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国を追われても構わない。セシルから「半身」を奪い返すため、聖女は亡霊へと変貌する。

「……待ってて、涼翔。……今度は、私があなたを迎えに行くから」

 

 ゼクスのテントを逃げ出した美月。

 一人になった暗闇で、彼女はついに気づいてしまう。

 彼があんなにも「酷い嘘」をついてまで、自分を遠ざけようとした真実の理由を。

 

 涼翔が命を賭けて守ろうとした「日向の道」。

 けれど美月は、それを捨ててでも彼の隣に立つことを誓う。

 例えそれが、不義の道だとしても──。

 

 だが、その決意の声は、闇の中で立ち尽くすエドワード王子に届いていた。

 愛する者を守るため、王子は冷徹な「支配者」としての牙を剥く。

 夜の冷気が、肺の奥まで凍てつかせる。

 ゼクスのテントから逃げるように飛び出した美月は、自分の足がどこに向かっているのかさえ分からなかった。視界は涙で滲み、耳の奥ではセシルの勝ち誇ったような、残酷なまでの慈愛に満ちた声が鳴り止まない。


(……口移しで……、……オムツまで……)


 自分のテントに飛び込み、入り口の布を縋るようにして閉ざすと、美月はその場に崩れ落ちた。膝の震えが止まらない。


「……うっ……、……あぁっ……!!」


 声を押し殺そうと、自分の腕を深く噛みしめる。だが、喉から溢れ出す嗚咽は、夜の静寂を無残に切り裂いた。

 自分がエドワード王子と手を取り合い、聖女として、あるいは一国の王妃候補として、華やかな光の中にいたその裏側で。

 彼は血の滲むような努力を重ね、ボロボロになりながら、ただ私を救うためだけに「天災」と呼ばれるまでの力を蓄えてきた。


 そして、あの日。

 気を失う間際に、私を突き飛ばして救ってくれたあの時と全く同じ音で、彼は言ったのだ。


『……美月が……何よりも……大事だから……』


 その言葉を聞いた瞬間、世界は色を取り戻したはずだった。もう会えないと思っていた。ずっとずっと片時も忘れたことはなかった。やっと会えた。やっと、涼翔を見つけたのだと。

 けれど、今の彼を「汚し、守り、支配している」のは、自分ではない。


(……セシルさん。あなたは、自慢げに言ったわね。今の彼を一番知っているのは自分だと。彼に尽くし、彼を管理し、彼を幸せにしているのは自分なのだと……)


 美月の瞳から、熱い涙が滴り、地面の土を濡らす。

 セシルがゼクスの唇を塞ぎ、銀の糸を引きながら微笑んだあの光景。あれは、聖女としての慈愛などではない。一人の男を、誰の手も届かない暗い檻の中に閉じ込めておこうとする、剥き出しの独占欲だ。


「……違う……。違うのよ、セシルさん……」


 美月は、腕に歯型が残るほど強く噛み締めながら、暗闇の中で瞳を爛々と輝かせた。

 悲しみは、いつしかどす黒い情念へと変質していく。


(あなたが尽くし、守り、排泄の世話までして『支配』しているその身体は、たしかに今はあなたのものかもしれない。……でも、私に言ってくれたあの言葉。『美月が何よりも大事だから』魂の所有権だけは、十五年経っても、世界が変わっても、私だけのもの……!)


 彼が十五年、自分だけを想って生きてきたという事実。

 そして、『何よりも大事と言ってくれた』こと、それが美月の「勝利の根拠」だった。


(あなたがいくら今の彼を世話し、彼に愛されていると豪語しても、彼の根源にあるのは私なの。彼をここまで強くしたのは、私なの。……涼翔を、あなたなんかに……絶対に、渡さない……!)


