第15話 小さな秘密
その夜は、もうそれ以上、何も考えなくてよかったのだと思う。何か大事なことを決めるには、気持ちが少し高まりすぎていた。会社のことも、社長のことも、これから先の面倒な現実も、とりあえずその日は脇へ押しやっておけた。夜の空気はやけにやわらかくて、駅へ向かう道の灯りまで、少しだけ世界に都合よく見えた。
その話が出たのは、もう少しあとになってからだった。
会社の帰り、いつものように一緒に歩いていた時だ。浮かれてばかりもいられない現実が、ようやく僕らに追いついてきた。信号待ちの時間、二人のあいだに小さな沈黙が落ちた。
「ひとつ、お願いがあるんです」
彼女は前を向いたまま言った。
「何?」
「付き合ってること、会社の人たちには、できるだけ知られたくないです」
言い方は静かだった。でも、その静けさの奥に、簡単には曲がらない意思がきちんと入っていた。僕はすぐには返事をしなかった。少しだけ、彼女の横顔を見た。
「どうしても?」
「どうしても、です」
街灯の光が、彼女の横顔にやわらかく当たっていた。その輪郭を見ながら、僕は、さっきまであんなに近く感じていた時間が、急に少しだけ現実へ引き戻されるのを感じていた。
もちろん、彼女の言いたいことがわからないわけじゃなかった。
社長に知られたら、面白半分にかき回されるのは目に見えていたし、彼女に向けられる言葉も、今よりずっと露骨になるだろう。見つけたら、必ずつつく。形が変わるまでつつく。そういう嫌らしさだ。
ただ、それでも、少しだけ寂しい気持ちになったのも事実だった。
誰にも知られたくない、という言葉は正しい。正しいけれど、せっかく手に入れた大切なものを、すぐに押し入れの奥へ隠さなければならない。そんな寂しさが、かすかに影を落とした。
僕は歩きながら、言葉を継いだ。
「でも、完全に誰にも知られないようにするのは、たぶん難しいと思う」
カトウさんは少しだけ顔を上げて、僕を見た。
「……ですよね」
「カトウさんが四階に来やすいように、変に全部隠さない方がいいかもしれない。事情を知ってる人が一人くらいいた方が、変に取り繕わなくて済む」
「……うん」
僕は少し間を置いてから言った。
「そういう理由もあるので、ノガミさんには、話しておこうと思う」
「ノガミさん?」
彼女はしばらく黙っていた。歩きながら、その名前を自分の中でゆっくり転がしているみたいだった。すぐには賛成もしないし、露骨に嫌な顔もしない。ただ、本当にそれでいいのかを静かに確かめているように見えた。
「……たしかに、その方が気を遣わなくて済むかもしれないですね」
「うん。だから、会社の人たちにはできるだけ知られないようにする。特に社長には、絶対言わない。でも、ノガミさんだけは例外ってことでどうかな」
彼女は小さく息をついて、それから頷いた。
「分かりました」
その返事を聞いて、僕は少しだけ肩の力を抜いた。
秘密というのは、抱えた瞬間から重さを持つ。ポケットに石をひとつ入れるみたいに、最初は小さくても、歩いているうちにだんだん存在を主張し始める。全部を隠し通そうとすると、たいていどこかで無理が出る。だから僕らは、その重さを少しだけ分けることにした。
それが正しい判断だったのかどうか、その時の僕にはまだ分からなかったけれど。
翌日、僕はその秘密をノガミさんに打ち明けた。
窓の外はもう夕方の色をしていて、くすんだオレンジの光が床の上に斜めに伸びていた。ノガミさんは椅子の背にもたれ、片手で缶コーヒーを持ちながら、何かの資料を眺めていた。
「ちょっと、言っておきたいことがあるんですけど」
ノガミさんは資料から目を上げた。
「なに?」
ほんの一拍だけ間を置いて、僕は言った。
「実は、カトウさんと付き合うことになりました」
言った瞬間、空気が少しだけ静かになった気がした。大げさな変化ではない。ただ、自分の耳の奥だけが妙に澄んだ。
ノガミさんは僕の顔を見て、それからふっと口元を緩めた。
「え、ほんとに?」
「はい」
「そっか。いや、それは……おめでとう」
思っていたよりまっすぐ祝われて、僕は少しだけ拍子抜けした。もっと茶化されるか、妙に踏み込まれるか、そのどちらかを勝手に想像していたからだ。
「ありがとうございます」
