深淵の覚醒、常時鍛錬の果て
王城へと戻る道すがら、重苦しい沈黙を破ったのは美月だった。
「ねぇ……涼翔は、どれくらいの時間『フィジカルアップ』を維持できるの?」
歩調を合わせながら並ぶ美月から向けられた、純粋な疑問。その問いに、ゼクスはすぐ背後を歩くエレノアの視線をかすかに肌で感じ、あえて一歩距離を置くように淡々とした声音で返した。
「……俺のことは、ゼクスと呼んでくれと前に言ったはずだ。基本的には、一日中……寝ている時以外は常にかけっぱなしだよ。身体に負荷をかけ続け、常に身体の鍛錬を怠らないためにね」
「ゼクス……」
美月は小さくその名を呟き、胸を衝かれたように視線を落とした。またしても「涼翔」であることを頑なに拒絶され、明確な一線を引かれたような、冷たい突き放しを感じずにはいられなかった。
これほど近くを歩いているのに、二人の間には決して越えられない深淵が横たわっているかのような感覚。
しかし、彼女は聖女としての、そしてこの世界の魔術師としての純粋な疑問を続けた。
「……それ、一体どんな魔力量と制御をしてるの? 『フィジカルアップ』って、垂れ流すように膨大な魔力を消費し続けるものじゃない。とてもずっと維持できるものじゃないわ」
「……?」
急に真剣な声音になった美月に、ゼクスは怪訝そうに視線を戻す。美月はそんな彼の無防備な表情を見つめながら、一歩踏み込んで言葉を重ねた。
「私は二倍の強化だと、一時間くらい維持したらほとんどの魔力を持っていかれちゃう。それなのに、あなたは……一日中維持してるんでしょう?寝ている間も?」
「あぁ。それが普通だと思っていたが……違ったのか?」
睡眠中も呼吸と同じように、脳の自律神経にフィジカルアップを維持させるというもはや変態的な自己暗示・術構築に成功してしまったゼクスは、至極当然のように小首を傾げる。
美月はそんな彼を呆れたように、そしてどこか底恐ろしく、息を漏らした。
「普通なわけないよ……っ! もし魔力の自然回復量が、その凄まじい消費スピードを上回っているっていうなら……自分で気づいてないの? とんでもない魔力量をしてるんじゃない?」
「……ずっと使い続けていたから、自分では気づかなかったな。そんなにも消費が激しいものなのか?」
ゼクスは小さく眉をひそめ、自身の内に流れる魔力へと意識を向けた。
美月の指摘を受け、試しに、片時も解くことのなかった『フィジカルアップ』の常時魔術を、ふっと一度、完全に解除してみる。
代わりに、周囲の警戒のために『ウィンドセンス』へと意識を切り替えた――その、瞬間だった。
――ゴォ、と空間の空気が物理的に重くなったかのような錯覚が走る。
(……あぁ、美月の言う通りかもしれないな)
常用していたフィジカルアップを解いた瞬間、ゼクスの肉体を二十四時間縛り続けていた、目に見えない巨大な「枷」が完全に外れた。
全身の全細胞が歓喜するように、フィジカルアップの消費によって常に底に抑え込まれていた彼の魔力が、堰を切ったように内側から全方位へと溢れ出してきたのだ。
それは底無しの深淵を思わせる、文字通り破格、かつ圧倒的な魔力量の回復だった。
試しに、展開した『ウィンドセンス』の索敵範囲をぐっと広げてみる。
枷の外れた魔力と制御は、どこまでも風に乗って広がっていく。王都の巨大な壁をあっさりと越え、王国軍が向かって行った街道まで、緻密な風の網を張り巡らせることに成功した。
その時――ゼクスの感覚網が、奇妙なノイズを捉える。
王国軍が向かった戦地の方角。移動する、二つの不審な動体反応。
(合流しようとしている。……間違いない、先ほど取り逃した大久保(拓真)ともう一人の刺客の気配だ!)
「これからは訓練の時だけフィジカルアップを使って負荷をかけて、他は常に『ウィンドセンス』に割り振った方がいいかもしれないな。アドバイス、助かったよ、美月」
ゼクスは、自分の感覚がまた一つ研ぎ澄まされ、強くなったことを自覚しながら、警戒を強めていた。
一方、美月は、彼から向けられた実直な「お礼」の言葉を耳にしながらも、胸の奥をせり上がるような得体の知れない寂しさに締め付けられていた。
自分が言葉をかけたせいで、涼翔をさらに自分の手の届かない遥か高みの「英雄(怪物)」へと押し上げてしまったのではないか――そんな、底冷えするような孤独が、彼女の心を白く染め上げていくのだった。




