第42話 四方
屋上に出た瞬間、刺すような一月の風がビュンと吹き付けてきて、國弘はぎゅっと縮こまった。
さっきまでいた体育館裏よりも開けた場所だからか、冷たい風が吹きすさぶ。
それなのに、晴れている空から差し込む陽射しは、じんわりと温かかった。
教育棟の屋上は、縦格子の安全柵に囲まれた、庭のようなオープンスペースだ。
転落を絶対に許さない、という設計のわりに視界は広く、格子の隙間をすり抜けて冷たい風と陽の光はまっすぐ届く。
季節のいい時期には、休み時間にここで本を読んだり、昼食をとる生徒で賑わう場所だが、今は人影一つない。
四方は無言のまま、安全柵のほうへまっすぐ歩いていく。國弘も後を追い、少し後ろの微妙な距離に立った。
二人の影が細く並んだ。
「四方先輩は……、一条先輩のこと、好きだったんですか?」
意を決して訊ねると、四方は遠くを見つめたまま小さく息を吐き、「……好きだった……かなぁ」と、過去の想いを確かめるように言った。
「尊敬していたし、格好良いとは思っていた。少なくとも、嫌いではなかったよ」
その歯切れの悪さに、簡単には割り切れない複雑なものがあるのだとわかる。
四方はふとこちらを向き、いたずらっぽく目を細めた。
「佐伯から、いろいろ聞いた?」
「はい、なんとなく、って感じですけど……」
佐伯が目撃した、四方と一条の行為のこと。そして一つの可能性。
四方が一条に性的な関係を強いられていたのではないか、ということ。
「佐伯はさ、美徳が俺のことをレ◯プしてたってくらいに思ってる節があるんだ」
言い出しづらいことをあっけらかんと口にされ、國弘は目を丸くした。
「えっと、じゃあ……違うんですね?」
四方は頷いた。
「違う。美徳でも流石にそこまではしない。……エッチだって、俺も好んでやってたわけじゃないけど、それをレ◯プと言うには、流石に美徳が可哀想だよ」
あけすけな口ぶりに、國弘は聞きながらドキドキしていたが、なるべく顔に出さないように努めた。
そんな素振りを見せたら、せっかく取り繕わずに接してくれている彼が、隠れてしまう気がした。
「単純に、美徳は……僕のタイプでなかったんだ」
四方は軽く、言い捨てるように言った。
「美徳と付き合っていたのは、もっと現実的な理由。僕はずっと、どこかで『男と付き合う』という経験をしておく必要があると思ってた。自覚はあっても、確信があるわけではなかったし」
四方は柵にもたれかかるようにして、視線を落とした。
「でも、相手は誰でも良いわけじゃないし。この見た目もあるし、怖いことや酷いことなんて簡単に起こる。
そういう中で、好意を向けられた中で、嫌じゃないかも、と思えたのが美徳だった」
――一条との関係は自分が望んだものですらあった。
佐伯が、一条との関係を四方に問いただしたときに聞いた言葉。あそこに、何ら嘘は含まれていなかったのだ。
どこかで、四方を『悲劇のヒロイン』であってほしいと願っていたのかもしれない、と國弘は反省した。
美しい彼には、それが似合いすぎているから。
「四方先輩は、どんな気持ちで、一条先輩と付き合っていたんですか?」
四方はしばらく遠くを見つめ、静かに口を開いた。
「最初は、孤独が満たされた満足感があった。人と共有できないと思っていたものを、唯一共有できる相手を見つけられたっていう感覚。
これが恋愛感情なのかなって思ったり。
でも、小さな期待と絶望と、そんなのを繰り返していく中で、なんか違うかもって」
太陽が薄い雲に遮られて、少しだけあたりの光が沈む。
「こんな身なりしてって思うかもしれないけど、僕は結構、男らしくいたいって思う人間なんだ。
でも美徳のパワフルさを前にしたら、そういうのは必然的に押し殺されてしまうから。
それがつまり、タイプじゃないってこと」
「なる……ほど……」
「幸か不幸か、美徳は僕に本気で惚れてた。だから佐伯の考えるようなことはなかったし――まあ、もう子供じゃいられないんだな、みたいな喪失感はあったけど、ホント、普通に感謝はしてた」
さらりと言われた言葉に、揺さぶられる感じがした。
四方は、「だから――」と言って、國弘の反応を窺うようにこちらを見て、続けた。
「……卒業するまでは、好きに使えよって。悪くいえば、付き合ってやってるって感じ」
残酷な言葉だった。
一条が、もし純粋に四方を愛していたのだとしたら、なおさらだ。
「あいつが卒業間近になったとき、正直に言ったんだ。良い機会だから、もう別れようって。それがちょっと拗れた。
あいつ、『この世界でお前を理解できるのは俺だけだ』って感じで、しつこいくらいに食い下がられて。
それで僕、あるときイラッとして言っちゃったんだ」
四方は、その先を言葉にするのを躊躇ったようだった。
「その…なんて……?」
待てなくて、思わず訊いてしまう。
「――『寮祭ごときで調子に乗るのやめたら?』って」
冷たい風が、二人の間をザッと抜けていった。
四方は続けた。
「いつもの軽口のつもりだったけど、あいつは珍しく本気でキレてさ、『じゃあテメェもやってみろよ』って」
――『四方が舐め腐っているからだ』
佐伯が一条から聞いた言葉だ。
「だから、次の寮長は木曽先輩ではなくて、四方先輩になった……」
「ああ、そう。もう、知ってるかも知れないけど、木曽が寮長になる予定だったのに、一条が寮長として発表したのは、僕だった」
四方は淡々と続けた。
「僕、絶対寮長なんて向いてないでしょ?
