第三十一話 ゲイルの正体が、魔王軍の最高機密だった
山の北側には、地図に載っていない谷があった。
俺たちは夜明けを待ってから進んだ。
ゲイルはまだ顔色が悪く、歩くたびに右手を握り直している。
「本当に大丈夫か?」
「動ける」
「それ、病人が一番言っちゃいけないやつ」
「……病人ではない」
「じゃあ何だよ」
ゲイルは答えず、前方の崖を指した。
崖の中央に、四角い扉が埋まっていた。
自然の洞窟じゃない。
鉄板を何枚も重ねた、いかにも秘密基地らしい入口だ。
「うわ、悪役の趣味が全開」
ユウマが扉の脇にある古い刻印を見つける。
「文字が読めます。『第七調整所』……その下は削られてますね」
レイグがゲイルを見る。
「ここがお前の言った場所か」
「ああ」
ゲイルは扉に触れなかった。
「俺が目を覚ました場所だ」
俺は口を閉じた。
いつもの冗談を言いかけたけれど、やめた。
ゲイルが続ける。
「俺は生まれた場所を知らない。名前も、誰がつけたか覚えていない。ここで目を覚ましたとき、最初に聞いた言葉は『起動成功』だった」
元王子の顔が険しくなる。
「人間に使う言葉じゃない」
「奴らは俺を人間だと思っていなかった」
扉の向こうから低い機械音が響く。
ゲイルはゆっくり息を吐いた。
「ここでは魔物の魔力を人間の体に組み込む実験が行われていた。俺は、その成功例と呼ばれた」
「成功例……」
レイグが繰り返す。
「なら、さっきの力は」
「俺のものでもあり、俺のものではない」
ゲイルは右腕の袖をまくった。
皮膚の下に、薄い黒い線が残っている。
「強くなればなるほど、俺の意思を離れて動く。何人も同じ実験を受けたが、ほとんどは戻らなかった」
ユウマが聞く。
「どうして逃げられた?」
ゲイルは少し迷ったあと、答えた。
「ある日、輸送中に施設の外へ出された。監視の兵が倒れ、鎖が切れた。俺は逃げた。山の中で追っ手に囲まれたとき、女が現れた」
「……姉さんか」
元王子が呟く。
ゲイルは頷いた。
「俺が誰かも知らずに、追っ手を殴り倒した。倒れた俺に水を飲ませ、追われている理由も聞かなかった」
俺は思わず笑った。
「姫らしいな。質問する前に拳が出る」
「それが、俺にとって初めての普通の扱いだった」
笑いが止まった。
ゲイルは遠くを見た。
「だから借りを返したい。あの人が守ろうとするものを、俺も守りたい」
元王子は何も言わず、ゲイルの肩に手を置いた。
「……姉さんに、いつか直接言ってやって」
ゲイルが小さく頷く。
そのとき、扉の上に赤い光が灯った。
『識別対象、帰還』
無機質な声が谷に響く。
「うわ、喋った!」
『第七試験体、確認』
ゲイルの顔から血の気が引く。
『回収手順を開始します』
扉の左右から金属の腕が伸びた。
レイグが剣で一本を弾く。
ユウマは足元の溝を見て叫んだ。
「下がって! 床も動きます!」
地面が開き、鎖が飛び出した。
「いやいや、歓迎が物騒すぎる!」
俺はスライムを溝へ送り込み、鎖の歯車に絡ませる。
ぎぎぎ、と音を立てて動きが止まった。
元王子が扉の横の制御盤を叩く。
「止める方法は?」
「知らん!」
「勇者だろ!」
「勇者は説明書じゃない!」
ゲイルが前に出ようとしたが、俺は腕を掴んだ。
「お前は下がれ。向こうはお前を取り戻したいんだろ」
「しかし」
「今度は俺たちが守る番だ」
スラが制御盤に張りつく。
俺はしゃもじを押し当てた。
機械の中で、複数の歯車が別々の速さで回っている感覚が伝わる。
「……これ、混ぜたらどうなる?」
「やめろ、爆発するかもしれん!」
レイグが叫ぶ。
