砕かれた夢、残酷な福音
「──私達、時期はまだ決めてないんですけど、正式に結婚することになったんです、美月様」
せり上がった絶対零度の氷の壁。その向こうから現れたセシルは、ゼクスとの『婚約』というあまりにも重い事実を突きつけ、美月の逃げ場を完全に塞ぐ。
必死に事務的な言い訳を並べ、キスは見られていないと安堵するゼクスだったが、セシルはその瞳の奥にある嘘を見逃さない。美月を完全に突き放し、彼女の幸せを願うがゆえに、ゼクスはセシルへの「偽りのない愛の本心」を口にする。
かつて自分だけに向けられていたはずの一途な愛情が、目の前で別の少女へと向けられ、赤面して受け入れられていく残酷な現実。
せり上がった絶対零度の氷の壁の向こうから、どこまでも甘く、そして背筋が凍りつくような冷徹な響きを帯びた声が届く。
「ねぇ、人の婚約者と抱き合って、一体何をしてたのかな? もしかして……もう一回、みっともなく抱きつこうとしてたでしょ? ――美月様」
ゆっくりと姿を現したセシルは、光の入らない氷の瞳で美月を射抜いた後、その視線を隣の男へとしなやかに移す。
「スーちゃんも、だよ?」
「セシル……っ」
ゼクスは心臓を冷たい手で掴まれたように、思わず声を漏らした。美月は、セシルの口から飛び出した「婚約者」というあまりにも重い言葉の意味が脳で飲み込めず、血の気が引いた顔で呆然と立ち尽くしていた。
「これは……その、美月に治癒をかけてもらいながら刺客を追いかけていて、その勢いで、つい……」
必死に頭を回転させ、苦しい言い訳を並べるゼクスに、セシルはさらに深く、冷ややかな微笑みを向ける。
「ふーん。少し前から見えてたけど、二人が抱き合ったまま熱心にお喋りしてただけでしょ? ねぇ、一体何をそんなに話してたの?」
(き、キスは……見られてなさそうだ……)
ゼクスは心の底で綱渡りを成功させたかのような安堵を覚えながら、必死に言葉を紡ぎ続けた。
「抱き合ったままだったのは、本当にすまない。追撃を諦めて、ついそのままになっていたんだ。……俺のよく知っている奴がこの世界に召喚されていて、フィジカルアップに自己治癒も併用している……そんな最悪な奴が相手だったんだって、今後の話をしていたんだよ」
セシルは無言のまま、じっとゼクスの瞳の奥の動きを覗き込む。
その数秒の沈黙が、すべての嘘を透かされているようで、ゼクスにとっては数時間にも感じられるほど酷く長く、恐ろしいものに感じられた。
セシルはその瞳から、確信する。そんな事務的な話をしていた眼差しではない。最愛の彼が何かを、自分に対して決定的な何かを、必死に隠そうとしていることに。
「あの……『婚約者』、って……?」
震える声で、美月がその禁忌の問いを口にした。
セシルは、待ってましたと言わんばかりに、破顔してゼクスの逞しい腕に深く、深く己の身体を絡みつかせた。その細い指先は、絶対的な独占欲を誇示するようにゼクスの服を強く掴む。
「ええ。私達、時期はまだ決めてないんですけど、正式に結婚することになったんです、美月様」
「……え?」
「美月様は卒業時に、エドワード様と結婚される予定でしたよね? だから、お互いにいらない誤解を受けないようにしましょう?」
セシルは人形のように優雅な笑みを浮かべながらも、その瞳の奥で美月を激しく、冷酷に睨みつけた。
『私の聖域に二度と触るな』という無言の警告が、凍てつく空気と共に美月の心臓へ突き刺さる。
「そう、なんですね……」
美月の顔から、完全に血の気が引いていく。先ほどまで感じていた涼翔の温もりが、嘘のように遠ざかっていく。
その絶望に染まる彼女の姿を見て、ゼクスは胸を鋭利な刃物で切り刻まれるような激痛を覚えながらも、これ以上美月を傷つけないため、そして美月の幸せのために、心を完全に殺して深く頷いた。
(……これでいいんだ。俺がセシルと結ばれれば、美月だって迷いなくエドワードを選ぶに違いないんだから。俺たちは、もうあの頃の二人には戻れないんだ……)