木曽も一年の時から寮長狙ってたし、プライドはズタズタ。美徳を無視して木曽に寮長の座ゆずる、なんてこともできたんだろうけど……木曽は美徳にめちゃくちゃ憧れてたからさ。
その美徳が、自分を指名してくれなかったことに完全に拗ねてた」
「……一条先輩にとって、寮祭は、大事なものだったんでしょうか?」
四方は軽く頷いた。
「多分、ね。寮祭を通じて、寮生の目を輝かせることができた、というのは誇りだったんだと思う。それと、寮祭がなかったら、僕も一条と付き合ってなかったと思うし」
なるほど、と思った。
寮祭は、自分の寮長としての力を示す大きなイベントであったと同時に、四方との出会いの象徴でもあったのだ。それを否定された、ということなのだろう。
四方のコートの裾が風にはためいていた。
「僕自身も正直、言いすぎたなとは思った。
あとは、美徳を弄んだ形になったのも事実だし……罰というか、ケジメというか。そう思って、寮長の役目を果たそうと思った」
四方はそこで言葉を切った。
薄い雲から太陽が抜け、世界は再び明るくなった。
四方の話は終わったようだった。
國弘の胸の奥に、たった一つの疑問が浮かぶ。ずっと、ずっと彼に訊いてみたかったこと。そして、ずっと訊けずにいたこと。
「四方先輩は、俺のこと、どう思ってるんですか?」
四方は何も答えず、ただ國弘を見つめていた。
「――何で俺を、映画に誘ったんですか?」
多分、そこから全ては始まった。
先輩が後輩を遊びに誘う――それ自体は、決して珍しいことではない。でも佐伯は言っていた。四方は自分が一年生にどう見られるか、絶対に自覚していると。
――四方が純真無垢な一年を、たぶらかしているようにしか見えなかった
佐伯の冷静な目は、自分たちをそう捉えていた。
今の話を聞いていて思う。
それは真実かも知れない、と。
俺はこの人に、誑かされていたのだろうか。一条のように、何かの理由で、弄ばれていたのだろうか。
四方は、クスリと笑顔を零した。
「僕も國弘くんには、ちょーっとだけ、油断しちゃったかな」
「油断?」
真剣なこちらの問いにも、四方は笑顔を崩さない。
「國弘君はね、僕のタイプなんだ。可愛くて、育ちも良さそうで、本も読める子」
タイプ。
一条はタイプじゃなかったから、別れた。
そして、自分のことはタイプだった。
あまりに単純な評価だった。
でもそれを表面的だと言うなら――國弘が四方に抱いてきた感情だって、十分表面的なのかもしれない。
「君をどうこうしたい、とかは本当になくて。
でも単純に、タイプの男の子と一緒にいるのは楽しいからね。だから、映画に誘っちゃったりした。
國弘くんのことはね……最初会ったときから、可愛いなって思ってたし」
「最初?」
國弘は思わず問い返す。
「寮内ツアー。國弘くんの入学前に案内したでしょ。あのとき」
言われた瞬間、視界がくらりと揺れた気がした。
「覚えて……いるんですか?」
「ん? もちろん」
四方が自嘲気味に続ける。
「國弘くんの前では、ちょっとカッコつけてたかも。僕のそれって精度が高いから、普段はもうちょっと抑えるんだけどね。
まあオープンキャンパスの一期一会なら、許されるかなって」
自分の魅力を、完全に把握している。不思議と、四方が言うと嫌味に聞こえない。それどころか、僅かに寂しさすら漂っているような気がした。
「まさか追いかけてくるとは思ってなかったけど……。――あ、君が留学を蹴って城青に来たのって、そういうことでしょ?」
悪びれず聞かれて、國弘は「はい」と答えるしかなかった。完全にバレていた。
でも、四方と自分の、どこかで通じ合っていた気持ち。
