第四十五話 魔王領に入ったら、魔物たちが歓迎してきた
魔王領との境界は、思ったより普通だった。
地面に大きな亀裂があるわけでも、空が真っ赤なわけでもない。
低い丘と、曲がった木が続いている。
「なんか、もっと禍々しい場所を想像してた」
俺が言うと、レイグが答えた。
「観光地じゃないんだぞ」
「観光地なら入場料があるかも」
ユウマが笑う。
「魔王城見学ツアー、勇者割引」
「割引より命を保証してほしい!」
最初に現れたのは、小さな角を生やした魔物だった。
道の真ん中で、こちらを見つめている。
俺はしゃもじを隠そうとした。
その瞬間。
ぺこり。
魔物が頭を下げた。
「……え?」
後ろから二匹、三匹。
みんな頭を下げる。
レイグが剣に手をかけた。
「油断するな」
「でも、挨拶してるぞ?」
俺は恐る恐る手を振った。
「こんにちは?」
魔物たちが一斉に道の脇へ移動した。
「……通してくれるらしい」
元王子が眉をひそめる。
「魔王軍の命令かもしれない」
「それにしては、怖がってるようにも見えません」
ユウマがしゃがみ込んだ。
一匹の魔物が、俺のしゃもじをじっと見ていた。
目を輝かせ、嬉しそうに跳ねる。
「お前、これ知ってるのか?」
ぷるん。
「スラじゃないのに返事が同じ!」
ピカウルフが鼻を鳴らした。
道を進むと、小さな集落が見えてきた。
木造の家、畑、井戸。
角のある子どもたちが走り回っている。
「……魔王領にも村があるんだな」
俺は足を止めた。
「当たり前だろ」
レイグが言う。
「魔王軍の兵士も、どこかで暮らしている」
分かっていたつもりだった。
でも、実際に見ると不思議な気分になる。
村の入り口で、年配の魔族が俺たちを迎えた。
「その白い道具を持つ方ですな」
「しゃもじです」
「古い言い伝えにあります。乱れを鎮める白い器具を持つ者が、いつか帰ってくると」
「帰ってくる?」
俺は首をかしげた。
「初めて来たんだけど」
老人は微笑んだ。
「道具が、です」
俺たちは村の広場へ案内された。
警戒していたレイグも、子どもたちがピカウルフに群がるのを見て剣から手を離した。
「触ってもいい?」
小さな魔族の女の子が聞いた。
「噛まないと思う」
「思う!?」
レイグが突っ込む。
ピカは尻尾を振って腹を見せた。
完全に犬である。
村で一夜を過ごすことになり、俺たちは井戸のそばで荷物を下ろした。
すると、角のある子どもたちが集まってきた。
「人間って、本当に角がないの?」
「ないぞ」
「不便じゃない?」
「角って便利なの?」
子どもは得意そうに頭を振った。
「高い枝の果物を落とせる!」
「便利だな!」
レイグは呆れたように笑っていた。
「お前、すぐ馴染むな」
「子どもと話すのに剣はいらないだろ」
そのとき、井戸の奥から嫌な匂いがした。
老人が顔をしかめる。
「このところ水が濁っておりまして。遠くの泉まで汲みに行く者もおります」
俺は井戸を覗いた。
底には黒い泥が溜まっている。
水面には細かな泡。
「スラ、調べられるか?」
ぷるん。
一匹が細い糸のように伸び、井戸の内壁を伝って下りていく。
「ちょっと待て」
元王子が止めた。
「飲み水だ。魔物を入れて大丈夫なのか?」
「そうだな。まず汲み上げて別の容器で調べよう」
俺たちは井戸水を桶に移した。
スラが泥と水を分けると、底から古い金属片が出てきた。
ゲイルが拾い上げる。
「……魔力制御の部品だ」
「こんな村に?」
老人は顔を曇らせた。
「数年前、軍の荷車がここで壊れましてな。残骸を井戸の近くへ捨てていったのです」
俺はしゃもじを握った。
「捨てたものが、ずっと水を汚してたのか」
スラたちに汚泥の分離を手伝ってもらい、村人たちと井戸を清掃した。
最後は水を何度も汲み出し、村の年長者に確認してもらう。
「すぐ飲んでいいとは言えない。しばらく様子を見てくれ」
俺が言うと、老人は深く頭を下げた。
「十分です。長いこと、誰も見向きもしませんでした」
その言葉が胸に残った。
戦争で壊れるのは城壁だけじゃない。
こんな小さな井戸も、誰かの暮らしも、少しずつ壊れていく。
夕食の席で、村の女の子が俺に小さな木の札を渡した。
「これ、道に迷ったら見せて。うちの村の印だから」
「ありがとう」
札には、笑った角のある顔が描かれていた。
ユウマが覗き込む。
「カイさん、魔王領で通行手形を手に入れましたね」
「役所の許可証より役立ちそうだ」
元王子が苦笑した。
「否定できない」
翌朝、村を出るとき、老人は言った。
「魔王様が何をお考えか、私どもには分かりません。ただ、戦争が終わるなら嬉しい」
俺は頷いた。
「できるだけ、そうなるようにする」
その約束も、荷物の中へ加わった。
村の外れでは、魔族の兵士が畑仕事を手伝っていた。
片腕に包帯を巻いている。
「戦争に行かないのか?」
俺が聞くと、兵士は苦笑した。
「戻ってきたばかりだ。今は種を蒔く」
「敵だったかもしれないな」
「そうかもしれない」
二人でしばらく黙った。
兵士は土を指差した。
「種は、人間の畑でも魔族の畑でも同じように芽を出す」
俺はその言葉を覚えておこうと思った。
旅の目的が、少しずつ変わっていく気がした。
村の子どもたちが手を振っている。
俺も振り返した。
境界線は地図の上にはっきり描かれていても、笑顔まで分けることはできないらしい。
夕食には、黒いパンと豆の煮込みが出た。
俺は一口食べた。
「……うまい」
「魔王領の食事が?」
元王子が驚く。
「失礼すぎるだろ!」
老人は苦笑した。
「戦争が続き、食材は不足しております。それでも、食べることを諦めたくはありません」
その言葉に、俺は返事ができなかった。
ここにも暮らしがある。
敵の領地だと思っていた場所にも、守りたい日常がある。
夜、老人は小さな石碑を見せてくれた。
表面には、しゃもじによく似た白い道具が刻まれている。
その下の文字をユウマが読んだ。
『混ぜる者は、分け隔てなく聞け』
「……何を?」
俺が尋ねると、老人は空を見上げた。
「それを知る者は、もう少なくなりました」
遠くで、魔王城の塔が月明かりに浮かんでいた。




