狐の疑念、戦盤の狂い
帝国軍の撤退は、あまりに唐突で、そして不自然なほどに迅速だった。
潮が引くように後退していく敵の背中を前に、王国軍の本陣には戸惑いと警戒が広がっている。
「王子、これは罠の可能性がございます。あるいは、後退すると見せかけて近隣の村々を襲撃し、我が軍を誘い出す腹積もりか……」
幕僚の一人から進言を受け、ライオネルは内心の激しい動揺を押し殺しながら重々しく頷いた。
(合図もなく撤退を始めたということは、エドワードの暗殺はまたもや失敗に終わったのか……!? 勇者拓真がいて、なぜしくじる!)
奥歯が噛み砕けんばかりに軋む。だが、今は帝国との内通を疑われるわけにはいかない。有能で冷静な王子を演じ通さねばならなかった。
「……確かにその恐れはある。だが、我が軍の被害も甚大だ。ここは、負傷兵を護衛しながら確実に王国へ帰還する本隊と、帝国の動向を監視しつつ背後を突く追撃隊の二つに分ける」
隊を二つに分割する。それは戦力の分散を意味し、ただでさえ消耗している王国軍にとっては手痛い弱体化だった。キュラムをはじめとする将官たちも一瞬眉をひそめたが、ライオネルはすかさず言葉を重ねる。
「無理な深追いは厳禁だ。遠方からの魔術攻撃に留め、敵が反転して本格的な反撃に出る気配を見せたら、即座に脱兎のごとく撤退せよ。戦力をこれ以上失うわけにはいかん」
「御意」
その慎重な命令に、将官たちは異を唱えることなく、それぞれの任務へと散っていった。彼らにはライオネルが「兵を思いやる慈悲深い名将」に見えていたが、その実、彼がやっているのは『内通者として疑われないよう、かつ帝国軍が安全に退却するための道を開ける行為』そのものだった。
───────
一方、追走してくる王国軍を感知した帝国軍の陣営は、極限の焦燥に包まれていた。
「クソ、王国の追撃隊がついてくるぞ!」
「交戦にかまけて撤退速度が落ちれば、あの化け物に追いつかれる! 容赦するな、最大火力で消し飛ばせ!」
ハロルドの怒号が響き、帝国軍の後衛部隊が一斉に反転した。彼らが放ったのは、牽制のための魔術ではない。大地を爆裂させ、空間を歪めるほどの、容赦のない本気の魔術だった。
荒野を覆い尽くす激しい炎と雷撃の嵐。ライオネルの命令通り「反撃されたら即撤退」を前提としていた王国の追撃隊は、その圧倒的な破壊力を前に、それ以上の追走を断念せざるを得なくなった。
立ち上る黒煙を見つめながら、王国軍魔術師団長キュラムは、険しい瞳の奥に冷徹な確信を宿していた。
(……やはり、あの不自然な小競り合いは『時間稼ぎ』だった。つまり、この戦場そのものが巨大な囮……。だが、おかしい)
キュラムの思考は、さらにその奥にある「闇」へと到達する。
(帝国にこれほどの圧倒的な魔力と余力があるならば、出し惜しみせず、最初から我々をここで壊滅させていれば良かったはずだ。それをせず、わざわざ都合のいい時間稼ぎに終始していた。――これが意味することは一つだけだ。こちらの動きをすべて把握し、見返りを与えると言い、手加減の足並みを揃えさせていた『内通者』が、我が軍の幹部に必ずいる)
確信だった。しかし、今はその狐を狩っている時間はない。
「団長!これほどまでの攻撃! 実はこの戦いは囮だったのではないでしょうか!?王都が襲撃されている可能性が極めて高いです!」
部下の緊迫した声に、キュラムは鋭く息を吐き出した。
「追撃隊はここまでだ! 反転し、急ぎ足で本隊を追うぞ。王都へ急げ!」
───────
その頃、負傷兵を抱えてのろのろと後退を続けていた王国軍の本隊の前に、二つの影が現れた。
一頭の軍馬に相乗りし、冷徹な気配を纏う少年と、その腰にしっかりと腕を回した水色の瞳の少女。
地平線の彼方から現れたその二人の姿は、傷つき疲弊した王国兵たちの目には、まるで戦場に舞い降りた天兵のように頼もしく映った。
「――ゼクス! それにセシルか!」
最初に声をあげたのは、前線で辛酸をなめ続けていた騎士団長レイヴンだった。
ゼクスは馬を止めると、鋭い視線をライオネルへと向ける。
「ライオネル王子。王都にて、帝国に買収されたと思しき近衛の一部、および正体不明の襲撃犯による王城襲撃がありました」
「な、何だと……!?」
ライオネルは驚愕の表情を張り付けた。ゼクスは淡々と、しかし確実に言葉を続ける。
「襲撃はすべて退けました。エドワード殿下もご無事です。首謀者たちの目的は殿下の暗殺だったようです」
「そうか……! ゼクス、よくぞ救ってくれた。王都が、エドワードが助かったのだな。よかった……!」
レイヴンは張り詰めていた肩の力を抜き、心底からの安堵の息を漏らした。だが、その隣でライオネルは、全身の血が凍りつくような冷や汗を流していた。
帝国軍のあの慌てた撤退は、この男が追ってきたからなのか?
脳裏を殴りつける絶望的な事実に、ライオネルは表情を維持するだけで、精神のすべてを削り取られそうになっていた。




