「何もしていない」からこそ濁らない瞳。それが、過去の恋人の心を殺し尽くす。
「……昨日も一緒に寝たし、ね? スーちゃん」
歴史の講義終了後、教室に響き渡ったセシルの爆弾発言。
ゼクスは「何もやましいことはしていない(だから大丈夫)」という潔白な確信から事もなげに首を縦に振るが、その真っ直ぐな肯定は、教室の全員に「事後」を確信させる無慈悲な一撃となった。
入り口で立ち尽くし、一縷の望みを完膚なきまでに叩き潰された美月。
「誠実を装った厚顔無恥」にしか見えないゼクスの態度に殺意すら覚えながら、彼女はエドワードと共に演習場へと向かう。
「七限も歴史だし、別にまだ探していてもいいんじゃないかな? もう少しだけ調べても……」
図書館の出口、セシルが名残惜しそうに袖を引く。
「いや、昨日いつ訓練を始めるか決めていなかったからな。授業が終わったら、美月がすぐに来るかもしれない」
ゼクスの言葉に、セシルの瞳がわずかに細まる。
(昨日……つまり、美月様に言った『また明日』を守るためだけに、時間を切り上げるのね)
セシルは微笑みを崩さなかったが、その指先にはゼクスを繋ぎ止めようとする、静かな力がこもっていた。
────
学院に戻り、七限の歴史の講義を受ける。
講義が終わると同時に、待ち構えていたようにカイルとミリアに捕まった。
「よお、二人でどこまで行ってたんだよ。一限からずっと姿を消してさ」
ニヤニヤと笑うカイルに、ゼクスは淡々と答える。
「……少し、調べ物をしに図書館へ行っていただけだ」
「ふーん。セシルさんも連れて行ったから、てっきり『そういうこと』だと思ったのに。真面目だな、お前は」
「大丈夫だよ。昨日も一緒に寝たし、ね? スーちゃん」
セシルが、周囲に響き渡るような鈴の音の声で言った。
一瞬、教室の空気が凍りつく。その言葉は、爆弾のようにその場にいた全員の思考を停止させた。
「ああ、大丈夫だ。……ミリアも、そんなに驚かなくていいだろ?」
ゼクスは事もなげに、むしろ「自分は何もやましいことはしていない」という確信に満ちた顔で頷いた。
彼の中では、昨夜もセシルに引っ付かれて寝ていたが、何もしていないという事実がある。だからこそ、セシルの「大丈夫」という言葉を、「(変なことはされていないから)大丈夫」という意味で肯定してしまったのだ。
「え、あ、う……ん。ゼクスさんがそう言うなら……」
「……ね。カイルもそう思うでしょ?」
「え、あ……そうだな」
ミリアが顔を真っ赤にして、逃げるように視線を逸らし、カイルは何やらそわそわしている。その場にいた誰もが「事後」を確信し、ゼクスの潔白な微笑みを読み違えていた。
その時、教室の入り口でどよめきが広がっていた。
振り返ったゼクスの視界に入ったのは、肩を震わせて立ち尽くす美月と、彼女を支えるように立つエドワードの姿だった。
(昨日も一緒に寝た? それを、本人の口から『大丈夫だ』なんて認めるの……?)
美月の頭の中で、ゼクスの言葉が鋭い礫となって突き刺さる。彼が肯定したという事実は、彼女が抱いていた一縷の望みを、完膚なきまでに叩き潰した。
(……ねえ、今の美月様に聞こえたよね? スーちゃんが自分の口で言ったの。これ以上の絶望があるかな?)
セシルは狂おしいほどの愉悦を瞳に宿し、美月の顔を観察していた。
「……美月。昨日、時間の指定をしていなくて済まなかった。今日も、今から訓練でいいか?」
「何もしていない」からこそ、一点の曇りもない真っ直ぐな瞳で歩み寄るゼクス。その「誠実を装った厚顔無恥」にしか見えない態度が、今の美月には殺意を覚えるほど残酷だった。
(……ああ、これがあなたの『日常』なのね。私はもう、過去の恋人なんだ。今は生徒で、そして一緒に魔術を考える都合のいい幼馴染なんだ……)
「……ええ。行きましょう。エドワード様、失礼します」
美月は表情を消し、冷たく言い放った。エドワードは、そんな美月の痛みを慈しむような、しかしゼクスを射殺さんばかりの鋭い視線を投げる。その心の奥底では、ゼクスの不誠実さが美月を自分へと追い詰めていく現状に、暗い歓喜を覚えていた。
「今日は私も時間がある。それに私にとっても勉強にもなるだろう」
────
演習場。
美月は相変わらず『水の刃』に土と風を合わせる操作に苦戦していた。三属性の同時展開は、魔力の干渉が激しく、精密な制御が要求される。
「……三つの属性を同時に形にするのは難しいか。これは魔術コントロールの練習として今後も続けるとして⋯⋯」
ゼクスは腕を組み、思案にふける。
「美月、じゃあ……発想を変えよう。無理に属性を混ぜる必要はない。水の密度を極限まで高め、『一点』に集中させるんだ」
ゼクスは美月の隣に立ち、その指先に意識を向けさせる。
「アクアプレッシャーの進化系だ。水を圧縮するんじゃない。超微細な振動を加えながら、針の穴よりも細い線として射出する。……そして、その水の中に土魔術で精製した『極微細な砂』を混ぜるんだ」
「砂を……水の中に?」
美月が不思議そうに呟く。
「そう。ウォータージェットの理屈だよ。ただの水も、研磨剤となる砂を含ませて超高圧で放てば、鉄さえもバターのように切り裂く刃になる」
美月は言われるがまま、魔力を練り上げた。
掌の上に浮かぶ小さな水球。そこに土属性で削り出した極小の砂の粒を混入させ、一極集中させる。
キィィィン……という、空気が震えるような不気味な高音が響いた。
「……標的のコンクリート壁を、撫でるように指を動かしてごらん」
美月が虚空をなぞるように指を動かす。
一筋の、陽光に透けるほど細い水の線が放たれた。
衝撃も、爆音もない。ただ「スッ」と空気を撫でるような音がしただけだった。
数秒の沈黙の後。
標的の頑丈な壁が、斜めに滑るように崩れ落ちた。
切断面は鏡面のように滑らかで、熱さえ帯びていない。切られたことにすら気づかないような、あまりにも静かな、そして絶対的な切断。
「……切れた。……抵抗すら、なかった」
美月はその光景に、得体の知れない高揚感を覚えた。
爆発のような派手さはない。けれど、この「見えない刃」なら、どんなに厚い鎧を纏っていても、音もなく切り裂くことができる。
セシルは、切断された石像の滑らかな断面に視線を落とし、それからゼクスの背中を、まるで自分の所有物を汚されたかのような、昏い独占欲を孕んだ瞳で射抜いていた。
「……美月、今のは……。魔術というより、もはや……」
エドワードの言葉が震えていた。
目の前で、聖女のはずの少女が、微笑みすら浮かべずに指先から「死の線」を紡ぎ出している。
その背後に立ち、満足げに頷くゼクス。
自分には決して理解できない理を共有する二人の姿に、エドワードは心臓を冷たい手で掴まれたような戦慄を覚えた。
「これなら、セシルさんにも⋯⋯」
美月が振り返る。その瞳には、先ほどの絶望を塗りつぶすような、鋭く研ぎ澄まされた光が宿っていた。
ゼクスと二人だけの「秘密の知識」。それだけが、今の彼女を支える唯一のレールとなっていた。
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