第五十二話 最後の四天王が、戦わずに降伏してきた
魔王城の手前には、古い図書塔が立っていた。
塔の周囲には兵士がいない。
代わりに、長い階段の両側へ石像が並んでいる。
「最後の四天王がいるらしいな」
レイグが言った。
「料理勝負、幻術と来たら、次は何だ?」
俺はしゃもじを構えた。
「……筆記試験?」
ユウマが笑う。
「それが一番苦手そうですね」
「うるさい!」
塔の扉は、触れる前に開いた。
中から小柄な老人が現れる。
長い白髭。
背中には古びた本。
老人は俺のしゃもじを見た。
そして、その場に膝をついた。
「お帰りなさいませ」
俺は固まった。
「……誰に言ってる?」
「原初の調律器を持つ方に」
「俺?」
「正確には、その道具に」
「道具のほうかよ!」
レイグは警戒を解かなかった。
「名を名乗れ」
老人は頭を下げた。
「第四四天王、記録守のオルドと申します」
「四天王なのに、戦わないのか?」
元王子が尋ねる。
「戦えば、この塔の本が燃えます」
「それは困るな」
俺は即答した。
オルドは目を細めた。
「あなたは、勝利より本を守ることを選ぶのですか」
「本って、一度燃えたら戻らないだろ」
「……そうですな」
老人は立ち上がり、道を開けた。
「ならば、どうぞ。あなたがたにお見せしたい記録があります」
塔の中は、天井まで本棚が続いていた。
木の階段が何重にも巡り、中央には大きな水晶が浮かんでいる。
スラが興味津々で棚に近づいた。
「触るなよ! 紙が湿る!」
ぷるん。
オルドが笑った。
「魔物に注意する勇者とは、珍しい」
「最近、俺も自分が何者か分からない」
「それは、ここで分かるかもしれません」
老人は塔の鍵束を見せた。
「この塔には、開けてはならぬ扉もあります」
「なんで?」
「危険な知識が眠っているからです」
俺は少し考えた。
「隠しておけば、安全なのかな」
オルドは答えに迷った。
「少なくとも、悪用は防げます」
「でも、必要なときに誰も知らなかったら困るだろ」
老人は静かに頷いた。
「……その通りです」
元王子が言った。
「公開する範囲と、守る方法を決めましょう」
俺は笑った。
「それなら、ちゃんと話し合えるな」
オルドは初めて、心から安心したように微笑んだ。
図書塔の奥には、焼け焦げた本だけを収めた部屋があった。
オルドは扉を開ける前に、深く息を吸った。
「かつて、ここには数万冊の記録がありました」
「今は?」
「半分も残っておりません」
壁には古い火災の跡がある。
「戦争で?」
俺が尋ねると、老人は頷いた。
「人間の軍が攻めたときも、魔王軍が内部で争ったときも、書物は燃えました」
元王子が眉をひそめた。
「王国軍も、この塔を襲ったのか」
「遠い昔のことです」
「昔でも、消えた記録は戻らない」
元王子はそう言って、焼けた背表紙に触れた。
俺は彼の横顔を見た。
王国の歴史にも、知らないことがある。
魔王領の歴史にも、知らないことがある。
どちらか一方だけが全部正しいなんて、たぶんない。
「オルドさん」
俺は尋ねた。
「ここにある本、王国の人にも見せられますか?」
老人は驚いた顔をした。
「……何のために?」
「同じ失敗を繰り返さないために」
ユウマが頷いた。
「研究所の記録も、隠したままならまた誰かが利用します」
ゲイルは静かに言った。
「俺のことも、記録していい」
俺は振り向いた。
「いいのか?」
「番号だけじゃなく、名前も残すなら」
オルドは深く頭を下げた。
「もちろんです。ゲイル殿」
ゲイルの肩から、少し力が抜けたように見えた。
塔の中央へ戻ると、スラが本棚の前で跳ねていた。
「どうした?」
ぷるん。
棚の隙間から、一枚の薄い板が落ちてきた。
そこには、しゃもじを囲む複数の手が描かれている。
「……これ、何だ?」
オルドは板を受け取り、目を見開いた。
「失われた挿絵です」
「大事なもの?」
「原初調律器を扱う場面を描いた、唯一の図かもしれません」
絵の中央には白い道具。
その周囲には、人間とも魔族とも分からない影が何人も立っていた。
俺は首をかしげた。
「一人で持ってないんだな」
オルドはしばらく絵を見つめた。
「……そうですな」
その返事には、驚きが混じっていた。
案内されたのは、最上階の小部屋だった。
中央には一冊の分厚い本が置かれている。
表紙には、しゃもじと同じ形の紋章。
俺は息を呑んだ。
「……本当に、これが?」
オルドが頷く。
「この世界が生まれたころから伝わる記録です」
ゲイルが尋ねた。
「魔王は、この道具を何に使うつもりだ」
老人はすぐに答えなかった。
「魔王様は、世界を救おうとしておられます」
レイグの目が細くなる。
「十万の軍で攻めてきた者が?」
「それも、事実です」
オルドは静かに続けた。
「救うためなら何をしてもよいと考え始めたとき、正しい目的は危険なものになります」
俺はその言葉を聞き、北方の魔物たちを思い出した。
黒い輪で縛られ、嫌がりながら戦わされていた。
「……魔王は、あいつらを守りたいのか?」
「守りたいのでしょう。ただし、彼ら自身の望みを聞いてはいない」
元王子が腕を組んだ。
「それは保護ではなく、支配だ」
オルドは頷いた。
「だからこそ、私はここで待っておりました」
老人は俺のしゃもじへ視線を向ける。
「道具の本来の役割を知る者が、魔王様を止めてくださることを」
俺は本を開いた。
最初のページには、読めない文字が並んでいた。
けれど、しゃもじを近づけると、文字がゆっくり動き始めた。
ユウマが目を丸くする。
「……翻訳されています」
俺は恐る恐る声に出した。
『世界は、最初から整っていたわけではない』
その一文を読んだ瞬間、水晶の中に光が満ちた。
暗い空間。
渦巻く色。
まだ大地も海もない、何も定まっていない世界。
オルドが呟いた。
「原初の混沌です」
俺はしゃもじを見下ろした。
「……これで、世界を作ったっていうのか?」
老人は答えた。
「はい。少なくとも、世界を世界として保つために使われたのです」
俺はしばらく黙っていた。
そして、思わず叫んだ。
「そんな大事なものを、なんで俺に渡したんだよ王様!!」
塔の中に、俺の声が響き渡った。




