第五十九話 世界が壊れ始めたので、まず避難所を作ることにした
魔王城の地下実験場から地上へ戻ると、空に黒い線が走っていた。
昨日までは遠くに見えた亀裂が、今は城の塔の真上まで伸びている。
「……俺がやったんだよな」
しゃもじの表面には細い傷が残っていた。
レイグが俺の肩を掴む。
「反省は後だ。今は何をする」
「……避難だ」
魔王城の鐘が鳴った。
西の街道で地面が割れ、橋が一つ落ちたという。魔王はすぐに兵を集めたが、軍の指揮官たちは命令を待つばかりだった。
「住民の誘導は誰が担当する?」
元王子が尋ねる。
「軍務局の許可が必要です」
「その許可は誰が出す?」
「魔王陛下です」
「陛下は今、崩壊地点の確認中だ!」
俺は思わず叫んだ。
「許可を待ってる間に橋がもう一本落ちるぞ!」
ユウマが地図を広げた。
「崩れたのは西側だけ。東の丘は岩盤が厚い。あそこなら仮設の避難所を置けます」
「食料は?」
「城の備蓄から出せます。ただし三日分です」
「じゃあ三日で補給路を作る」
元王子が指を動かし、避難路を三本描いた。
レイグは護衛隊を率いて街道へ走る。ゲイルは崩れかけた橋の支柱を斬り落とし、二次災害を防ぐ役目を引き受けた。
俺はスラたちを集めた。
「今日は城壁じゃない。人が歩く道を支えてくれ」
ぷるん。
スライムが地面の割れ目へ入り込み、表面を一時的に固める。
「ずっとは持たないからな!」
ユウマが叫ぶ。
「分かってる。通り終わったら退かせる!」
避難所を作ると決めたとき、最初に反対したのは魔王軍の兵站官だった。
「軍の物資を民間へ回せば、兵の食事が減ります」
元王子は帳簿を開いた。
「兵の備蓄は七日分。街道が復旧すれば補充できる。避難者の備蓄はゼロだ」
「しかし規則では――」
「規則を変える責任は、俺が持つ」
そこへ魔王が戻った。
「その必要はない。私が命じる。民の避難を優先せよ」
兵站官は一礼した。
俺は元王子へ小声で言った。
「お前、王族っぽいな」
「元王子だ」
「忘れてた」
「忘れるな」
丘の上では、避難所の場所を巡って小さな言い争いが起きた。
魔族の商人が言う。
「人間の兵士と同じ天幕では眠れん」
王国の工兵も腕を組む。
「こっちだって、魔族の軍人と寝るのは落ち着かん」
俺は二人の間に立った。
「じゃあ、天幕を分けよう。ただし、水と食料の配給は一緒」
「なぜだ」
「分けたら、どっちが多い少ないって揉めるだろ」
商人は黙り、工兵も頷いた。
そのあと、魔族の子どもが人間の工兵に木槌を渡した。
「これ、落としたよ」
工兵は戸惑いながら受け取った。
「……ありがとな」
小さな声だった。
でも、確かに聞こえた。
夕方には天幕が三十張り並んだ。
一つは治療所。一つは炊事場。残りは家族ごとの寝床だ。
俺は最後の杭を打ち終え、しゃもじを眺めた。
「今日は一度も振ってないな」
ユウマが言う。
「振らなくても、十分働きましたよ」
「そうかな」
「はい。誰が何をするか決める人がいないと、杭も鍋も役に立ちません」
俺は少し照れた。
「じゃあ、今日は司令官ってことで」
「司令官は、もっと書類を読みます」
「やっぱりやめとく!」
避難所には、魔族の家族が次々に集まった。
角のある老人。翼の小さな子ども。荷車を押す商人。
誰もが空を見上げ、顔を青くしていた。
「勇者様、あの線は何ですか」
母親に尋ねられた。
俺は答えを迷った。
嘘をつけば、少しは安心させられるかもしれない。
でも、王様に秘密を隠されて怒ったばかりだ。
「世界の魔力が乱れてます。俺たちが止める方法を探しています」
「止まるんですか」
「まだ、絶対とは言えません」
母親は子どもを抱き寄せた。
俺は続けた。
「でも、ここを安全にすることはできます」
翌朝、俺は避難所を回った。
食料の配給列は長く、飲み水の桶は半分しか残っていない。
「これじゃ足りないな」
ユウマは帳簿を見せた。
「一人一日二杯で計算しても、明日の昼にはなくなります」
「井戸は?」
「丘の下にあります。でも水路が崩れています」
元王子が工兵を呼び、仮の水路を掘る計画を立てた。
俺はスラに頼んだ。
「水を運べるか?」
ぷるん。
スライムが水桶の底を支え、坂道をゆっくり登る。
「こぼすなよ!」
ぷるん!
「返事だけは立派だな!」
子どもたちが笑った。
そこへゲイルが戻ってきた。
「橋は落とした。追っていた荷車は全部渡り終えた」
「怪我は?」
「ない」
俺は彼の手を見た。指先がわずかに震えている。
「……無理してない?」
「少し疲れた」
「なら休め」
ゲイルは驚いた顔をした。
以前なら、疲れていることさえ認めなかっただろう。
「……分かった」
彼は素直に腰を下ろした。
俺は水の入った椀を渡した。
「勇者の仕事は、働くことだけじゃないからな」
レイグが後ろから言う。
「それはお前にも言える」
「はい……」
俺たちは交代で休むことにした。
世界がどれほど危なくても、眠らなければ次の日を守れない。
避難所の入口には、新しい看板が立った。
『ここでは種族を問わず受け入れます』
元王子の字だった。
俺はその看板を見て、少しだけ胸を張った。
その夜、避難所の火は消えなかった。
バルザックが鍋を抱えてやってきたのだ。
「食堂の料理長として、腹を空かせた者を見捨てられん!」
「四天王だろ、お前!」
「今は炊き出し担当だ!」
温かいスープが配られると、子どもたちの声が少し戻った。
俺は椀を受け取り、空を見た。
世界はまだ壊れ続けている。
でも、今夜ここで眠る人たちは守れた。
「……世界を救うって、こういうことの積み重ねなのかな」
レイグは隣に座った。
「たぶんな」
そのとき、遠くの塔で赤い狼煙が上がった。
東の村でも、新しい亀裂が見つかったのだ。
避難所の隅では、年配の魔族が小さな子どもへ毛布をかけていた。
俺はその横を通り、足を止めた。
「何か足りませんか」
「今は大丈夫です。ありがとう」
年配の魔族は、子どもの毛布を掛け直して笑った。
その短い返事が、妙に嬉しかった。
誰かの一日を守ること。
世界の終わりを止める方法はまだ見えなくても、目の前の人を寒さから守ることならできる。
俺は次の毛布を取りに走った。




