第35話 怒り②
翌日。せっかくの土曜日だというのに、國弘は何もする気が起きず、ただむしゃくしゃした気持ちを抱えたまま、自室で時間をつぶしていた。
ぐるぐると渦巻く感情の中心にあったのは、佐伯への、そして自分への怒りだった。
――國弘くんはどうしたいの?
寮祭のとき、四方ははっきりと自分に問いかけてくれた。
けれどその問いに答えることさえ、佐伯は許さなかった。
もともと寮祭を手伝う条件として、四方と距離を置くことは決まっていた。そのおかげで寮祭は成功し、佐伯のすごさも嫌というほど見てきた。
だからあの瞬間、自分の気持ちを言うなんて無意味だと、自然に諦めてしまった。
佐伯を本気で尊敬しているからこそ、そう思ってしまったのだ。
でも。
でもあのとき答えなかったのは、結局、自分だ。
佐伯が禁止しようと、四方に近づきたい気持ちを言えばよかった。
それを選ばなかったのは、まちがいなく自分だ。
今からでも遅くないのかもしれない。
――なのに。
佐伯が許さない、ということは、まるでこの世界そのものが許してくれないことのように思えてしまう。
佐伯は、この世の全ての正しさを知っていて、そんな人に背けば、確実に罰を受けるような気がした。その罰は、佐伯から下されるというよりも、まるでこの世界が下されるかのように。
馬鹿らしい、と自分でも思う。
なのに、どうしても、佐伯に許してもらわなければならない――そこからは、逃げられない気がしていた。
その夜、國弘は抑えきれない衝動に突き動かされるように、三年生の個室が並ぶ寮の三階へ向かった。
普段、この廊下には一年生はほとんど足を踏み入れない。
フロアに着いた瞬間、空気が自分たち一年生の廊下とはまるで違うのがわかった。幼い雰囲気が、全く感じられない。
どこかから微かに誰かの話し声が聞こえるだけで、廊下は静まりかえっていた。
喉が痛くなる。
勇気を持って、廊下を通りかかった三年生に近づく。相手は國弘を見て、怪訝そうに眉を上げた。
「すみません、佐伯先輩を呼んでもらいたいんですけど」
その三年生は小さく頷くと、そのまま少し離れた扉をノックした。ほどなくして、その扉がわずかに開く。
佐伯の姿はまだ見えない。
その、ほんの数秒が、國弘にはやけに長く感じられた。
扉から出てきた佐伯は、いつもの無表情に近い顔をしていたが、國弘の姿を認めた瞬間、顔をしかめた。
「なんだよ」
低く、短い声。
國弘は、佐伯の視線を真正面から受け止め、じっと見つめ返した。
「……話があります」
二人はエントランスへと移動した。人影はそこそこにあったが、佐伯は込み入った話にはならないと判断したのだろう。
椅子などには座らず、壁に、肩を預けるようにして國弘と向き合った。
「それで?」
「……条件のことです」
その言葉を聞いた途端、佐伯は俯き、いかにも面倒そうに息を吐いた。
「寮祭も終わりましたし……」
決死の気持ちで、思い切って声にする。
「二つ目のやつ、無しにしてください」
自分で言いながら、勝手なことを言っている自覚はあった。
沈黙。
エントランスのざわめきが、やけに大きく感じられる。
佐伯の視線が、ゆっくりと國弘に向けられた。
「少なくとも、俺が卒業するまではダメだ」
たった一言。
その一言で、國弘の心が絶望であふれかえる。
「……理由を」
声が震えた。
「理由を、説明してください」
佐伯はしばらく國弘を見ていた。理由を考えてくれているのだろうか。
兄としてのメンツなどという理由の他に、もっときちんとした理由があれば、自分も納得できるかもしれない――そんな、わずかな期待が胸に浮かぶ。
だが、佐伯はその期待を、あっさりと裏切った。
「……お前には、わからないと思う」
その瞬間。
頭の奥で、何かがぷつりと音を立てて、切れた。
「――ふざけんなっ!」
