「手を出したら、私を選んだってことだからね?」──馬車の中で交わされる、甘い契約。
「……やっぱり、落ち着かないな」
復興を終え、慣れ親しんだ実家で一人横たわるゼクス。
しかし、彼を襲ったのは安らぎではなく、セシルという「気配」がないことへの猛烈な空虚感だった。
無意識のうちに漏れた「まだ」という言葉。
それをセシルは聞き逃さず、彼を絡め取るための新たな枷へと作り替える。
両親に見送られ、再び王都へと向かう馬車の中。
逃げ場のない狭い空間で、セシルは慈愛と魔性を孕んだ微笑みを浮かべ、ゼクスに最後通告を突きつける。
「私に手を出したら、私を選んだってことだから」
溶解していく理性の果てに、ゼクスが求めるのは美月の面影か、それとも──。
その夜、ゼクスはかつて暮らしたバルトロの家で、一人横になっていた。
使い込まれた古いベッド。慣れ親しんだはずの木の匂い。だが、目を閉じても意識は冴え渡るばかりだった。
(……やっぱり、落ち着かないな)
遠征時のあの二日間もそうだった。隣に、あるいはすぐ近くに、当たり前のように気配を感じていたセシルがいない。たったそれだけのことが、胸の奥にひりつくような空虚感をもたらしていた。
(俺は、こんなにもあいつに依存していたのか……?)
美月を想う心は揺るがないはずなのに、セシルのいない静寂が、今のゼクスには寒々しく感じられる。瞼を閉じれば、夕暮れ時の丘で自ら抱きしめたセシルの感触や、鼻腔をくすぐった甘い香りが鮮明に蘇り、彼をさらに寝不足の淵へと追い込んでいった。
翌日、復興作業の合間の食事休憩。セシルが村の女性たちと協力して作った炊き出しを持って現れると、現場は一気に華やいだ。
「はい、スーちゃん。今日もお疲れ様!」
差し出された椀を受け取ろうとしたゼクスに、セシルがいたずらっぽく顔を近づけて囁く。
「ねえ、昨日の夜は私がいなくて寂しかった……?」
「……別に、そんなことはない」
動揺を隠すように顔を背けたが、耳まで朱に染まっているのは隠せなかった。
「ははは! ゼクス、照れるなよ! セシルちゃんみたいな良い嫁さん、村中探したっていねえぞ。羨ましい限りだ!」
村人の一人が茶化すように言うと、周囲からも「全くだ!」「お似合いだぞ!」と野次が飛ぶ。セシルは頬を染めて「もう、皆さん。まだお嫁さんって決まったわけじゃ……ね?」と、肯定も否定もせず、上目遣いでゼクスを伺った。
「ああ……。ま、まだ決まったわけじゃないですから」
釣られて口にしたその瞬間、ゼクスは即座に戦慄した。
(まだ……だと? 俺は今、なんて言った……?)
否定はできなかった。なのに「まだ」という言葉が漏れた事実は、ゼクスの無意識が「いずれは」という未来を肯定してしまっていることに他ならない。そのゼクスにとっての失言を拾い上げたセシルの瞳が、一瞬だけ獲物を仕留めた捕食者のように、冷たく艶やかに光ったのを、ゼクスだけが気づかずにいた。
復興作業の再開後、瓦礫を運ぶゼクスの耳元で、セシルが羽毛のような声で囁いた。
「ねえ、スーちゃん。村のみんなもああ言ってたんだし……本当は、このまま村で暮らしてもいいんだよ?」
「セシル……」
「私と一緒に、この平和な日々を続けていかない……?」
一瞬、ゼクスの足が止まる。
(村でセシルと暮らす。それが、俺にとっての『幸せ』なのかもしれない……)
そんな考えが頭をよぎった自分に驚き、ゼクスは慌てて首を振った。
(……いや、ダメだ。俺は美月を、あいつを連れて帰らなきゃいけないんだ!)
揺らぐ心を律するように力を込めたが、そんな葛藤を見透かしたように、セシルはさらに腕を絡めてくる。それを遠くから見ていた村人たちから、再び冷やかしの歓声が上がった。
数日後、被害が村の入り口付近に留まっていたこともあり、復興はあっという間に終わりを告げた。
「もう行くのか。……もう少し、ゆっくりしていっても良いのだがな」
「そうよ、もう少しゆっくりしていったらよかったのに」
名残惜しそうに呟くバルトロとミラの横で、ハンスが真剣な面持ちでゼクスを見た。
「王都へ行けば、必ず君たちは利用される。……いや、ここにいてもいずれは同じか。十分に気をつけなさい。ゼクス、セシルをよろしく頼むよ」
「はい、必ずセシルは守ります。たとえ王国と衝突することになっても」
「任せたわよ、ゼクスくん。無茶はしないでね」
セシルの母マリアも嬉しそうに頷く。
「スーちゃん……」
「必ず守る」その言葉に、蕩けた瞳でゼクスを見つめるセシル。けれど、その瞳は「守られるヒロイン」のそれではなく、獲物を閉じ込めた確信に満ちていた。
馬車が村を出発し、ガタゴトと揺れ始める。窓の外に遠ざかる村の景色を眺めていたセシルが、ふいに不安げな表情でゼクスの袖を引いた。
「……結局、引き留めるのは失敗しちゃったな。本当はね、王都に行くのがこわいの。だって、あっちには美月様がいるでしょ? スーちゃんが、私の知らない場所へ行ってしまいそうで……」
涙を浮かべた瞳。
「……大丈夫だ。俺はセシルの隣にいるよ」
「本当……? でも、王都では二人暮らしだもんね。私、もう我慢しないから。いっぱいアタックするし……いつでも手を出していいからね?」
セシルはそこで言葉を切ると、悪戯っぽい笑みを浮かべて至近距離で見つめてくる。
「けど、私に手を出したら、『私を選んだ』ってことだからね?」
そう言って、セシルは慣れた動作でゼクスと腕を絡め、肩に頭を乗せた。
狭い馬車の中で、彼女の体温と甘い香りが、逃げ場のない熱となって全身に伝わってくる。ゼクスに向けられたその微笑みは、聖母のような慈愛と、奈落へ引きずり込む魔性の色が混ざり合い、彼の理性をじわじわと溶解させていく。
(王都に戻れば、美月の隣にはエドワード王子がいる。……俺の隣には、セシルがいる)
美月と帰りたい。その想いに嘘はないはずだ。
だが、この甘く、そして出口のない檻の中で、自分は最後まで理性を保っていられるだろうか。
美月を「救う」という大義名分を盾にしながら、その実、セシルという「毒」がもたらす安らぎを渇望している自分。
ゼクスは、自分の胸の鼓動が激しく打ち付ける音を聞きながら、答えのない自問自答を繰り返すしかなかった。その鼓動が、誰のためのものか、もう彼自身にも分からなくなり始めていた。
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