「全然気づかなかったな」
「まあ、気づかれないようにはしてたんで」
そう言ってから、僕は声を少し落とした。
「ただ、このことは会社ではあまり知られたくないんです」
ノガミさんは缶コーヒーを机に置いた。缶の底が天板に当たって、小さく乾いた音がした。
「絶対言わない方がいいよ。特にブタゴリラには。この間もジョウくんのこと悪く言ってたし、知ったらカトウさんに嫌がらせすると思う。ごちゃごちゃ間に入って、めんどくさいことになりそうだし」
「また何か言ってるんですか。……そういうことなので、このことは誰にも内緒でお願いします」
彼は少しだけ目を細めて、それから静かに言った。
「分かった。俺は言わないよ」
その一言で、肩のあたりにかかっていた見えない重みが、ほんの少し軽くなった。四階は相変わらず物置みたいな場所だったけれど、その時だけは、ちゃんとした避難場所みたいに思えた。
もう一人、この秘密を話した相手がいた。
モリくんだった。
彼は毎日のように社長にきつく当たられていた。社長に呼ばれるたび、背中が少し縮こまり、返事の声もひと回り小さくなる。ああいうのを見ていると、放っておくのも後味が悪かった。だから僕は、仕事終わりに飲みや飯へ連れていくことが増えていった。そんな時間を重ねるうちに、彼は僕に懐いてきていたし、僕もよく面倒を見るようになっていた。可愛い後輩、という言い方が正しいのかは分からない。でも、その頃の僕はたぶん、そんなふうに思っていた。
その夜も、僕はモリくんと飲んでいた。
店は神田駅の近くの居酒屋だった。壁には短冊のメニューが何枚も貼られ、カウンターの向こうでは板前が無言で魚をさばいていた。氷の入ったグラスの表面には薄い水滴がついていて、指先で触れると少しだけ冷たかった。
モリくんは相変わらず、僕の前ではどこか気を抜いていた。会社で社長に詰められている時の、あの引きつったような顔とは違って、肩の力がいくらか落ちていた。笑う時も、ちゃんと笑っていた。
僕はたぶん、浮かれていたのだと思う。好きな子と付き合えたという事実が、胸の奥でまだ熱を持っていて、それをじっとしまっておくだけの落ち着きがなかった。
僕は焼酎のグラスを持ったまま、何となく笑って言った。
「実はさ」
モリくんが顔を上げた。
「はい?」
「カトウさんと付き合うことになったんだよね」
一瞬、彼の目が丸くなった。それからすぐに、いつものあの愛想のいい笑顔が顔の上に広がった。
「えー!めっちゃ面白い!え、そうなんですね!おめでとうございます」
「ありがとう」
「全然気づかなかったです」
「まあ、そうだよね」
自分でそう言いながら、少しだけ気分がよかった。秘密を打ち明けると、その出来事は急に現実味を帯び始める。胸の奥だけで温めていたものが、言葉になっていったん外へ出ると、妙に本当らしく見えてくるのだ。
「会社では、できるだけ内緒でって話にはなってるんだけどね」
「そうなんですね」
「だから、変に広めないでくれよ」
「もちろんです」
モリくんはそう言って頷いた。
会社の中では、僕らはそれまで通りに振る舞った。朝、顔を合わせても必要以上に目を合わせない。仕事中は、必要なことだけを以前と変わらない調子で話す。誰かが近くにいれば、少しだけ距離を取る。そういう小さな調整を、僕らは何度も繰り返した。
けれど、一度そういう関係になってしまうと、相手のことは前よりずっとよく目に入るようになる。少し疲れていること。笑ってはいるけれど、それが心の底からのものじゃないこと。その一方で、四階に来ると、ほんの短いあいだでも肩の力が抜けていること。そういう細かい変化まで、はっきり見えるようになった。
そしてたぶん、それは向こうも同じだったのだと思う。
会社の中にいても、僕らのあいだだけは、まわりとは別の時間が流れていた。誰にも見つからないように、静かに。
もちろん、会社そのものが何か変わったわけではない。社長が余計なことを言い、ミヤモトさんがそれに乗る。その構図は何ひとつ変わらなかった。
そういう濁りの中で、僕らだけが小さな秘密を持っていた。
それは甘くて、心細くて、思っていたよりずっと脆い。
そしてその脆さを、僕はまだ、本当の意味では知らなかった。




