昔のような挨拶。置いていかれる聖女と、夜の街へ連れ出す幼馴染。
「……また明日、美月」
夕闇に染まる演練場に響いた、かつての日本と変わらないありふれた挨拶。
しかし、それは美月にとってはどんな魔術よりも苦く、セシルにとっては激しい嫉妬の引き金となる言葉だった。
勝者を誇示するようにゼクスを夜の街のデートへと連れ出すセシル。
ゼクスは彼女の不可解な揺らぎに疑問を抱くが、セシルの「大好きだから我慢できない」という涙の告白に、激しい罪悪感という名の「負債」を背負わされ、思考を鈍らせていく。
帰宅後、ハンスの言葉を確かめるために書斎で「異世界召喚の正史」を探すゼクス。
しかし、目的の書物はどこにもない。そこへ、本棚の影から聖母のような微笑みを浮かべたセシルが現れる。
「パパの勘違いかな?」
その濁りのない声に隠された、どろりとした狂気。ゼクスは次なる目的地「王立図書館の禁書庫」へと足を向ける決意をするが──。
「……もう、こんな時間か」
ゼクスが夕闇に染まった空を見上げ、独り言のように零した。
「熱中してしまってごめん。――また明日、美月」
その言葉は、かつて日本の街角で、部活帰りや塾の帰りに交わしていた、ありふれた挨拶だった。けれど、今の美月にとって、それはどんな魔術よりも甘く、そして苦い。
「また、明日……」
背後で、セシルがその言葉をなぞるように低く呟いた。
(また明日? 私の知らない二人の、明日も、明後日も、当然のように隣にいると信じて疑わない言葉……)
セシルの瞳に、暗い嫉妬の火が灯る。しかし彼女はすぐさま、獲物を守るようにゼクスの腕を強く抱きしめた。
「美月様、それでは。――スーちゃん、行きましょう?」
セシルが勝ち誇ったように告げる。ゼクスは、その視線を避けるように「それでは失礼します」と短く会釈を返した。
「ねえ、今日は遅くなっちゃったから。街で晩御飯デートしよう? ミリアが言ってたお店、行ってみたかったの」
無邪気を装ったセシルの声が、静かな演習場に響き渡る。それは明確に、美月の耳へ届くように放たれた「絶望」だった。
去っていく二人の背中を見つめる美月の胸に、鋭い痛みが走る。
(……私には言えない。「行かないで」も、「私も連れて行って」も。私は、あっちの世界の『また明日』を握りしめているだけの、部外者なんだ……)
「……あんなに熱中して。成果は出たのかい?」
背後からかけられたエドワードの声に、美月はハッと我に返った。
「はい……」
美月は震える手で術を展開した。不純物を排した『純水』の壁を作り、そこに雷を放つ。電撃は水面を滑るように霧散した。
「……セシルくんと同じことが、もうできるようになったのか。まるで世界の理を捻じ曲げたかのような魔術。やはりゼクスは、底が知れない男だね」
エドワードの言葉に、美月はどこか誇らしげに、けれど悲しげに頷いた。
「ええ。私も、早くあの人に追いつけるように頑張ります」
美月の横顔を見つめるエドワードの心境は複雑だった。
(強くなってほしい。前のような悲劇を繰り返さないためにも。だが……その強さを与えるのがあの男であること、そして彼女がその背中だけを追っていることが、どうしようもなく私を苛立たせる……)
────
街の灯りが窓越しに揺れるレストラン。
「ミリアが言ってたこのお店、来てみたかったんだけど、言ってた通り美味しいね!」
運ばれてきた料理を前に、セシルが弾んだ声を出す。しかし、対面に座るゼクスの返事は、どこか上の空だった。
今日のセシルの言動。指導を勧めたかと思えば、二人きりにさせ、そして最後には割って入る。その不可解な揺らぎが、ゼクスの胸に沈殿していた。
「……セシル。今日の君は、少し様子が違ったように見えたけど。何かあったのか?」
ゼクスの問いに、セシルは一瞬だけフォークを止めると、視線を落とした。
「……ごめんなさい。やっぱり、スーちゃんが大好きだから……。色々複雑で、我慢できないときがあって」
潤んだ瞳で見つめられ、ゼクスは胸が締め付けられるような思いがした。セシルの献身的な愛情を知っているからこそ、その涙は彼にとって何よりも重い「負債」のように感じられる。
「……そっか。ごめん、女心がわからなくて。寂しい思いをさせたな」
謝罪を口にするゼクスの脳裏には、先ほど別れた美月の、あの消え入りそうな「また明日」の顔が、消えずに残っていた。
街での食事を終え、家へと帰宅する。
夜の静寂が降りる中、ゼクスは日課である素振りを手短に済ませた。いつもなら無心になれるはずの風切り音も、今日ばかりはどこか騒がしかった。
汗を拭い、彼が向かったのは書斎。
ハンスが口にしていた、異世界召喚にまつわる「正史」の断片。それを、自分の目で確認したかったのだ。
整然と並ぶ背表紙を、指先で追っていく。
読んだことのある歴史書、魔術書、地理学……。しかし、目的の書物は、記憶の通り見当たらなかった。
「……やっぱりないな」
ゼクスが低く呟き、本棚の奥まで視線を這わせる。
その時、パサリと衣擦れの音がして、背後から柔らかな体温が近づいてきた。
「スーちゃん、見つからないね……?」
いつの間にか一緒に探していたセシルが本棚の影から、ひょこりと顔を出して微笑んだ。
その微笑みは、聖母のように慈愛に満ち、一点の曇りもないように見える。彼女はゼクスの隣に滑り込むように並び、その袖をそっと引いた。
「パパの勘違いかな?」
濁りのない声。
ゼクスはその横顔に、何の疑念も抱かなかった。むしろ、一緒に探してくれる彼女の献身に、今日一日のトゲトゲした心が洗われるような錯覚さえ覚えていた。
「……ああ。明日、王立図書館の禁書庫に行って探してみるよ。あそこなら、あるかもしれない」
「禁書庫……。私も一緒に行くね。スーちゃんが一人で迷子にならないように」
セシルは、ゼクスの腕にコテリと頭を預けた。
棚の隙間に差し込む月光が、彼女の瞳の奥で、どろりと暗く澱んでいた。
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