第9話 距離感
それから、四方との関係がいきなり親密になる――なんてことはなかった。
寮に戻ってしまえば、所詮ただの先輩と後輩であって、向こうは三年生。
一年生の國弘にとって、寮会以外で四方と関わる機会など、もともと皆無だったのだから。
それでも数日のあいだは、日曜日に四方と交わした言葉や、ふとしたときの彼の表情を思い出して、一人で幸せな気分に浸った。
しばらくしてそれも落ち着いてきてくると、今度は代わりに、寂しさが押し寄せてきた。
少し前までは、週に一度、わずかな時間でも会えれば十分だと思っていたのに。
日曜日に四方と過ごした時間は、楽しかった。
楽しすぎた。
水曜日の朝。
國弘は一人で食堂に向かった。
普段は同室の伊波と朝食をとるのだが、彼は腹痛で、まだ寮のトイレに籠もっている。
食堂の前には、制服の生徒たちが列を作っていた。
最後尾に並ぶと、朝の湯気に混じって、茹でたキャベツとじゃがいもの匂いが鼻をかすめた。
半分眠っている胃が、きゅっと縮む。
しばらくして列が進み、食堂の中に入ると、大きな窓から差し込む白い光が眩しくて、何度か瞬きする。
食堂は、木目調のテーブルがずらりと並び、大勢の生徒達で溢れていた。
朝食を載せたトレーをカウンターで受け取って、空いている席を探していると、遠くの窓際に四方の姿が目に入った。
食事をとるだけの何気ない姿なのに、隙のない美しさは遠くでもわかる。
カウンターからだいぶ離れているせいか、四方の周りに人はいなかった。
國弘はふと、四方と一緒に朝食をとってみようか――そんな気持ちになった。
普段なら絶対にしないけれど、日曜日の件もあって、いつもより気が大胆になっている。
何より、早く四方と会いたかった。
「前、いいですか」
四方の前の席まで来て、そう声をかけると、彼はそこでようやく國弘に気づいたようだった。
瞳が一瞬だけ驚きに揺れて、口の中のものを慌てて飲み込んだらしい。小さく咳払いをしてから答えてくれた。
「どうぞ」
國弘が想像していたよりも、ずっとあっさりした返事だった。
いつもなら、多少なりとも笑みを返してくれるのに、今日はそれがない。
怒っているようには見えないが、どこか距離を置かれているような気がして、心がざわついた。
四方のトレーを盗み見ると、食事はもう半分以上片付いていた。
黙っているのが気まずくて、國弘は思わず口を開いた。
「その、日曜日は、ありがとうございました」
四方はこちらを見なかった。
「ああ、うん。でも、その話はちょっと……」
距離感を間違えた――そう思った。
ここ数日、四方のいないところで勝手にふくらんでいった思いが、彼との距離を錯覚させていたのかもしれない。
現実はただの先輩と後輩で、寮会以外で接触しようなどと思ったことを、後悔した。
四方は黙って食事を続けていて、國弘も仕方なく自分のトレーに手を伸ばす。
食パンをちぎって口に入れたものの、まったく味がしない。飲み込もうとしても喉に引っかかってしまい、スープで無理やり流し込んだ。
「なにか用だった?」
そう言って、ようやく四方がまともにこちらを見た。怒っているわけではない。ただ、純粋に質問しているだけ。それなのに、胸がちくりと痛む。
(――用がなかったら、話しかけちゃだめですか)
口には出せない思いを胸の内に押し込め、國弘は慌てて言葉を探した。
「四方先輩って、一年のときすごい勉強したって言ってたじゃないですか? その、勉強のやり方とか……教えてほしくて。あ、先輩も忙しいと思うんですけど……」
それが、今とっさに考えた『用』だった。
視線が合わせられず、スプーンでスープのじゃがいもをぐずぐずと潰す。
今のタイミングで頼んでも、断られるに決まっている――そう思った瞬間。
「いいよ」
「え」
思わず顔を上げる。
四方はすでに食べ終わっていたのか、ジャムの空き容器やビニールを、トレーの端にまとめていた。
「時間とかはまた連絡する」
そう言って立ち上がり、こちらを見て一言訊ねた。
「それだけ?」
「……はい」
四方は、「そっか。じゃあまた」とだけ言うと、静かに席を後にした。
(嫌われたのかな……)
残りの食事を口に運びながら考える。
いや、嫌っていたら、そもそも勉強方法を教えてくれなんて話、受けてくれないだろう。
それはわかっているのに、動揺は収まらなかった。