一方、そんな三人の地獄のようなドロドロのやり取りを、少し離れた場所で見ていた魔術師団副長のエレノアは、強烈な困惑と虚無感を抱えたまま突っ立っていた。
(……いや、待って。この国家転覆の一歩手前みたいな非常時に、一体私は何を見せられているんだろう。美月様にはエドワード様という仲睦まじい婚約者がいるのに、なぜゼクスとあんな至近距離で抱き合って相談なんてしてたの?セシルはセシルで、相手が聖女様だろうがなんだろうが、猛烈な嫉妬心を剥き出しにして牽制してるし……若い子の修羅場なの? 恋の火花?緊迫感が行方不明でついていけないんだけど⋯⋯)
「襲撃者は一まず去ったみたいですし、そろそろ王城の様子を見に戻りましょうか」
エレノアはこれ以上この空間が凍りつくのに耐えかね、努めて事務的な、大人の声で割って入った。
「ちなみに、街の襲撃者はセシルが一人で撃退し、その後、迅速に負傷者の治療までしていただきました」
「セシル、街を救ってくれたのか。ありがとう」
ゼクスが心からの礼を言うと、セシルはそれまでの冷徹さが嘘のように、愛らしく小首を傾げて笑った。
「ううん、スーちゃん。私、ちゃんと言いつけを守って、危なくない相手だったから追い払っただけだよ? でも、逃げ足の速い人だったからまた逃がしちゃった。ごめんね?」
(……は? あれを『危なくない相手』って言うの? 正気?)
あの、王国軍を文字通り蹂躙し尽くした帝国の極悪な暗殺者を「羽虫」のように圧倒したセシルの異常な戦闘力を思い出し、エレノアは内心でガタガタと戦慄する。この娘、強いなんてもんじゃない、脳のネジが確実に数本ぶっ飛んでいる。
「いや、それよりも危険な相手を、俺は対峙したんだ。さっき言った、フィジカルアップと自己治癒を併用する化け物だ。あいつは……俺が相手をしないといけない。だから、今後はこういう時は、絶対に俺から離れずに行動するからな」
拓真のチート能力を警戒し、ゼクスは真剣な表情をする。だが、その言葉はセシルのフィルターによって都合よく変換される。
「はーい! やっぱりスーちゃんは、私のこともちゃーんと大事なんだね!」
セシルが嬉しそうに、ゼクスの腕にスリスリと甘えるように頬を寄せた。
(私の『ことも』……ってことは……)
美月の胸に、ほんの僅かな、縋るような熱が灯りかけたが――ゼクスが、無慈悲にも言葉を重ねる。
「ああ。当然だ。セシルに何かあったらって想像するだけでも、俺は耐えられないからな」
それは、美月を突き放すための嘘などではなく、ゼクスが今世で出会い、自分を真っ直ぐに愛してくれるセシルに対して抱く、偽りのない本心。
そのあまりにも純粋な本音が、どれほど美月の心を切り刻んでいるか、一滴の零れ落ちた涙に彼は気づかずに。
「……はいはい。そういう甘いのは、おうちに帰ってから二人でやってちょうだい。早く王城の安否を確認しに行くわよ」
エレノアの呆れ果てた声に、セシルは悪戯っぽく、勝ち誇ったように笑った。
「わかりました! じゃあ続きは、夜にね、スーちゃん。……もう、いつでもスーちゃんの赤ちゃん、くれてもいいんだからね?」
あまりにも至近距離から、熱を帯びた瞳で覗き込んでくるセシルに、ゼクスは耳まで真っ赤にする。
「なっ……っ!」
「スーちゃん顔真っ赤。スーちゃんのえっちー。本当は嬉しいくせにー」
「セシル、またからかって!」
「だから、早く王城へ進むわよ……」
特大の溜息をつくエレノアの横で、美月はただ、魂が抜けたように立ち尽くしていた。
(涼翔は……やっぱり、セシルさんと……)
かつて、あの世界で自分だけに向けられていたはずの、不器用で、けれど一途だった彼の愛情が、今は別の女性へと向けられ、赤面して受け入れられているという残酷な現実。
彼女が夢見た、涼翔と二人で生きるはずだった「ささやかな未来」は、セシルの放つ無慈悲な凍気によって、再び打ち砕かれていたのだった。
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