暗転する野望、撤退の軍旗
轟音と土煙が、国境の荒野を覆い尽くしていた。
王国軍の撤退戦は、薄氷を踏むような緊張感の中で進んでいる。魔術師団が放つ壁や魔術が、帝国軍の攻勢を空中や壁で相殺するたび、狂ったような閃光が空を焼いた。
「怯むな! 殿の歩を止めるな!」
魔術師団長キュラムの声が飛ぶ。彼は魔術を行使し指揮しながらも、背筋に這い寄るような奇妙な違和感を拭えずにいた。
(……おかしい。追撃が、温すぎる)
目の前の帝国軍は、確かに激しく攻め立ててきている。だが、そこには王国軍を根こそぎ飲み込もうという、軍隊特有の凶悪な気迫が決定的に欠けていた。
キュラムの脳裏に、前日の軍議でヴォルフガングが口にしかけた、あの言葉の断片が鮮烈に蘇る。
『それよりも手を抜かれ──』
(あいつは、何を言おうとしていた……? まさか、我々が「手を抜かれている」とでも言うつもりだったのか?)
あのときはライオネル王子に遮られたが、今この戦場で見せつけられている「緩慢な追撃」は、その不吉な仮説を裏付けているように思えてならなかった。
(もしヴォルフガングの推測が正しければ、帝国はただ、時間稼ぎをしているだけだ。だとしたら、奴らの本命は、この戦場ではない場所……王都か!?)
キュラムの視線の先で、ライオネル王子はじっと一点を見つめている。彼が待っているのは、自国を裏切ってまで手に入れようとした、帝国からの「作戦成功の合図」だ。だが、その合図が上がる気配は、未だになかった。焦燥に焼かれる王子の指先が、馬の手綱を白くなるほど強く握りしめている。
───────
対峙する帝国軍の陣営においても、その空気は「攻勢」のそれとは程遠いものだった。
最前線の指揮官たちに下されていた指令は、徹底した時間稼ぎ。そして、最悪の不測の事態への備えだ。
(……もし王都での作戦が瓦解し、あの噂の『化け物』がここに現れたら、即座に撤退だ)
その共通認識こそが、帝国軍の足を鈍らせていた。ゼクスという存在への根源的な恐怖が、全軍に薄い膜のようにまとわりついている。彼らは、拓真たちの帰還――あるいは、すべてが手遅れになったという破滅の報せを、怯えながら待っていたのだ。
その張り詰めた均衡が、唐突に崩れた。
泥にまみれ、血の臭いを漂わせた二人が、帝国軍本陣へと転がり込んできたのだ。
拓真とラミル。帝国の誇る、圧倒的な存在となっていた勇者の無惨な敗走に、本陣が凍り付いたように静まり返る。
「王子暗殺は……失敗した。糞がっ……!」
拓真は拳を地面に叩きつけた。その顔は屈辱と逆恨みに歪み、肩は激しく上下している。
「聖女は追い詰めた。だが、ゼクスだ……。あいつ一人に、俺は、一方的に磨り潰された……!」
「……何だと!?」
帝国軍総指揮官兼魔術師団長のハロルドが、椅子を蹴立てて立ち上がった。神の加護を得たはずの勇者拓真が、単体相手に完全な敗北を認めた。その事実の重さに、周囲の将校たちが一斉に色を失う。最強の矛が砕かれた。それは、帝国軍にとって王子暗殺の失敗以上の、致命的な衝撃だった。
横で息を切らすラミルが、震える手で自身の失われた誇りを繋ぎ止めるように、悲痛な言葉を絞り出した。
「それだけではありません……! 今、そのゼクスが、恐ろしい速度でここに向かっています。奴がこの戦場に現れれば、我が軍は追撃を受けるどころか、一瞬で消滅させられる……!」
ハロルドの脳裏に浮かび上がるのは、進軍の時に見かけた、かつてゼクスの一撃によって文字通りの更地へと変えられた場所。
理屈ではない。生存本能が、一刻も早くこの場から逃げろと脳内で絶叫している。
「……長居は無用だ! 作戦は完全に失敗した!」
ハロルドは裂ぱくの気合で、全軍への命令を怒鳴り散らした。
「全軍、即座に撤退を開始せよ! 陣を捨て、国境まで退くぞ! 急げ!!」
慌ただしく翻る帝国の軍旗。
さっきまでの追撃という名の「演技」は一瞬で吹き飛び、帝国軍は本物のパニックに包まれながら、潮が引くような速さで後退を始める。
──なぜだ、なぜ逃げていく!?
それを見つめるライオネル王子の瞳は、驚愕に大きく見開かれていた。合図を待っていたはずの敵が、まるで凶悪な捕食者から逃げ出すように、なり振り構わず敗走していく。
それが意味する唯一の答え──「王都の計画が、何者かによって完全に粉砕された」という冷酷な現実を悟った瞬間、王子の顔から血の気が引き、その野望は底知れない暗闇へと突き落とされるのだった。