完全な形でないにしても、それは、両思い、といえるのだろうか。
だとしたら、なぜ、と思う。
「じゃあ、その……俺が好きって言った時。『好きなんて言うもんじゃない』って、あれは……」
「ああ」
四方は軽く息をついてから、笑顔を落として真剣な表情になった。
「君が僕に惹かれているのは、なんとなくわかったし、僕も君のことは気に入ってたよ。
でも……恋愛とかってなったら、それはちょっとさ。僕と君の間には、いくつも超えなきゃいけないハードルがある気がした」
四方の声だけが落ち着いて響く。
「僕は、本当に同性愛者なんだよ、國弘くん。
生きていく中で向き合ってきた現実や覚悟が、たくさんある。そして……あのときの君には、それを超えるだけの力があるとは、とても思えなかった」
國弘のことをタイプ、と言ってはしゃぎながらも、しかし四方の目はどこかで冷静だった、ということだろう。
四方はそこで一度大きくまばたきをし、息を吐いた。
「好き、なんて言われて、こうなっちゃうのか、どうしようかなって。
そしたら、僕と美徳の関係に憧れてる、なんて言い出すから……イラッとしてしまって。
――わかった気になるなよって」
低い声に、どきりとした。
「だから――脅かした。君が超えなきゃいけないハードルってこういうことだよって。すこし意地悪なやり方だったけど」
あの時の光景が蘇る。今でも恥ずかしい記憶として、國弘に刻み込まれている。確かにあの時、自分には四方との関係を恋愛に発展させるような力を、持ち合わせていなかった。
「僕も、傷つけたのは悪かったと思ってる。でも、それで離れるなら、仕方ないと思った。だって、そういうものだから」
「仕方ない……」
心のどこかがぎゅっと掴まれる感じがした。
この人は、どれほどの『仕方ない』を積み重ねてきたのだろう。
「それなのに君が、いつの間にか佐伯の弟になってて、佐伯が企画を手伝うことにもなって……あれは本当にびっくりした」
苦笑し、すぐにその笑みも消える。
「寮会も、寮祭も、上手くいってなかった。
上手くいく気もしなかった。
去年みたいには盛り上げられないまま失敗して、その責任を全部僕が引き受けるだろうって……そんな未来しか想像できなくて。
僕は、大抵のことは諦められるし、受け入れられる。でも寮祭に関しては……正直なところ、平気とは言えなかった。全然」
静かな口調だったが、そこに彼が感じてきた辛さが滲んでいた。
「だから、國弘くんには本当に助けられたし、正直見直した。君は状況を見て、自分の良心に従って、ちゃんと動ける人間なんだって。
しかも君の行動には、僕を振り向かせようって意図が、これっぽっちも感じられなかった。
そういうところ――すごく、いいなって思ったよ」
頬が熱くなった。
さっきはタイプ、などという言葉が軽く響いたが、今では、きちんと國弘を見てきて、それを評価してくれたのがわかった。
何か言いたいのに、喉が詰まって声にならない。
そうしている間に、四方が「でも――」と続けた。
「佐伯に邪魔されちゃった。
佐伯ってほんと真っ当だよね。僕の君への興味が、君を必ずしも幸運じゃなくて、最悪、ひどく傷つけることになるって、わかってるんだから」
四方は肩をすくめ、呆れたように笑った。
「それなのにさ――君、で『四方先輩が好きです』って佐伯を怒鳴ったんだって?」
まだ少し笑いながら、首を傾ける。
「せっかくまともな先輩が守ってくれようとしてたのに。それを振りほどいて、僕のところに来た感想は?」
畳み掛けるように、彼の唇が動く。
「どう? ――まだ、僕のこと好き?」