「じゃあ、混ぜずに揃える!」
回転を合わせるように、ゆっくりしゃもじを動かす。
金属音が静かになり、赤い光が黄色へ変わった。
『保守点検モード』
扉が開く。
「……開いた」
ユウマが笑う。
「敵の施設に、正面玄関から入れる勇者は初めて見ました」
「入館証がしゃもじってどうなの」
扉の奥は暗い。
壁に古い傷があり、床には錆びた拘束具が転がっていた。
ゲイルが一歩入る。
その背中が、少し震えている。
俺は隣に立った。
「嫌なら戻ってもいいぞ」
「……戻らない」
「なら一緒に行こう」
奥の壁に、七つの名前のない区画が並んでいた。
そのうち六つは黒く塗り潰され、最後の一つだけに文字が残っている。
『第七試験体・ゲイル』
そして、その下には新しい記録があった。
『第八試験体、培養開始』
その文字の下には、さらに小さく予定時刻が刻まれていた。
ユウマが顔を強張らせる。
「……今夜です。今夜、次の実験体が起動します」
「止める方法は?」
「この施設のどこかに中枢があります。でも、ここからでは場所が分かりません」
ゲイルは拳を握った。
「俺と同じ目に遭わせたくない」
俺は頷いた。
「じゃあ、急ごう。番号を一つ増やさせる前に」
俺は顔を上げた。
「……まだ、終わってないじゃん」
通路の壁には、同じ大きさの傷がいくつも並んでいた。
俺はしゃがんで、その高さを確かめた。
「これ、剣の傷じゃないよな」
ゲイルが答える。
「逃げようとした者が、扉を叩いた跡だ」
俺は手を止めた。
「……そうか」
ユウマは壁に残された記号を読み取った。
「区画ごとに番号がありますね。管理しやすいように、ということなんでしょう」
「名前は?」
「ありません」
俺はしゃもじを握り直す。
「名前がないと、呼ぶとき困るだろ」
「研究者にとっては、困らなかったんだろうな」
レイグの声は冷たかった。
ゲイルは何も言わない。
俺は彼の肩を軽く叩いた。
「でも、お前はゲイルだ。番号じゃない」
ゲイルが目を伏せる。
「……ああ」
その一言だけで、十分だった。
施設の天井には、小さな窓が一つだけあった。
そこから細い光が差し込んでいる。
ゲイルは窓を見上げた。
「昔、あの光を見て、外があることを知った」
「外を知らなかったのか?」
「知識としては。だが、風の匂いも、雨の冷たさも知らなかった」
俺は黙って聞いた。
「初めて山に出たとき、足が震えた。怖かったからじゃない。空が広すぎたからだ」
俺はしゃもじを肩に乗せた。
「今は?」
「……まだ広い」
「そりゃそうだ」
「でも、嫌いじゃない」
その答えに、俺は笑った。
ゲイルがいつか、何の心配もなく空を見上げられる日が来ればいい。
奥へ進むと、小さな食堂らしい部屋があった。
長机には錆びた食器が並び、壁には古い勤務表が残っている。
「ここで働いてた連中も、普通に飯を食ってたんだな」
俺が呟くと、ゲイルは首を振った。
「俺たちはここへ入れなかった。食事は別の部屋で、決められた量だけ与えられた」
「……そうか」
俺は机の端に残された木の匙を見た。
「なあ。施設を止めたら、今度はみんなで飯を食おう」
「……急に何を」
「お前も、あの第八ってやつも。自分で好きなものを選べる食事だ」
ゲイルは少しだけ驚いた顔をした。
「俺は、好きな食べ物を知らない」
「じゃあ探せばいい」
レイグが肩をすくめる。
「まずい料理を引いたらどうする」
「それはそれで思い出になる!」
ユウマが笑った。
「勇者の目標が、世界平和から食堂の献立になりましたね」
「食事は平和の基本だろ!」




