第五十三話 しゃもじの正体が、世界を作った道具だった
図書塔の水晶には、世界が生まれる前の景色が映っていた。
いや、景色と呼んでいいのかも分からない。
空も地面もなく、赤い光と青い光がぶつかり、ほどけ、また絡まっている。
「……色つきのスープみたいだな」
俺が言うと、オルドが頷いた。
「古い記録にも、似た表現があります」
「マジで?」
「『混沌は煮立つ鍋のごとし』と」
レイグが俺を見る。
「だからしゃもじなのか」
「俺に聞くな!」
オルドは本の次のページを開いた。
『原初の調律器は、乱れを消すのではなく、異なる流れを共存させる』
ユウマが読み上げる。
「共存……」
「魔力には、いくつもの流れがあります」
オルドが説明した。
「強い流れだけを残せば、世界は一時的に安定します。しかし弱い流れが失われれば、やがて別の場所に大きな歪みが生まれる」
俺は北方で魔物を解放したときを思い出した。
無理やり一つの命令に揃えられていた魔物たち。
あいつらは、命令が切れたあと、それぞれ違う方向へ歩いていった。
「……整えるって、全員を同じにすることじゃないのか」
「そうです」
オルドは微笑んだ。
「違うものが違うまま、壊れずにいられるようにすることです」
俺はしゃもじを握り直した。
今まで、汚れを落としたり、魔物の乱れを直したりしてきた。
でも、そういうことじゃなかったのかもしれない。
「じゃあ、世界を作ったってのは?」
「正確には、世界の輪郭を保つ仕組みを作ったのです」
水晶の中で、光の渦がゆっくり分かれた。
上には空。
下には大地。
その間に、海と森と生き物の影が生まれる。
「誰が使ったんだ?」
元王子が尋ねた。
オルドは首を振った。
「名は残っていません。調律器が意思を持っていたという説もあります」
俺はしゃもじを見つめた。
「……お前、意思あるの?」
もちろん返事はない。
スラが代わりにぷるんと跳ねた。
「お前じゃない!」
ゲイルは本の端に書かれた図を指差した。
「この線は何だ」
図には、世界全体を包む巨大な輪が描かれていた。
その輪には、細い亀裂が走っている。
オルドの表情が曇った。
「世界の魔力循環です。長い年月の間に、均衡が崩れ始めました」
「どれくらい危ない?」
俺が聞く。
「最初は小さな異常です。魔物の凶暴化、作物の不作、季節外れの嵐」
ユウマが息を呑んだ。
「……最近、どれも起きています」
「はい。そして進めば、土地そのものが形を保てなくなる」
俺は水晶の中で、大地が崩れていく光景を見た。
家も、森も、川も。
誰かが暮らす場所が、音もなく消えていく。
「……これを、魔王は知ってるんだな」
オルドは頷いた。
「誰よりも早く知りました」
「じゃあ、なんで教えてくれなかった?」
「伝えても、信じてもらえなかったのです」
レイグが低く言った。
「だから軍を動かした?」
「魔王様は、世界の魔力を一つの命令にまとめれば崩壊を止められると考えた」
俺は嫌な予感がした。
「それって……」
「世界中の生き物から、自由な魔力の流れを奪うということです」
部屋が静かになった。
俺はしゃもじを見下ろす。
世界を守る道具。
でも、使い方を間違えれば、世界を縛る道具にもなる。
「……説明書、もっと早く欲しかったな」
レイグが小さく笑った。
「今からでも読め」
俺は本の余白に、自分の言葉で一行を書き足したくなった。
『しゃもじは、ひとりで振り回さないこと』
でも、古文書に勝手に書き込んだら怒られる。
「オルドさん、メモ用紙あります?」
老人は小さな紙を差し出した。
俺はそこに書いた。
『整える前に、相手の話を聞く』
ユウマが覗き込む。
「カイさんにしては、いい言葉ですね」
「にしては余計だ!」
ゲイルがその紙を見て頷いた。
「俺にも、必要な言葉だ」
レイグは笑った。
「俺にもな」
オルドは水晶の映像を止め、机の上に小さな砂時計を置いた。
「世界の崩壊は、ある日突然起こるものではありません」
「じゃあ、ゆっくり壊れる?」
俺が尋ねる。
「はい。最初は誰も気づかないほど小さな変化です」
砂が一粒ずつ落ちる。
「雨の降る時期がずれる。川の魚が減る。魔物が眠れなくなる」
ユウマが手帳を開いた。
「北方でも、そういう報告がありました」
「やがて小さな変化が重なり、大きな崩れになる」
オルドは砂時計を横に倒した。
「止めることはできます。しかし、砂を無理に一か所へ押し込めば、別の場所に負担がかかる」
俺はその砂時計を見つめた。
「……世界って、思ってたより繊細なんだな」
「人の暮らしも同じでしょう」
オルドは窓の外を指した。
「一つの村が水を失えば、隣の村から運ぶ。隣も不足すれば、さらに遠くから運ぶ。助け合いが途切れれば、困る者が増えていきます」
元王子が頷いた。
「国の仕事と似ている」
「そうです。世界もまた、繋がっているのです」
俺はふと、王国で出会った人たちを思い出した。
盗賊だった男。
魔物に怯えていた村人。
城壁を直した工兵。
魔王領の井戸を掃除したとき、笑ってくれた子ども。
みんな別々の場所で暮らしている。
でも、どこかで繋がっているのかもしれない。
「……全部を一人で直すなんて、無理だな」
俺が言うと、レイグは笑った。
「ようやく気づいたか」
「前から分かってたよ!」
「本当か?」
「……半分くらい」
ユウマが吹き出した。
ゲイルは挿絵を見つめていた。
「この絵の人たちは、同じ方向を向いていない」
確かにそうだった。
ある者は空を見ている。
ある者は地面を見ている。
ある者は隣の人を見ている。
それでも、中央の道具を支えていた。
「……違うままでいいってことか」
オルドは静かに頷いた。
そのとき、しゃもじが小さく光った。
俺は思わず声を上げた。
「今の、返事だった?」
もちろん、誰にも分からなかった。
俺は本の続きをめくった。
そこには、調律器を使うための条件が記されていた。
『ひとりの意思では、世界を整えられない』
俺は顔を上げた。
「……これ、どういう意味だ?」
オルドは静かに答えた。
「その答えを、魔王様もまだ見つけられていません」
俺たちは顔を見合わせた。
世界を救う方法は、まだ完成していなかった。




