地獄の夜明け、壊れた勇者への愛歌
国境の山脈で行われた決死の救助活動が、ようやく終息を見せたのは、東の地平線が白々と明け方に染まる頃だった。夜明けの冷たい霧が、いまだ熱を帯びて燻る黒煙と混ざり合い、死と夜明けが同居するような陰惨な空気を漂わせている。
一晩中警戒を続けていた王国からの進撃はなく、ハロルドたちは奇跡的に追撃を受けることなく救助活動を終えることができた。
そして、己の枯渇しかけた魔力を文字通り擦り切れさせながら治療に当たった勇者・拓真の執念の活躍もあり、救命できた兵の数は、計り知れない数にのぼっていた。
「……ダルム殿、ご無事で何よりです」
泥と灰にまみれた顔のハロルドが、同じく一晩を生き抜いた騎士団長ダルムに声をかけた。ダルムは重苦しく頷く。
「ああ。……それにしても、王国からの追撃がなかったな。あれだけの好機、軍事の定石であれば、ここは確実に全軍で叩きにくるべきはずなのだが」
「……フン、ライオネルの計らい、といったところでしょうか。奴の計画のために、我々の主力を全滅させるわけにはいかなかったのでしょう」
ハロルドは冷ややかに鼻を鳴らし、王国の歪んだ第二王子の意図を見抜く。奴は王国を売り、自分が王と君臨すべくために帝国を手引きした内通者だ。
ここで帝国軍が全滅すれば、奴の描いた「道具」としての価値もなくなる。
だが、ダルムの表情は晴れない。周囲の無残な泥濘を見渡しながら、痛恨の情に拳を血がにじむほど強く握りしめた。
「そうかもしれぬな。……だが、我が騎士団の副長、バザレクの姿が見当たらぬ。行軍の先頭を任せておったから……もしや、あの忌まわしい光の槍が、直撃してしまったのか……」
「……それは、非常に痛い、優秀な人を亡くしてしまいましたね。……あれの直撃を浴びていれば、死体どころか、跡形も残らないでしょうから……」
ハロルドの淡々とした言葉には、あまりにも重い現実が乗っかっていた。数キロ先から放たれた『光の槍』は、鎧も、骨も、肉も、一瞬で蒸発させる天災そのもの。遺品すら遺さない理不尽な消滅に、ダルムはただ奥歯を噛み締めるしかなかった。
「くっ……ゼクスとやらを、我々は侮りすぎておったようだ。……認めざるを得まい。奴は、単独であっても帝国を滅ぼせる。間違いなくな」
ダルムの戦慄の言葉に、ハロルドも深く、重く同意した。
「ええ、間違いいないでしょうね。……もしも奴がこのまま帝国へ攻め込んできた場合、我が国は『降伏』すら視野に入れるべきかもしれない。多少こちらが不利な条件になろうとも、即座に和平を申し入れるべき。……そのためにも、ライオネルとの密約は、もう反故にするべきかもしれません」
これまでは王国にとって不利な条件での和平を結ぶための「道具」としてライオネルを利用する算段だった。だが、天秤の片側にゼクスという規格外の怪物が乗った以上、そんな小細工は一瞬で踏み潰される。ライオネルを操って王国を揺さぶろうとした結果、その背後にいる化け物の逆鱗に触れて帝国が滅ぼされては元も子もない。
「あるいは……すべてライオネルの計略に帝国が乗らされていただけだと王国側に伝えるのもいい。あの怪物をこちらに向けさせないためなら、トカゲの尻尾切りなどいくらでもやるべきだ」
「帝都に戻り次第、陛下へ直ちに進言せねばなるまいな……」
ダルムは苦渋に満ちた表情でそう呟き、前を向いた。
「……それよりも今は、一刻も早く近くの基地で兵たちを休ませねばならん。拓真の魔力が回復次第、再び負傷者の治療に当たってもらわねば、まだ死者が出る」
ハロルドはその視線の先を見た。
そこには、魔力を枯渇寸前まで使い、泥のように疲れ果てて眠りこけている拓真と、そのぐったりとした勇者の身体を、健気に背負って歩くラミルの姿があった。
「拓真殿、本当によくやってくれました……。あとは私に任せて、休んでください……」
小さく声をかけながら、一歩一歩、重い足取りで歩むラミル。その瞳には、殺人鬼だと壊れて叫んでいた哀れな男への、狂おしいほどの敬愛が宿っていた。世界中が彼をわらおうとも、自分だけはこの勇者を支え続けるのだと。
――今回の帝国軍の兵たちには、自分と同じスラム出身の者が少なからずいた。
土砂を掘り起こし、拓真が魔力を擦り切らせて治療する中で、ラミルは何度も声を詰まらせそうになっていた。
かつて自分が幼い頃、スラムで弟のように面倒を見ていた、泥だらけの泣き虫だった少年。
あるいは、スラム出身でラミルたちの噂を聞いており、「あなた達兄妹は私達の憧れです」と、憧憬の目を輝かせて声をかけてくれていた若者。
あの凄惨な破壊の直後、絶望の底にいた彼らを、拓真の治癒魔術が、ラミルの必死の手が、確かに繋ぎ止めたのだ。掘り起こされ、一命を取り留めた兵士たちが、涙を流して二人に捧げた「救ってくれた感謝の念」は、計り知れないほど深いものだった。
(拓真殿……あなたは殺人鬼なんかじゃない。こんなにも、多くの命を救ったのですから……)
背中で微かに息を立てる拓真の重みを感じながら、ラミルは涙を堪え、前を見据える。(たとえあなたがこれからどんな闇に落ちようとも、私はあなたの傍を離れません。あなたは私の、たった一人の勇者です⋯⋯)
かつてない大打撃を受け、プライドも戦術も、全てをズタズタに引き裂かれた帝国軍は、しかしそれでも「生」への執念を捨てぬ敗残の足取りで、近くの基地へと這い進んでいくのだった。




