「帰ったら、いくらでもしてやるから」──ゼクスの妥協が招く、最大級の誤解。
「……男女別? テントが、別々……?」
軍の演習に準ずる遠征。突きつけられた当然の規律。
だが、ゼクスという酸素を奪われたセシルにとって、それは生存を脅かす事態だった。
「お腹トントンしてくれないと寝られない」
彼女の必死な訴えと、それを受け入れてきたゼクスの無自覚。
野営地に広がる凄まじい誤解と、周囲の羨望という名の檻。
そして訪れる、初めての夜。
静寂が、ゼクスの心に奇妙な欠落感を刻み込んでいく──。
設営が終わり、周囲に夜の帳が下りる頃。
拠点に響いた学院騎士団員からの無情な通達に、セシルの顔から瞬時に血の気が引いた。
「……男女別? テントが、別々……?」
「当然だ。今回の遠征は軍の演習に準ずる。規律に従え」
団員の言葉はぐうの音も出ない正論だった。だが、王都へ来て以来「寝る時も一緒(※別のベッドだが)」が当たり前となっていたセシルにとって、それは世界の終わりを告げる審判にも等しい宣告だった。彼女にとってゼクスという存在は、もはや呼吸と同じ。片時も離れることなど、生存本能が拒絶している。
「スーちゃん……離れ離れなんて、嘘だよね? 私、一人じゃ眠れないよ……?」
縋り付くゼクスの裾を掴む指が、白くなるほど強まる。その必死すぎる、あるいは悲劇のヒロインのような様子に、近くで荷解きをしていたクラスメイトのカイルが耐えきれずに吹き出した。
「おいおいセシル、お前ら……本当に毎晩一緒に寝てたのかよ! 意味深すぎるだろ、それ!」
「なっ、カイル! 語弊がある言い方をするな。部屋が同じなだけでベッドは――」
「スーちゃんがいないと、寂しいのっ! 毎日お腹トントンしてくれないと寝付けないんだもん!」
「お腹トントン……!? マジかよゼクス、お前ら……」
「ん? それがどうかしたのか?」という表情をするゼクス。いつからだろうか。セシルに頼まれてするようになり、「トントンしてくれたらよく眠れる」と言われ、いつも世話になっているしな、と日課になっていたそれ。
だが、年頃の男女が「お腹」という、最も無防備で柔らかい場所に触れ、一定のリズムを刻む。その行為がどれほど「独占的」で「親密」な儀式であるか、ゼクスだけが致命的に理解していなかった。カイルの顔が引き攣り、周囲の男子生徒たちの手が止まる。
ゼクスは収拾をつけるべくセシルの肩に手を置いた。その指先からも、彼女の震えが伝わってくる。
「今日は一緒に寝られないから、な? ちゃんと我慢できたら、帰ってからいくらでもしてやるから」
その言葉は、ゼクスなりの妥協と宥めだった。しかし「のテント」を省略してしまったことにより、周囲にはさらに最大級の誤解を生んでしまう。「帰ってから」という言葉もあいまり、まるで静かな夜に繰り返される、秘め事の約束のように響き、野営地に妙な熱気が広がる。
「……ご馳走様です」
「ゼクス、もうお前ら結婚しろよ……」
突き刺さるような羨望と呆れの視線。ミリアやカイルは引き攣った笑顔のまま、静かに一歩引いていった。何か、取り返しのつかない巨大な誤解が定着していく気がする。だが、セシルの「泥」のような執着が深まっていくこの感覚に、今の彼はもはや抗う術を持たなかった。
結局、最後まで不満そうに抵抗し、ゼクスの腕を離そうとしなかったセシルは、通りかかったエレノアに「ほら、ゼクスを困らせないの」と、仔猫のように首根っこを掴まれ、半ば強引に女子テントへと連行されていった。去り際にセシルが投げた、今生の別れのような悲痛な視線が、ゼクスの胸に重くこびりついた。
その夜。
ゼクスは男子テントの硬い地面の上で、横になった。
常に自分を追い、絡みついていたセシルの「視線」と「気配」。それがないことに、不自然なほどの空虚さを感じてしまう。隣のベッドから聞こえていた微かな寝息さえ、今では自分の鼓動より重要だったのだと思い知らされる。
(……なんか静かすぎるな)
皮肉にも、セシルのいない平穏よりも、あの粘り気のある執着がない寂しさが勝り、ゼクスはあまり眠れぬまま、白々と明ける夜明けを迎えた。誰もが明日の「魔獣討伐」に向けて鋭気を養う中で、ゼクスだけが理由の知れない焦燥感に焼かれていた。
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二日間の行軍を経て、景色は次第に険しさを増していく。
かつて栄えたであろう街道の石畳は途切れ、荒涼とした原野と、原生林が不気味に広がる「緩衝地帯」へと足を踏み入れた。東の空を仰げば、山脈の向こう側にガラルド帝国の気配が重くのしかかっている。だが、護衛の騎士たちに緊張の色はない。彼らの関心は、あくまで「森に潜む魔獣」をどう効率よく狩るか、その一点に絞られていた。
「ここいらを拠点とし、明日から大規模な討伐を行う! この周辺の人々が安心して暮らせるよう、各自、最善を尽くすように!」
エドワード王子の凛とした号令が、疲れの見え始めた生徒たちの背筋を伸ばした。夕陽を背に受ける王子の姿は眩しく、平和そのものだ。ゼクスもまた、自分の胸に去来する「嫌な予感」を、単なる寝不足のせいだと自分に言い聞かせ、設営作業へと意識を向けた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
ゼクス、それはアウトです……!(笑)
「お腹トントン」というあまりにも親密な日課、そして「帰ったら、いくらでもしてやる」という、前後の言葉を省略した破壊力抜群の約束。
本人は「子供の寝かしつけ」の延長だと思っていますが、周囲(特にカイルたち男子連中)からすれば、もはや「事後」の相談にすら聞こえているはずです。
しかし、注目すべきはラストのゼクスの心境です。
あれほど「粘り気のある視線」を疎ましく思っていたはずなのに、いざその気配が消えると、セシルの寝息を自分の鼓動よりも重要だと感じてしまう。
セシルが時間をかけて、少しずつ、けれど確実にゼクスの「当たり前」を塗り替えてきた成果が、この孤独な夜に露わになりました。
一方で、舞台はいよいよ魔獣の潜む森へ。
エドワード王子の眩しい号令の裏で、ゼクスが感じる「寝不足ではない焦燥」。
この不穏な予感が何を招くのか。
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