「ただで死ねると思うなよ」──愛する人を弄ばれた少年。仮面の下で目を覚ます「獣」。
「……返せ」
逃走する帝国隠密部隊を追い詰め、ついにその背中を捉えたゼクス。
だが、待っていたのは正々堂々たる戦闘ではなく、意識のない美月を「盾」にするという、卑劣極まりない挑発だった。
彼女を傷つけないために、放った魔術を自ら受けるゼクス。
泥に汚れ、乱暴に扱われる愛しい人の姿が、彼の理性を最後の一線で繋ぎ止めていた鎖を、粉々に粉砕する。
かつて山で彼女を失いかけたあの日の「絶望」が、異世界の魔力と混ざり合い、黒い「呪い」となって顕現する──。
ゼクスが地を蹴った瞬間、足元の地面が爆ぜた。
先ほどのような、自身の肉体を磨り潰しながら進む「閃光」の無理な四倍強化ではない。セシルの献身的な治癒によって、砕けた骨も断裂した筋肉も、今は完治している。
だが、その速度は依然として異常だった。木々の間を、銀色の影が滑るように抜けていく。風を切る音さえ置き去りにするような、冷徹で無駄のない足取り。
エドワードが「なぜ速度を出さないんだ?」と問うたのは、先ほどの「自壊を伴う神速」があまりにも現実離れしていたからに過ぎなく、今のゼクスの速度でも、この場から逃げおおせる者など一人として存在しないだろう。
(……待ってろ、美月)
内臓を焼くような怒りが、ゼクスの胸の内で静かに、だが確実に沸騰していた。
「涼翔の父」として彼女を突き放した。幸せを願って、嘘をついた。それなのに、自分が目を離した隙に、彼女が傷つき、連れ去られる。
その事実が、心の奥底に封じ込めた「涼翔」としての美月への愛と、逃れようのない執着を激しく揺さぶっていた。偽りの仮面の下で、白銀の少年の形をした「獣」が目を覚まそうとしている。
――見つけた。
ウィンドセンスの網に、逃走する五つの影が明確に引っかかる。国境付近の断崖へと続く、獣道。彼らは意識を失った美月を荷物のように無造作に抱え、勝ち誇ったような気配で森を抜けていた。
「――っ!」
ゼクスの瞳が、極低温の殺意に染まる。足首に魔力を集中させ、さらに一段、速度を跳ね上げた。前方、黒装束の集団がようやく異変に気づき、足を止める。
「……なんだ!? 後方から、何かが来るぞ!」
「魔獣か? いや、この魔力は――」
男が言葉を終えるより早く、銀色の閃光が彼らの視界を真っ白に染め上げた。
「……返せ」
地の底から響くような声。夕闇の森に、感情を削ぎ落とした「守護者」の影が降り立つ。その双眸は、沈みゆく夕日の赤を吸い込んだかのように、濁った殺意でぎらついていた。片腕一本で帝国精鋭を蹂躙した、あの悪夢のような少年が、再び彼らの前に立ち塞がった。
「お前が報告にあったゼクスか? うちの残りの部隊はどうした? 王子はどうなった?」
指揮官らしき男が問いながら、鋭利な魔術を放つ。呼応するように残りの四人も、四方からゼクスめがけて殺意の礫を叩き込んだ。
「全員、あの世へ送った」
対するゼクスは、最小限の動きですべてを相殺し、牽制の『アースニードル』を放つ。
「つまり、うちの奴らはまずったのか……それはマズいなぁ……」
男の目に、暗い決意が宿った。エルメリアとの密約、第二王子の命によるエドワード暗殺。エルメリアと手を結ぶのはそもそもこの少年との戦闘放棄の為だ。となるとエドワード暗殺が失敗した今、この少年を仕留めねば、自分たちの帰る場所はない。聖女の誘拐が叶わずとも、せめてこの「イレギュラー」だけは確実に葬り去る――その不退転の殺気が、湿った森の空気を震わせた。
「ちっ、今は邪魔だな」
指揮官は舌打ちし、抱えていた美月をゴミのように地面へ放り投げた。湿った土の上に、無造作に転がされる愛しい人の体。その衝撃で美月の細い肩が跳ね、力なく放り出された手足が、ゼクスの視神経を鋭く切り裂いた。ゼクスの目にドロリとした純粋な怒りが宿る。
「おうおう、こわいこわい。この娘が大事なんだな?」
薄気味悪い笑みを浮かべ、男は美月の髪を掴んで無理やり引きずり起こした。泥に汚れた彼女の顔が、乱暴な手つきで上を向かされる。「ぅ……」と美月の喉から力ない呻きが生体反射のようにこぼれる。
「きさまぁぁぁぁ!」ゼクスが冷静さを欠いていく。その咆哮は、喉の奥が焼けるような、獣の慟哭に近かった。
「ほらほらほらほら……早く助けてあげなよ! どうしたのー? 爆速でうちの七人を倒したとは思えないけどー? 速度も報告より遅いし、何かからくりがあるのかなー?」
拮抗する魔術戦。だが、ゼクスの動きには明らかな制約があった。
(くっ……美月があちら側にいる以上、大規模な魔術は使えない……!)
「ほぉら、こうしたらどうなる?」
男が嘲笑いながら、ゼクスが放った牽制の『アースニードル』の射線上に、意識のない美月を「盾」として突き出した。
「――ッ!?」
ゼクスは戦慄し、慌てて自らの魔術を、自らの魔術で相殺する。だが、その刹那の隙を敵は見逃さなかった。相殺しきれなかった土の槍が、ゼクスの無防備な左腕を深く貫く。
「ひゃははは! かかったな! 思った以上にこの女が大事なのか!」
またしても美月を乱暴に放り投げる男。
貫かれた左腕から鮮血が噴き出すが、ゼクスはその痛みすら感じていなかった。ただ、地面に転がる美月の姿と、それを弄ぶ男の卑劣な笑い声が、彼の理性を最後の一線で繋ぎ止めていた鎖を、粉々に粉砕した。
「……貴様。……ただで死ねると思うなよ」
その声はもはや人のものではなかった。
傷ついた左腕をだらりと下げたまま、ゼクスの周囲の大気が、どす黒い魔力で歪み始める。それは、かつて山で行方不明になった彼女を、死に物狂いで探し求めたあの時の「絶望」が、異世界の魔力と結びついて具現化した「呪い」の渦だった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
……やってしまいましたね、帝国兵。触れてはいけない「逆鱗」を、これ以上ないほど最悪な形で踏み抜きました。
美月の髪を掴み、泥の中に放り投げる。ゼクスが15年間、どれほどの思いで彼女を大切に想い、そしてどれほどの葛藤を抱えて彼女を突き放したかを知る読者からすれば、この敵に許される「死」など存在しないことがわかります。
冷静さを欠いたゼクスの咆哮。
左腕を貫かれながらも、その痛みすら感じず、ただ「どす黒い魔力」を溢れさせるその姿は、救世主でも勇者でもなく、最愛を奪われかけた一人の男の執念そのものです。
自らの魔術で自らを傷つけてまで美月を守ろうとしたゼクスが、ここからどのような「報復」を開始するのか。
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