自分でも驚くほどの大きな声が、エントランスに響き渡った。
佐伯が壁から体を離し、面食らったような顔をした。
すぐに「落ち着け」と言った気がするが、すごく遠くからに聞こえた。
「あんたには、関係ないじゃないですか!!」
叫ぶと同時に、肺の奥の空気まで一気に吐き出していた。
喉にトゲが引っかかっているようだった。
それでも、止まれなかった。
「俺は……俺は、四方先輩のことが好きなんです!」
視界の端で、人の影が増えていく。
いつの間にか、周囲に小さな人だかりができていた。
寮では時折、喧嘩が起こる。
ちょっとした言い合いが、時には殴り合いに発展することだってある。
國弘はそんな光景を、いつもどこか他人事のように眺めてきた。
まさか自分がその中心に立つなんて、思ってもみなかった。
「おい、どうしたんだ?」
寮の男性職員が人をかき分けて駆け寄ってきた。
國弘は情けなくて、俯くしかできなかった。
けれど佐伯は、職員に対して落ち着いた声で応じているのがわかる。
「……はい。すみません、大丈夫です。俺が落ち着くよう言って聞かせるんで……問題になりそうだったらすぐに言います」
職員をその場に残し、佐伯は國弘の腕を掴むと、そのまま有無を言わせず、人気のない自販機コーナーへと引っ張っていった。
「……座れ」
力の抜けた足をどうにか動かして、國弘はベンチに腰を下ろした。
佐伯は自販機でペットボトルの水を一本買い、無言で國弘に手渡す。
自分用には缶コーヒーを買い、少し間を置いて隣に座った。
飲む気など起きなかった。
それでも、手のひらに触れたペットボトルの冷たさと、指まとわりつく水滴が、意識を少しずつ現実に戻していった。
人だかりの視線が、脳裏に蘇る。
明日どんな目で見られるのかを想像しそうになり、慌てて思考を止めた。
佐伯は缶コーヒーを開けて一口飲み、小さく喉を鳴らした。
「お前、そんなに……」
言いかけて、言葉を飲み込み、もう一度缶に口をつけた。
沈黙が続いた。
佐伯が口を開いたのは、しばらく経ってからだった。
「……お前さ。明日、空いてるか?」
「……え?」
唐突すぎる問いだった。
明日は日曜日で、たしかに予定はない。だが、だから、どうしたというのか。
黙っている國弘に、佐伯は続けた。
「……会わせたい人がいるんだ」
「俺は、会いたい人なんていません」
即座にそう言った。
佐伯に困ったような顔をされて、流石に今のは子供っぽかったと反省する。
「……誰、ですか」
「会えばわかる」
その曖昧な答えを聞いた瞬間、さっき鎮まったはずの怒りが、胸の奥で再び火がつきそうになる。もう、佐伯の意味深な態度にはうんざりしていた。
「そういうの、マジで腹立つんですけど」
佐伯は呆れたようにため息を漏らした。
「明日付き合ってくれたら――もう、四方のことには何も言わない。兄弟も、終わりにしていい」
國弘の胸に、奇妙な感情が広がった。
望んでいた自由。
佐伯の束縛から解放される、絶好の条件。
それなのに――胸の奥に差し込んだのは、解放感よりも、うっすらとした虚無だった。
佐伯が、自分に失望したのだと思った。
今の自分は、佐伯の嫌う『馬鹿』でしかなかった。
でももう遅い。
國弘はもう抗うのをやめて、静かに答えた。
「……わかりました」
「じゃあ明日の1時に、エントランスで待ってる。電車で出かけるから、そのつもりで。昼飯は食っとけ」
佐伯はそう言うと、立ち上がった。
「あ、それと、勉強道具も忘れずに持って来い」
「勉強道具……ですか?」
「そ。じゃないと、めちゃくちゃ暇になるから」
会わせたい人、勉強道具。
一体この人は明日何をさせたいのだろう。
疑問は尽きないが、これ以上会話を続けるのが億劫になっていた。
とても、疲れていた。
「……わかり、ました」
もう一度國弘が返事をすると、佐伯はいくらか満足そうに頷いた。




