第36話 外①
日曜日、当然のように、昨夜のことはもう寮中に知れ渡っていた。
同じ学年の連中が何人も、國弘の顔を見るなり「大丈夫か?」「どうしたんだよ?」と声をかけてきた。
本当に、心配してくれているのかもしれないが、そのすべてが國弘にとっては、下世話な好奇心と、わずかな蔑みを含んだ声にしか聞こえなかった。
唯一、伊波だけは、昨夜部屋に戻ったときに、「お前、なんかわかんねぇけどすげぇな」と言っただけだった。
食堂で昼食をとり、時刻は十三時。
國弘は言われた通り、勉強道具の入った学校用の鞄を背負って、寮の玄関へ向かった。
昨夜あれほど荒れてしまったことを思うと、気まずくはあった。
けれど佐伯は、少なくとも根に持つような性格ではない――そう信じたかった。
玄関脇に、姿勢よく立つ佐伯の姿を見つけた瞬間、その思いはいよいよ確信に近づいた。
「佐伯先輩」
声をかけると、佐伯は「おう」と短く返しただけで、そのまま歩き出した。國弘は少し遅れて、その背中についていった。
学校前のバス停で並びながら、佐伯に尋ねてみる。
「どこに行くか、聞いてもいいですか?」
佐伯は横目だけでこちらを見て、ぽつりと言った。
「尾野ヶ丘」
「……どこですか、それ」
「電車で三十分くらい」
「遠……」
思わず本音が漏れてしまう。
普段、学校の敷地で殆どの時間を過ごす國弘にとっては、完全に未知の領域だった。
佐伯の言った通り、バスの終点の駅で電車に乗りかえる。
電車内での佐伯は、ボロボロになった英単語帳を開き、すっかり受験生の顔になっていた。
國弘は声をかけそびれてしまい、ただ隣で、その『会わせたい人』やらの正体を推理することにした。
最も有力なのは――前寮長、一条美徳だ。
一条は四方に未練があり、四方に近づく人間を排除したかった。
そして佐伯は一条を慕っており、國弘を四方から遠ざけていた、というわけだ。
だから國弘を寮から連れ出し、これから行く場所で一条と直接対決をさせるのかもしれない。
目的地が近づくにつれ、國弘の頭はその仮説で埋め尽くされた。
一条先輩とどうやり合えばいいのだろう……大学生に本気で殴られたら、泣いてしまうかもしれない。
ふと、膝の上に置いた鞄を見て、首を捻る。
(いや……殴り合いじゃなくて、勉強対決、するのか?)
そんな心配をよそに、電車は尾野ヶ丘に到着した。
改札を抜けた瞬間、拍子抜けするほど穏やかな空気が流れていた。
駅前には洒落たカフェや小さな店が並び、駅から真っすぐ伸びる広い道路では、紅葉した街路樹が風に揺れている。
「こっち」
佐伯は迷いなく一本道を歩き出し、途中で脇道に折れた。
その先に現れたのは、全面ガラス張りの大きな建物だった。
入口の看板に「尾野ヶ丘コミュニティセンター」とある。
(コミュニティ、センター?)
こんな場所で、一条先輩と会うのか?
つい緊張感を忘れそうになり、頑張って身構えた。
自動ドアを抜けて建物の中に入っても、佐伯は振り返ることなく、奥へと進んでいく。
やがて、長いテーブルと椅子がいくつも並んだ一角で一度足を止めた。
壁に貼られていた、『交流コーナー』というポップな文字が目に入る。
勉強している制服のグループ。資料を囲んで話し合う大人たち。ランチョンマットを広げて、遅い昼食をとってる人までいた。
――ここが、最終目的地……?
國弘は口が乾いてくるのを感じながら、周囲を見回した。
しかし、いくら探しても『一条美徳』らしき人物はいない。
佐伯は再び歩き出し、テーブルの合間を進んでいく。
そのときだった。
「真帆」
突然、佐伯がそう呼んで足を止めたので、國弘は危うくかかとを踏みそうになり、慌てて後ずさった。
(ん? まほ?)
佐伯の目線を追って、近くのテーブルに座った人物を見る。
真帆と呼ばれたその女性は、机の上に広げたノートから顔を上げ、佐伯を見て微笑んだ。
佐伯はそのまま女性の向かいの席に鞄を置き、國弘も佐伯の横の席に恐る恐る近づいた。
女性も國弘の存在に気付いたのか、肩にかけたショールを椅子の背にかけてから、おもむろに立ち上がった。
「はじめまして。國弘くん、だよね?」
「あ、はい。はじめまして……」
名乗ろうと思ったが、すでに自分の名前を言われてしまったことに気づいて、言葉の行き場を失う。語尾が曖昧になってしまった。
「柏葉真帆です」
彼女は両頬にえくぼを浮かばせて、國弘にニッコリと笑顔を向けた。
整ったセミロングの黒髪に、ざっくりとした白いニット。
女性らしさもあるのに、どこかさっぱりした印象を受ける人だった。
自分より年上な気がするが、女性への解像度の低いせいで、彼女が高校生にも大学生にも見えてしまう。
國弘はもう一度軽く会釈すると、どこに視線を向けていいかわからなくなった。
男子寮で生活をしているせいで、女子耐性がゴリゴリに削られているのを実感する。
というか、この人誰なんだ。佐伯先輩の彼女とか? そんなまさか。
「あ、すみません。えっと、どちら様なのか聞いても……」
すると、すでに席に着いて鞄からノートと参考書を取り出していた佐伯が、すかさず口を挟んだ。
「俺の彼女」
(正解かよっ!)
「先輩、彼女いたんすか……」
「いちゃ悪いかよ」
真帆が苦笑しながら國弘を見た。
「とりあえず、座ろっか?」




