「呼び捨てでもいいですよ」──かつての距離感に戻る二人の濃厚な空気。
「……どうしたんですか? セシルさん。やけに必死そうに見えますけど」
セシルのマウンティングに対し、美月の瞳に宿ったのは、かつて日本でトップを競っていた頃の冷徹な理知だった。
「涼翔」と「美月」。同じ場所から来た者同士の濃厚な空気と、自然な呼び捨ての許可。
二人の絶対的な「共通言語」を前に、セシルの心の余裕は完全に瓦解し、指先は白くなるほどゼクスの袖を握りしめる。
「……スーちゃんのバカ」
手を離し、獲物の喉笛を狙う「蛇」の瞳で二人を見つめるセシル。
「……どうしたんですか? セシルさん。やけに必死そうに見えますけど」
震えていたはずの美月の瞳に、かつての進学校でトップを競っていた頃のような、冷徹な理知が宿る。
「私は全然疲れていませんし、むしろ楽しくなってきたところです。……ね、ゼクスさん? 『私たち』にしか分からない話、もっと続けましょう?」
その言葉は、研磨剤入りの水の刃よりも鋭く、セシルの胸元を切り裂いた。セシルの指先が、怒りと焦燥でゼクスの袖を白くなるほど強く握りしめる。
布地が悲鳴を上げるようなその力は、彼女の心の余裕が完全に瓦解した証だった。
「……スーちゃんも、聖女様を呼び捨てにしたらダメだよ? 失礼じゃない」
鈴を転がすような声に、明らかな棘が混じる。しかし、美月は一歩も引かなかった。
「ゼクスさんは私の師になったんですから、呼び捨てでも問題ないと思いますが。――よかったら、そのまま呼び捨てでもいいですよ。ね、ゼクスさん?」
首を傾げ、小悪魔のように微笑む美月。ゼクスは、かつて日本で切磋琢磨していた頃の彼女が戻ってきたような錯覚に陥った。
今の自分には、彼女のこの熱を拒む理由が見当たらない。……あるいは、拒みたくなかったのかもしれない。「今の美月」が、自分の知る「過去の彼女」と重なり、冷徹に保っていた心の防壁が音を立てて軋む。
「ああ、じゃあ……そうさせてもらうよ、美月」
「うん、じゃあ私もゼクスって呼ぶね? そのほうが呼びやすいし」
「ああ」と短く応じるゼクスの声には、セシルの知らない親愛が滲んでいた。「同じ場所から来た者」同士の濃厚な空気。
「……スーちゃんのバカ」
セシルが低く呟く。その瞳には、今にも零れ落ちそうな涙と、それを塗りつぶすようなドス黒い感情が渦巻いていた。それを見た美月が、さらに追い打ちをかける。
「ヤキモチですか? そんなに必死になって、よっぽど自分に自信がないんですね。私にはエドワード様がいるし、あなたにはゼクスがいる。そんなに縛り付けたら、ゼクスがかわいそうですよ」
セシルは弾かれたようにゼクスから手を離すと、一言も発さず数歩後ろに下がった。ただ、じっと二人を見つめる。その視線はもはや「恋する少女」のものではなく、獲物の喉笛をいつ食い破るかを冷酷に計算する「蛇」のそれだった。
影の中に溶け込んだ彼女の輪郭が、どろりと歪んで見える。
それからの時間は、ひたすらに「研磨」の反復だった。
三つの属性を極限まで緻密に、針の穴を通すような精度でコントロールする。理論を口にするのは容易いが、実践は想像を絶する困難の連続だった。
けれど、この人は違う。
美月が案を出しただけで、ゼクスはそれを初見で、何食わぬ顔でこなしてみせた。
(……ズルいなんて、思っちゃいけない。分かってる。分かってるけど)
美月の頭の中で、セシルのあの言葉がリフレインする。
『十五年間、ずっとあなたの為に、血の滲むような努力を、毎日、毎日……』
彼はこの苛烈な世界で死と隣り合わせの鍛錬を続けてきたのだ。自分が今、対等な顔をして彼と「元の世界」の知識を共有すること。それが彼の十五年を冒涜しているような、けれどそうすることでしか彼に触れられないような、泥沼の自責が美月の胸を掻き乱す。
教わる一言一言が、鋭い刃となって美月の自尊心を削っていく。それでも彼女は、縋るような瞳でゼクスを見つめることしかできなかった。
「そろそろ時間も遅い。自室でも魔力のコントロールを練習できるように、美月にしかできないだろう魔術を教えておくよ」
ゼクスは、揺れる美月の瞳に気づかないまま言葉を継いだ。彼の瞳は、かつて問題を解き明かした時のような純粋な知的好奇心に染まり、目の前の女性がどれほどボロボロになっているかに気づく余裕を失っていた。
「『フィジカルアップ』。火、土、水、雷、風。五つの属性を体内で混ぜ合わせ、練り上げてから全身に流し込むんだ。くれぐれも慎重に」
ゼクスの指導に従い、美月が魔力を練り上げる。
それは、想像を絶する負荷だった。全身の血管が沸騰し、筋肉が内側から千切れるような感覚。一歩踏み込むだけで、足裏から衝撃が脳天を突き抜ける。
「……っ、あ……ッ!!」
あまりの激痛に膝をつく美月。
「無理はしないで。コントロールが少しでも狂えば、内側から弾け飛ぶかもしれない」
ゼクスの言葉を聞きながら、美月は必死に自分に『ヒール』をかける。
「……大丈夫。そもそも、今の私は身体ができていないし、弱いから……。でも、これを練習すれば、もっと緻密に、もっと自由に……対等になれるから」
額に汗を浮かべ、苦痛に顔を歪めながらも、美月の瞳はかつてないほど燃えていた。
その執念は、涼翔という男への愛着と、彼と同じ高みに立ちたいという狂気じみた祈りに似ていた。
「――今日のところはそろそろ終わりにしたらどうだ」
低く、地を這うような重低音。
そこには、従者とライオネル第二王子と共にエドワードが、冷徹な光を湛えた瞳で立っていた。
(これがゼクス。そしてフィジカルアップか)
ライオネルは先の企てを阻止した者の想像以上の強大さに畏怖すら覚えていた。
「弟がこんな凄い奴を我が国に引き込んでくれて、益々安泰だな。少し見てみたかっただけなので私は失敬するよ。期待しているよ、ゼクス」
不敵な笑みを浮かべるライオネルを背に、そろそろ時間だとエドワードが告げた。
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