が、そこでようやくひとつにつながったからだ。
「そっか」と僕は言った。それしか言えなかった。
社長は、ただ僕の悪口を言っていたわけではなかった。僕らが付き合っていると知った上で、そのあいだにわざと悪意を差し込んでいたのだ。胸の奥に薄く張りついていた違和感の正体が、ようやく見えはじめた。そしてそれは、決していいものではなかった。