 美月は、汚れ、涙に濡れた顔を上げた。

 そこには、清らかな「聖女」の面影は微塵もなかった。涙に濡れた頬は、月光を浴びて青白く、まるで復讐を誓った亡霊のような美しさを湛えている。


 奪われた「半身」を、どんな手段を使ってでも取り戻そうとする、一人の執念深い女の貌があった。


(……どんなに汚くてもいい。国に追われたっていい。……涼翔。あなたの隣に立ちたい……絶対に、渡さないんだから……)


 国に追われるかもしれない。そう思い至った時に美月の中でパズルのピースがピタッとはまってしまう。

 どうして涼翔が名乗らなかったのかを。あんな酷い嘘をつくような人じゃなかったのに、どうしてあんな自分の父親を冒涜するような嘘までついて、私を遠ざけたのかを。


『美月が何よりも大事』――その真の意味を。


「……あ、……ぁっ……、……ぁぁ……っ……!!」


 声にならない、掠れた嗚咽が漏れ出す。

 喉の奥が痙攣し、上手く呼吸ができない。視界が涙でぐちゃぐちゃになりながら、美月は自分の胸元を掻きむしった。


 叫ぶことさえ、今の彼女には許されない。

 自分がエドワード王子との婚約を、あんなにも幸せそうに発表してしまったから。

 もしも今、自分がゼクスの元へ駆け寄れば、自分は「不義の聖女」として全てを失い、泥に塗れるだろう。


 涼翔は、それを分かっていたのだ。

 自分が「不義の聖女」という汚名を着せられないように。

 自分が「王妃」として、この世界で日向の道を歩んでいけるように。


 あんな、自分の父親さえも冒涜するような酷い嘘をついてまで、彼は私を守ろうとした。

 自分がどんなに孤独で、どんなに苦しくても、私の「偽りの幸せ」を壊さないために……!


「……っ、……ひぐっ、……ふ、……うぁぁ……っ……!!」


 しゃくり上げる声が止まらない。

 バカだよ、涼翔。そんなの、幸せじゃない。

 あなたを犠牲にして手に入れる椅子なんて、最初から一ミリも欲しくなかったのに。私のために用意された王妃の座は、今や彼を処刑するための断頭台にしか見えなかった。


 美月は、涙に濡れた顔を上げ、暗闇の先を見据えた。

 その瞳から光が消え、代わりに据わったような、昏い執念が宿る。真実を悟ってしまった今、もはやエドワード王子との幸せは選べない。



「……待ってて、涼翔。……今度は、私があなたを迎えに行くから」

 私だけ幸せになるなんて許せない。

 たとえ国を追われても、不義の聖女と指を刺されても構わない。

 セシルが「介護」で彼を繋ぎ止めるなら、自分は「破滅」を共にする覚悟で彼を奪い返す。


 ――その、美月の決意に満ちた掠れた声が、薄い布一枚を隔てた外側へ漏れ出してしまっていた。



「⋯」



 テントの入り口。

 闇に紛れるようにして立ち尽くしていたエドワードは、握りしめた拳を震わせ、静かに伏せていた瞳を持ち上げた。

 その瞳には、もはや慈愛に満ちた王子の面影はなく、手に入れた宝を泥棒から守ろうとする、冷徹な「支配者」の光が宿っている。


(……迎えに行く、だと? ……美月。君が向かおうとしているのは、私との日向の玉座ではないのか?……あの日、私が差し出した手を、君はたしかに握ったはずだろう?)


 エドワードは、自分の胸元に下げた王家の紋章を強く握りしめる。

 美月がゼクス(涼翔)という「過去」に手を伸ばせば伸ばすほど、彼はそれを「愛の略奪者」として排除する理由を手に入れていく。


(……いいだろう。君がそこまで彼を欲しがるのなら、私は全力で、彼をセシルの檻に鎖で繋ぎ止めてみせよう。……君が二度と、その過去に触れられないように)


 エドワードは一度も振り返ることなく、音もなくその場を去った。

 暗闇に消えていく彼の背中は、美月の「王妃としての輝かしい未来」という名の、巨大な監獄の壁そのものだった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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