第2話 寮会②
「お疲れ様です」
四方になんてことないように返事しながら、國弘は自分のいつも座っている席を目指した。
廊下側、一年生が並ぶ席の中で、四方と一番距離が近い場所。
そこがいつもの定位置だった。
会議室には二十分前につくのがちょうどいい。
それより前に来れば四方はおらず、待ち構えているようで恥ずかしい。それより遅いと、他のメンバーが来てしまうので、二人きりの時間が減ってしまう。
席についてから、目だけでちらりと四方の方を窺うと、彼はノートをひろげて何やら書き込んでいる。さっきまで読んでいた本は見当たらない。
その綺麗な横顔を見ながら、伊波に言われたことをふと思い出した。
――お前もとっとと兄貴作れよ
ここで言う『兄貴』というのは、親族という意味の兄弟のことではなく、ブラザー制度の『兄』のことだ。
ブラザー制度とは、下級生一人に対して、同じ寮の上級生一人がビッグブラザー、通称『兄』として指導役になる制度だ。
学校側から推奨されているものの、強制ではなく、ペアも自分たちで決めて申請する。
一年生は普通、入寮してからしばらくして二年生の兄を作り、二年生はすでに三年生の兄がいて、上級生から下級生につながりが生まれる。
兄を作れば、日々の悩みやテスト勉強などの相談にのってもらえたり、寮内でのイジメを避けたりすることもできる。
上級生にしてみれば、先輩としての威厳を示せるし、ちょっとしたパシリにもなる。双方にそれなりにメリットがある制度だった。
ところが、國弘に兄はいない。
兄のいない一年生というのは、すごく珍しい――という程ではないが、それなりに肩身の狭い思いはする。
それでも兄を作れないのは、多分自分の中で四方道哉という存在が大きすぎるのだ。
まさか三年生で寮長でもある四方が、自分の兄になってくれる、などとは期待していない。けれどだからといって、他の先輩の兄を作るのは気が進まなかった。
四方とどういう関係になりたいのかとか、そういうところまでは考えられていない。
ただ、出会って、それ以降ずっと会えない赤の他人で居続ける、というのが、國弘にとってはできなかった。それだけの話だ。
「あのっ」
せっかくだから雑談を、と声をかけたが、緊張で思い切り上ずった。
「……何、読んでたんですか?」
四方は広げたノートを軽く退けて、「これ?」と聞き返した。
その本は、薄黄色の書店の紙カバーがかかっていて、中身はわからない。彼は本を手に取ると、書店カバーの片側をペラリと外し、表紙を見せてくれる。
表紙絵は油絵で描かれたような抽象画だった。
全体的に緑色で、森の中を表しているのだろうか。中央に小さく、二人の人物らしき白い影が見える。
「『双子の日記』っていう小説。最近映画化されたらしいから、読み直してるんだ」
尋ねてみたはいいものの、知らないタイトルだった。
「そうなんですか」
我ながら、つまらない返答しかできなかった。
四方も大して期待してはいなかったのか、カバーを掛け直した。
それにしても、三年生の秋にさしかかって優雅に読書とは、受験勉強に対する余裕に驚く。
他の三年生はもっとピリピリしている気がして、彼らを遠目に見ていて、怖い、邪魔しないでおこう、と反射的に思ってしまう。
その点、四方に関しては、いつもにこやかで、恐怖を感じたことは一度もない。
医学部志望だとは前に聞いたことがあるが、もしかしたら推薦などで大学が決まっているのかもしれない。
「國弘くんは本とか読む?」
そう聞かれて、必死で頭を巡らす。
読む――と言いたいし、なるべく格好のつく本を挙げたい。
「……わりと読みます。えっと……最近だと『夜と霧』とか……」
「フランクル? なんかこの学校で読むと、勇気づけられそうだね」
どこか楽しそうに笑う四方を見て、確かな感触に嬉しくなった。
『夜と霧』は、第二次世界大戦下、ユダヤ人強制収容所に入れられた作者の体験談で、世界的名著でもある。
四方は、強制収容所とこの寮を重ねたのだろう。
「これもね、だいたい同じ時代が舞台だよ。書かれたのはこっちが随分新しいけど……」
四方は手元の文庫本をパラパラとめくった。
「どんなお話なんですか?」
「うーん、双子の兄弟が、戦争の動乱に巻き込まれて、たくましく生きる話……? って、言葉で説明すると、すごくチープになっちゃうんだけど。日記形式の文体で読みやすいし、すごく面白いよ」
そう微笑む四方は、なんだか少し打ち解けたようだった。それは、本の話題について話せる相手に出会えた、という喜びなのかもしれない。
國弘が普段読むのはライトノベル中心で、『夜と霧』に関しては父親に押し付けられて、偶然読んでいただけだが、わざわざ言う必要はないだろう。
しばらく本について話していると、廊下からバタバタという足音とともに、「――でさー」などという数人の話し声が迫ってくる。
壁の時計を確認すると、十八時五十五分。
二人の会話は自然と終わり、でもなんだか名残り惜しくて、四方の顔を見つめた。
四方もまた、少しだけ目を細めて微笑み返してきて、なんだかそれだけで國弘の心は満たされた気がした。




