第五十四話 魔王は世界を壊そうとしていなかった
図書塔の最上階で、オルドは一枚の古い地図を広げた。
そこには王国も魔王領も、まだ今の形では描かれていなかった。
代わりに、いくつもの光る線が大陸を横切っている。
「魔力の流れです」
オルドが言う。
「かつては、海から山へ、山から森へ、自然に循環していました」
「今は?」
ユウマが尋ねた。
老人は地図の端を指した。
「この線が、毎年少しずつ細くなっています」
俺には、ただの地図に見えた。
でも、ゲイルの表情は険しかった。
「……北方の研究所でも、似た図を見た」
「そこでは何を研究していた?」
レイグが聞く。
「魔力の流れを強制的に揃える方法だ」
俺は息を呑んだ。
黒い輪。
命令核。
同じ歩幅で進む兵士。
全部が、同じ考え方から生まれていた。
「世界を整える練習を、魔物や人間でしてたのか?」
オルドは目を伏せた。
「魔王様は、最初からその方法を望んでいたわけではありません」
「でも、止めなかったんだろ」
俺が言うと、老人は頷いた。
「はい」
その一言には、言い訳がなかった。
オルドは本棚から薄い記録帳を取り出した。
『第一次調律試験』
そこには、数十年前の実験結果が記されていた。
小さな村の魔力循環を一時的に固定したところ、魔物の暴走が止まり、病気も減った。
「成功したんだ」
元王子が言う。
「最初は」
オルドはページをめくった。
数か月後、村の住民は感情の起伏を失い始めた。
争いはなくなった。
だが、笑い声も減った。
子どもたちは同じ遊びを繰り返し、農夫は決められた畑以外を耕そうとしなくなった。
「……それ、平和じゃない」
俺は呟いた。
「ただ、動けなくなってるだけだ」
オルドは頷いた。
「試験は中止されました。ですが、世界の異常は進み続けました」
レイグが腕を組む。
「だから、もっと大きな規模で固定しようとしたのか」
「はい。魔王様は、自由を失っても世界が残るほうがよいと考え始めたのです」
俺は黙った。
もし世界が本当に壊れるなら、何もしないわけにはいかない。
でも、みんなの意思を奪ってまで守るのは、何か違う。
「魔王は、怖かったのかな」
思わず口に出た。
レイグが俺を見る。
「何がだ」
「世界がなくなるのが」
オルドは長く沈黙した。
「……おそらく」
そのとき、塔の窓から遠くの空が見えた。
夕焼けの端に、黒い筋が走っている。
雲ではない。
空そのものに、小さな亀裂が入ったようだった。
「……あれ」
ユウマが立ち上がる。
「魔力の乱れです」
遠くで雷鳴が響いた。
オルドは窓辺に立った。
「もう、時間があまりありません」
塔の外で、魔族の子どもたちが空を見上げていた。
黒い亀裂は、昼間でも見えるようになっている。
「おじさん、あれ何?」
小さな子が聞いた。
俺は返事に困った。
「……空が、ちょっと疲れてるんだ」
「治る?」
「治す方法を探してる」
「じゃあ、僕も手伝う」
子どもは小さな石を差し出した。
「これ、きれいだから」
俺は受け取った。
「ありがとう。でも、今はおうちの人のそばにいてくれ」
子どもは頷いて走っていった。
レイグが俺の手の石を見た。
「何の役に立つ?」
「分からない。でも、もらったんだ」
俺は石を袋にしまった。
世界を救う理由が、また一つ増えた。
俺は空の亀裂を見ながら、北方の若い兵士を思い出した。
あの子は、また飯を食おうと言ってくれた。
魔王領の村の子も、井戸がきれいになったと喜んでいた。
どちらも世界の終わりなんて望んでいない。
「なあ、レイグ」
「何だ」
「俺たち、ちゃんと間に合うかな」
レイグはすぐには答えなかった。
「分からん。でも、ここまで来た」
「……うん」
「なら、次も進むだけだ」
その言葉が、少しだけ頼もしかった。
オルドは、魔王が若かったころの記録を見せてくれた。
そこには、荒れた村へ食料を運ぶ若い魔王の姿が描かれていた。
「……魔王って、昔はこんなことしてたのか」
俺が言うと、老人は微笑んだ。
「魔王様は、飢えた者を見捨てられない方でした」
「今もそうなんじゃないか?」
「そうかもしれません」
オルドはページをめくった。
次の絵では、魔王が崩れた橋を修理している。
さらに次の絵では、病人を運ぶ兵士たちへ指示を出していた。
「最初から悪い人だったわけじゃないんだな」
レイグが低く言った。
「だからといって、今の行いが許されるわけじゃない」
「うん」
俺は頷いた。
「でも、どこで間違えたか知りたい」
ゲイルはしばらく黙っていた。
「……俺には、まだ許せない」
「許さなくていい」
俺が答えると、ゲイルは驚いた顔をした。
「お前は、すぐに仲直りさせたがると思っていた」
「仲直りは、本人が決めることだろ」
俺はしゃもじを握った。
「俺ができるのは、話す場所を作るくらいだ」
ゲイルは小さく頷いた。
「……そうか」
塔を出る前、オルドは古い手紙を渡してくれた。
封筒には魔王の印。
「これは?」
「魔王様が、世界の異常を最初に知ったとき、王国へ送った警告です」
元王子が顔を上げた。
「王国へ?」
「はい。しかし返事はありませんでした」
手紙には、魔力循環の異常と、共同調査の必要性が書かれていた。
俺は読み終えて、ため息をついた。
「……最初に話し合えてたら、違ったのかな」
誰も答えなかった。
過去は変えられない。
でも、今からなら変えられることがある。
俺は手紙を元王子へ渡した。
「これ、王様に見せよう」
元王子は頷いた。
「必ず」
遠くの空では、黒い亀裂が少しずつ広がっていた。
俺はしゃもじを握った。
魔王を倒せば終わると思っていた旅が、急に別のものになった。
「……魔王に会おう」
レイグが頷く。
「だが、奴の方法を認めるわけじゃない」
「分かってる」
ゲイルも静かに言った。
「俺たちの身体を使ったことも、許せない」
「それも、分かってる」
俺はみんなを見回した。
「だから話を聞いて、それから決めよう」
オルドは深く頭を下げた。
「どうか、魔王様を止めてください」
俺は苦笑した。
「倒せじゃなくて、止めて、なんだな」
「はい」
老人の目には、涙が浮かんでいた。
「世界も、魔王様も、失いたくないのです」
俺は返事ができなかった。
その願いは、あまりにも人間らしかった。




