謀略の戦場、甘き不協和音
「今こそ、全軍を挙げて進軍すべきです! 敵は完全に浮き足立っている! 今なら国境の山脈ごと、帝国軍を完膚なきまでに壊滅させられるはずだ!」
静まり返った荒野に、騎士団長レイヴンの猛々しい進言が響き渡った。武人としての血が、この千載一遇の好機を逃すなと彼を激しく突き動かしている。
(……クソ、余計なことを!)
ライオネルは内心で激しく毒づいた。ここで帝国軍を完全に壊滅させてしまえば、エドワードの暗殺という自分の計画は根底から破綻する。だが、この軍の最高指揮官たる王子として、この圧倒的に有利な戦況で追撃を拒む正当な理由が思い浮かばない。
焦燥に駆られるライオネル。――その横顔を、魔術師団長キュラムの冷徹な双眸が、じっと観察していた。
重苦しい沈黙を破ったのは、高台から降りてきたばかりのゼクスだった。
「……いえ。俺は、これ以上の追撃には反対します」
ゼクスの静かな拒絶に、周囲の将校たちの視線が集まる。
「おそらく向こうは今、土砂に埋もれた生存者の救助活動を行っているはずです。俺はそんな彼らを攻撃したくはありませんし、軍の皆さんにも攻撃してほしくないです。それに、あの山の上からなら、こちらの進軍は丸見えでしょう。我々が動けば、彼らは即座に救助を打ち切って撤退するだけです」
(それに……もし拓真を仕留め損ねていた場合、こちらが近づけば奴は一目散に逃げるだけだ。大軍で追う意味はどこにもない)
前世の倫理観に根ざした拒絶と、冷徹な戦術的判断。しかし、目の前の勝利に飢えるレイヴンは納得がいかないとばかりに声を荒らした。
「たとえ逃げられようとも、帝国軍の兵士の数をここで削っておくことには大いなる意味がある! 行うべきだ、ゼクス殿っ!!」
叫んだ直後、レイヴンは己の口から出た言葉に微かな戦慄を覚えた。
軍属でもない、ただの民間人の協力者にすぎないはずの若造に対して、自分でも無意識のうちに「殿」をつけて叫んでいた。一国の軍事バランスを一人でひっくり返した「規格外の存在」への抗えぬ敬意と畏怖が、その呼称に滲み出ていた。
「レイヴン、そこまでにせよ」
ライオネルが、ここぞとばかりに尊大に割って入った。
「この圧倒的な状況を作り出したのはゼクス殿だ。ここは、戦果の主であるゼクス殿の意見に従うべきだろう。……それに、軍属ではないゼクス殿の機嫌を損ねるのは我が国にとっても不味い。……そうだろう、レイヴン?」
ライオネルはいかにもゼクスを尊重する寛大な王族を演じながら、内心でほっと胸を撫で下ろす。
レイヴンはゼクスを見つめ、「くっ……」と苦渋の表情で奥歯を噛み締めるしかなかった。これ以上の反論は、王国の救世主たるゼクスへの不敬になりかねないからだ。
「……そうですね。今回はゼクス殿がいてくれたからこそです。ゼクス殿の意見に従いましょう」
キュラムが淡々と同意の言葉を重ねる。同時に、その頭脳で冷徹な思考を巡らせていた。
(帝国と繋がっている内通者であれば、この状況下で帝国軍を壊滅させるような追撃は絶対に望まないはず。ならば、真っ先に追撃を進言したレイヴン殿は『白』か。やはり、怪しいのは……)
キュラムの猜疑の視線が、再びライオネルの背中に向けられる。陰謀と殺気が入り乱れ、ピリピリとした不穏な空気が場を支配する。
──そんな中、あまりにも場違いな、可憐な声がその場に響いた。
「あの……皆さん、お話の途中でごめんなさい」
セシルが、おずおずとした様子で手を挙げた。将校たちが、この緊迫した空気の中で一体何を言い出すんだと、怪訝な視線を彼女に向ける。
するとセシルは、当然のようにゼクスの逞しい腕に己の身体を絡みつかせ、頬をぽっと赤く染めて身を寄せた。冷徹な戦場の風を拒絶するように、そこだけが異常に甘ったるい熱を帯びる。
「……ここは、私達の故郷の村が近いんです。だから、私達は王都に戻る前にちょっとだけ、村に寄って行ってもいいですか? ……実は、どうしても両親に報告したいことがあるんです」
「報告……? セシル殿、この状況で一体何を……」
ライオネルが呆気に取られたように呟く。セシルは満面の笑みを浮かべ、この場にいる全員の鼓膜へ、恐ろしいほどの凶器(恋患い)を叩き込んだ。
「前に村を出る時、両親にはスーちゃんとの仲をたくさん応援してもらってたんですけど……実は、まだ両親に『私達、結婚することになりました』って報告してなくて……! だから、早くちゃんと言いに行きたいんです!」
「は……? け、結婚……!?」
今しがたまで一国を滅ぼしかねない天災を見せつけられ、血生臭い内通者探しをしていた男たちの思考が、完全に停止した。ライオネルも、キュラムも、レイヴンも、あまりの温度差に目を白黒させるしかなかった。
そんな周囲の困惑など、セシルの世界には一切存在しない。
彼女はゼクスの腕にさらにきつく抱きつき、上目遣いで、とびきり甘い声を絞り出す。
「ね、スーちゃん? ちょうど近くなんだし、いいよね? ……ダメ、かな?」
セシルの水色の瞳の奥で、冷徹な独占欲の炎がゆらりと揺れる。
(そうだよ、スーちゃん。さっき私の前で『美月』の名前を出した罰。王都の面倒なことなんて全部放り出して、早く私のパパとママに、あなたが私の旦那様になるって認めさせなきゃ。……誰にも、スーちゃんを渡さないんだから)
戦場を奇跡の光で満たした「偽りの聖女」は、今度はその無邪気な狂気で、王国軍の最高幹部たちを完全に気圧すのだった。




